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2023年3月10日金曜日

小説 霊園散歩 9





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 3年振りに会った成田の様子は、驚くことに何一つ変わっていなかった。
 眼光鋭い鷹のような目つきも、小柄で痩せた体つきも変わらず、着ている夏物の薄地の紺色のブレザーとベージュ色のチノパンまでもが、バルト3国を巡っていたときに見たものと同じだった。
 新千歳空港まで迎えに行き、そのまま私の車で東千歳に向かう自動車専用道路に入った。高速の道東道を帯広方向へと向かい、初日はそこを通り過ぎて網走に泊まる予定だった。
 車中での成田はあまり喋ることもなく、8月初めの北海道の夏景色を眺めていた。本州の山景色と北海道のそれとは異なっていた。深山幽谷といった雰囲気はどこまで走ってみても全くないのだけれども、北海道では長閑で牧歌的な山の風景が続いている。実際、牧場の中を通ることもあり、トンネルに入るときには草を食んでいた牧場の牛たちが、すぐ上からこちらをぼんやりと見下ろしていたりするのだった。
 足寄で高速を降りて、ゆっくりとした速度で国道を走るようになると、成田はいろいろと私に話しかけるようになった。
「それで、君の家の建築のほうは進んでいるのかね?」
「まだこれからですよ、やっと家の整理の目処がついたところで、今の家の取り壊しは今月の末になっています。新しい家は9月から建築が始まり来年の2月頃までかかって、外構工事の方は雪解けを待って4月以降になると話していました」
 理絵と30年以上暮らした古い家、理絵が死んだあとに10年近く私が独りで暮らした古い家には、今では木製の家具と電子ピアノだけが残されていた。中を空にした古いタンスなどの木製家具は取り壊しの際に一緒に廃棄される。電子ピアノは、直前になって私が側板と鍵盤などに分解して、廃棄物処理センターに運ぶつもりだった。幸い「家電製品」である電子ピアノは無料で引き取ってもらうことができた。鍵盤部分は分解できず、重さは30キロ程度になると思われたが、それでもSUVの私の車の後部座席をフラットにすれば、自分一人で運ぶことができるはずだ。傷に配慮をする必要もないのだから、理絵のピアノの「埋葬」は独りでしようと思っていた。ただ、気が向かず、先延ばし先延ばしを繰り返してはいた。

「すまないね、僕の希望であちこち走ってもらうことになって。余市のウィスキー工場も予定に組んでくれてありがたいよ」
「どうせまたウィスキーを買って飲むつもりなんでしょう」
 バルト3国の旅、ホテルの部屋で毎晩ウィスキーを飲んでいた成田の姿を私は思い出しながら、からかうようにそう応えた。すると成田は、まるで高校生を相手に講義する老齢の教師のような口調でこう話し始めた。
「君はウィスキーの語源を知っているのかね? 知らない? あれはね、ゲール語で『いのちの水』という言葉から来ているんだよ、驚くよね、いのちの水、だよ。僕の弱ってきた命を長引かせるために、もう少しこの世界で生き続けていくためには是非ともその、いのちの水、というものが必要なんだよ、このことは君にはよく覚えておいてもらいたいものだね」
 網走が第1泊目、次に釧路、そして帯広に泊り、帯広から高速で札幌を通り越して小樽まで行ってそこで4泊目のホテルに泊まる。翌日は余市のウィスキー蒸留所を見学してから、そのまま新千歳空港まで走り、成田を羽田への飛行機に乗せる。これから始まる4泊5日の自動車旅の行程はすっかり出来上がっていた。

 成田はしばらくしてそう訊ねてきた。
「今回の旅行では、相部屋は小樽のホテルだけなのかね?」
「そうです、祝津の水族館の上にあるホテル。そこはシングルルームは無いのでツインルームを予約してあります。僕もそこに泊まるのが初めてなので、ホテルの夕食が美味しいのか、どんな雰囲気のホテルなのかはよく知らないんです。ただ友達はいいホテルだと請け合ってくれましたが」
 道東では網走、釧路、帯広に泊まることになっていたけれども、そうした比較的大きな街にはシングルルームを提供できる快適なホテルがあった。小樽にももちろんそうしたホテルはあったのだけれども、私はこの機会を利用して、ヒヤマが勧めてくれたホテルに宿泊しようと思ったのだ。マーロンの遺灰を沈めた海をそこから見ることのできるホテルに、かねてから泊まってみたいとも思っていた。ただ、そこはリゾートホテルであり、シングルルームは無かった。広いツインルームに独りで泊まることまでして、マーロンの沈む海をわざわざ見に行く気分にはなれなかったので、延び延びになっていたのだ。成田は「相棒」としては最高であり、この機会を逃すのは惜しかった。「余市のウィスキー工場にも行ってみませんか?」と誘ったとき、二つ返事で成田は乗ってきてくれたのである。

 足寄から北見を経由して網走に到着し、ホテルのレストランで夕食を取ってからそれぞれの部屋に戻って眠った。できれば地元の料理屋にでも入ってオホーツク郷土料理でも食べたいところだったが、私も長距離運転で疲れていたし、翌日からも独りで運転を続けなければならなかったので、ホテルのレストランでごく普通の中華料理を食べながら成田とバルト3国旅行の思い出話を軽く触れる程度にしただけだった。ただ、成田は突然こんなことを要望してきた。
「明日、知床半島に行く前に、途中で通る斜里町の博物館に寄ってくれないかね。羽田でネットをいじっていたら面白い博物館だと紹介されている記事を見つけたんだよ」と。
 翌日は網走からウトロ、知床峠を渡って羅臼、そして平野部の単調な道路を釧路まで、といった長距離ドライブだった。その合間に知床ネイチャーセンターや知床五湖の木道歩きも予定していてタイトなスケジュールだったけれども、できるだけ成田の希望は叶えてあげたかった。私は「大丈夫ですよ」と腹のうちとは裏腹に笑って応えた。それでも多少皮肉っぽくこう付け加えた。
「北海道に60年以上暮らしていて、斜里にも知床にも、もう20回以上は行ってますけど、斜里町の博物館というのは僕にも初めてです」
 すると成田はこう応えた。
「僕は社会科の教師だからね、どこに行っても博物館というものには興味があるし、事前にあれこれ調べてみるんだよ」
 私は心の中だけで、(モト教師ね‥‥)と訂正してあげた。


13
 斜里町の博物館はどこの町にもある博物館とあまり変わりはしなかった。土器石器の展示から始まり、太古からのその土地の地形の変化、アイヌ時代、和人の移住、明治大正昭和の日常生活用品や農機具などの展示物、その土地の動植物の紹介、植物の写真、動物の剥製、などなど。私も成田も興味のおもむくままに、銘々で見て回った。
 博物館には別館があり、姉妹都市となっている青森県弘前市と沖縄県竹富町の紹介をやっていた。建物中には、ねぷたの山車や沖縄の民家が再現されていた。その別館に行くには一旦外に出て、林の中を30メートルほど続いている歩道を歩くことになる。幅1メートルくらいのコンクリートのその歩道を、私と成田は並んでゆっくりと歩き出した。
 気がついてみると、そのコンクリート歩道の上には多くの蟻が動き回っていた。身体の大きな蟻の群れが続いたかと思うと、とても小さな蟻の群れもコンクリートを歩いている。しばらく行くとまた違う種類の中くらいの大きさの蟻が群れている。どの種類の蟻の巣が歩道の近くにあるかによって異なるようだが、大きさや形状の違う何種類かの蟻が何百匹もの集団を作って動いていた。
 四方八方に動き回っているそんな蟻たちの上を歩くのだから、当然、中には歩行者である私と成田によって踏み潰されてしまう蟻も出てくる。蟻を踏まないように歩くことは実際には不可能だった。成田は突然立ち止まると、その蟻たちの動き回る姿をじっと眺めていた。
 そうやってじっと蟻たちをしばらく眺めてから、何も言わずに再び成田は歩き出した。
 博物館別館では、ねぷたの山車や沖縄民家よりも、成田は片隅に寄せて放置されていた古い小さなグランドピアノをずっと眺めていた。それは展示されているピアノではなく、捨て場所に困ってそこに放置されているといった雰囲気の古いグランドピアノだった。
「昔はきっといい音を出していただろうね」と成田は年老いてシミと血管の浮いた自分の手をピアノの上に置き、そう呟いた。その時になって私は、成田が今年74歳になることを思い出した。74歳になれば、私もこうした鶏の脚のような手になるのだろう、そう思った。

 斜里町の町外れからはついに知床半島に入った。ウトロまでは左手にオホーツク海を眺めながら快適なドライブが続いた。ウトロの立派な道の駅で短い休憩を取ってから、知床五湖や知床峠へと続いている国道334号線を更に奥へと向かった。途中、ウトロの港を見下ろす「みはらしばし」で車を停めた。眼下遠くにはウトロ港が見え、高さ60メートルのオロンコ岩山に守られたその港の出入り口からは観光船が出てくるのも見ることができた。
 私と成田がウトロ港を見下ろしていたのは2022年8月27日だった。そのおよそ4ヵ月前の4月23日、波浪注意報と暴風注意報を無視して、40年前に製造されて瀬戸内海を走っていた平底の船底である遊覧船は、子供2人を含む26人の乗員乗客を乗せてあの港から死へと旅立っていった。その遊覧船を操る船長は前の年に座礁事故を起こして書類送検中であり、船首の損傷箇所も確実な修理がなされていたか明らかになっていなかった。そして遊覧船は船首から浸水を受け、エンジンは止まり、短時間のうちに沈没してしまったのだった。海に投げ出された26人には、凍りつくように冷たい知床の海水が待っていた。たとえ救命胴衣を付けていたとして生きていることは不可能だっただろう。
「3歳の女の子を抱いて死んでいった若い夫婦は‥‥最期に何を思ったでしょうね‥‥」
 ウトロ港を見下ろしながら私は隣に立つ成田にそう問うように言葉を漏らした。
 成田は黙ったまま港を見下ろしていた。
 私と成田が眺める夏の知床の光景は、春の嵐のそれとは全く異なり、長閑で平和なものだった。成田は顔を私に向けると、できの悪い高校生にでも諭すようないつもの口調で静かにこう言った。
「日本のいたる所、世界のいたる所、どこにでも下劣なクソ野郎ってのはいるものなんだよ。そしてそうした下劣なクソ野郎によって人が殺されたからといって、この美しい世界を否定する必要は微塵もない」
 私には成田がどういった思考回路の末にそんな言葉を発したのか、その時は全く解らなかった。あまりにも唐突に思えるその成田の言葉に、私は何とも返答もできなかった。


 知床五湖の木道を歩き、オホーツク海と知床連山の景色を眺めた。そのあたりまでは天気は良かった。ところが知床峠への急な坂道の続く道路を走っている途中で激しい雨に襲われた。視界が全く効かない時もあるような激しい雨だった。
 当然、知床峠の駐車場に入ってみたところで一歩たりとも外に出られるようなものではなく、そこから単独峰のように聳えて見える羅臼岳の雄姿を楽しむことなど不可能だった。私と成田は知床峠をそのまま通過し、反対側の羅臼の街に降りた。幸い雨は止んだが重苦しい雲が空を覆い尽くしていた。遅い昼食を羅臼の道の駅で取り、そのまま海沿いを南下して標津町から内陸へと入り釧路へ向かった。

 翌朝は釧路川に面して建っているホテルの評判の朝食をゆっくりと取ったあと、「元高校社会科教師」の希望で釧路市立博物館と炭鉱博物館を見物した。
「今回泊まった釧路のホテルもこの市立博物館も同じ建築家による建物です。午後に行く予定の湿原展望台も同じ建築家によるもので、鋼鉄と半円形の曲線を多用した不思議な様式です」
「君は建築物も好きなのかね?」
「建築物は美術作品ですから、というより、一部の建築物は美術作品として鑑賞できますから」
「で、君の考えでは、一部の墓石もまた美術作品として鑑賞できるというわけなんだろうね。さてと、その紫雲台墓地とやらに行こうか。ところで君は『紫雲台』という言葉の意味を知っているのかね?」
 成田は元高校教師然とした口調になって、私にまたあれこれと講義を始めたのだった。

 市立博物館と炭鉱博物館、そして釧路市内では恐らく最大の霊園である紫雲台墓地はそれほど離れていない位置にあった。
 私は大学2年の夏休みに、当時釧路に住んでいた叔母の家にひと月住み込んだことがあった。昼間は自動車学校に通って免許を取り、夜は高校受験を控えた従姉妹の家庭教師をやったのだった。娘の受験勉強の進み具合を心配した叔母の頼みで引き受けたアルバイトだった。もっとも、自動車免許を取ることができるという利点もあった。付き合っていた理絵とはその期間、電話ではなく手紙の遣り取りをした。もっとも理絵には2ヵ月以上の夏休みがあり、私が札幌に戻ってからは毎日デートをしていた。
 その釧路の叔母の家から歩いて数分のところにあったのがこの紫雲台墓地だった。
 夏の釧路は毎日のように霧に包まれていた。当時は今と違って、終日、街に間断なく霧笛が響き渡っていた。その物悲しい霧笛と霧に包まれた肌寒い霊園の中を歩き回ったのは1979年の夏のことだから、成田とそこを歩く43年も前のことだった。
 「霊園散歩」という私の不思議な趣味が生まれた原点は、この釧路の墓地にあったのかもしれない。

 紫雲台墓地は海辺の崖の上に広がっていた。夏、沿岸で発生する大量の霧は南風に運ばれて釧路湿原を覆い、遠く何十キロも先の摩周湖にまで達する。霧の摩周湖はそうやって生まれるのである。その霧が最も濃く、そして頻回に襲うのがこの紫雲台墓地であり、43年前の夏にここを散歩していて濃霧に包まれなかったことが一度でもあったのか、私の記憶は定かではなかった。当時は、まるで異星か異界の廃墟の台地を歩いているかのような感覚に私は毎回浸ったものだった。
 しかし成田と歩いた8月末の日の午後、空は晴れ渡っていた。
 気持ちのいい風の中を私と成田は、左右の墓石の銘に目をやりながら歩き続けた。そうしているうちに、中央近くの一番南側にあったカトリック教徒の墓地区画に行き当たった。
 墓石には十字架が刻み込まれ、聖書から一文も彫り込まれている、そんな区画が続いたかと思うと、突然、大きな壁画の前に出た。高さ2メートル以上幅は7、8メートルある壁画が海を背にして建てられている。壁画の前の地面には、これも7、8メートル四方はあるコンクリートの剥き出しの構造物があった。換気のための U字パイプも突き出ていて、恐らくは地下に造った共同納骨堂なのだろう。壁画の近くには大きな十字架が立てられていて、その中央には磔刑となったキリストの彫像があった。。壁画のほうはタイル画ができていて、中央に衣服を着て天を仰いでいるキリスト、左に使徒たち、右には不思議なことに江戸時代風の武士や商人、そして子供達が描かれていた。
「これは何の意味があるんですか、この髷を結った武士たちは?」
「僕にもさっぱり解らないね」と成田は応えて、その壁画を穏やかな表情で眺めていた。
 私は、ふと、こんなことを成田に訊いてしまった、壁画を並んで眺めながら、成田の顔は見ずに。
「ところで、成田さんがカトリックの信仰から離れてしまった理由というのは何だったんですか?」
 成田は一瞬緊張して黙ってしまったが、やがて口を開いて静かに話し始めた、理解力の無い高校生に優しく諭すような口調で。
「‥‥僕が君を好きになった一番の理由はね、君がプライベートなことをあれこれ訊いてくる男ではないからなんだよ。相部屋になった男たちの中にはあれこれ煩い質問をしてくる人もいたからね。相部屋でなくても、一緒にモスクワやゴルドバのランチのテーブルに付いただけで、あれこれ個人的なことに探りを入れてくることに熱心な御婦人連中も少なくなかった。さて、そんな連中にどうして私的な話を僕が打ち明けなくてはならないというのかね。
 僕は君がバルトでの夜ごとに、墓の話や登山の話、鉄が宇宙で生まれた話や放射性元素の崩壊やカルシウムによる細胞膜電位がどうのこうのという話をしているのを聞くのが好きだったよ。僕自身の話は殆どしなかったし、僕はいつも聞き役に回っていた、バッハとブルックナーに関係すること以外ではいつもね。そう、ウィスキーを飲みながら君のいろいろな話を聞いていることは楽しかった。
 さて、でも、せっかくこんな天気のいい夏の終わりに霊園をこうして散歩をして楽しんでいるのだから、少しは僕の話をしてもいいかな。この理解不能なキリストと江戸時代の会衆の不思議な絵を眺めながらね。
 さっきの君の質問に対する答えはね、実のところは、僕にも解らないんだ、がっかりさせるようで悪いけれどね。見合いをして結婚をして、毎週日曜日に妻と教会に通い、娘が生まれ、毎日高校で授業をし、大きく成長してきた娘にピアノを教え、小さなあの手が鍵盤の上を少しずつ上手く動くのを眺めているのを楽しんでいた。ところが、娘が中学に上がる頃のことだったけれどもね、自分がいつの間にか信仰を失っていることに気づいた、それも完全にね‥‥。
 何か大きな事件があったわけでも信仰を失うきっかけとなるような小さな出来事が積み重なったったわけでもない。教会で聴く神父の言葉に対して皮肉な言葉が頭の中に湧いてくるようになってきたな、と気付いたら、そのうち教会に行く気がしなくなった。妻には随分いろんなことを言われたが、結局日曜日には私は家に残って、妻と娘がミサに出かけるのを見送るようになっていた。
 ただそれだけのことなんだよ。
 教会に行かないようになっても、あちこちのパイプオルガンを自由に弾かせてもらえたし、そのうち教会のパイプオルガンも信仰抜きで使わせて貰えるようになった。宗教から離れてしまっても、宗教音楽はいいものだよ、素晴らしいものだよ。
 ということでね、自分でも信仰を失った理由を人に説明することはできないんだよ、申し訳ないけど。」
「娘さんはどんな反応をしてるです?」
 そう訊いた私は、バルトの夜にも同じ質問をしたことを頭の隅で思い出していた。
 成田は落ち着いた声で、
「あいつは妻とは違って非難がましいことはヒトコトも言わなかった。妻にも私に似ていない、内気で優しい娘だった。」
「いいですよね、京都に嫁に行ってるんなら、たまに成田さんも会いに行って、ついでに京都観光もできますね」
 成田は頷くと、
「そう、京都はとてもいいところだよ。観光客や街の喧騒から逃れて静かに歩ける場所は幾らでもあるし、殆ど人のやって来ない素晴らしい仏像もたくさんあるからね」
 そう言ってしまうと、成田は踵を返して駐車場の方へと私を残して先に歩いていった。