ページ

2023年3月10日金曜日

小説 霊園散歩 3





 家に戻り『ぽっぽまんじゅう』を食べた。理絵が好きだったフォションのアールグレイを淹れて、4人掛けのダイニングテーブルで独りぽつねんと。
 饅頭を食べながら、マーロンが口にした「ハイデルベルグの嘆き男」と「リトアニアの風の美女」について思いを巡らした。
 2019年9月、私は15日間のドイツ周遊旅行に参加した。周遊とはいってもドイツの南半分を回るもので、ミュンヘン、ドレスデン、ベルリンには行くけれども以前からとても興味のあったハンブルグなどの北の街には行かない。それでもボーデン湖やノイシュバインシュタイン城には行けるので申し込んでいたのだった。
 ハイデルベルクの古城近辺の観光にガイドとして付いてくれたは、地元在住の60歳くらいの日本人女性だった。彼女の案内で城を見物し、城主たちの逸話を聞かせてもらった。その女性の話はとても面白いものだったのだが、古城観光の後に回るという学生寮見物やネッカー河畔の散歩には全く興味はなかったので、ツアー会社の添乗員の許可をもらって離団すると、ひとりでハイデルベルクの街を歩き出し、個人的な目的地へと向かった。
 こうした時には、昔では考えもつかなかった便利なものが今では利用できる||スマホ画面に表示されるグーグルマップである。オフラインでも(ネットに繋がっていなくても)、 GPSを利用して初めての見知らぬ街のどこに自分がいるのかを、常に知ることができる。市街地の地図の中で点滅している青い小さな円、そこが自分のいる位置である。これさえあれば決して道に迷うことはないのである。このグーグルマップのおかげで、イスタンブールでもチュニスでも、パリやモスクワやアムステルダムでも、私は何の不安もなくひとりで散歩することができた。
 ハイデルベルクの古城跡で旅の仲間たちと別れて、大きな通りをひとりでひたすら西へ、そして途中から南へと歩く。目指すは「山の墓地」である。
 山の墓地は森の中にあった。森の中に溶け込み、森と一体化していた。
 ヨーロッパや中東・アフリカの大都市の墓地は、当然木々の緑はほとんどなく、地面は墓石や納骨堂で埋め尽くされている。例外はペールラシューズ墓地くらいのもので、パリのこの墓地は比較的緑に恵まれている。ハイデルベルクの山の墓地は、山の中の公園であり、実際私がうろついていた初秋の午後には、どう見ても墓参者とは思えない子供連れの家族の幾組かと擦れ違った。陽気なパパやママたちが、歓声をあげて先を走ってゆく子供達に声を掛けながら歩いていた。柔らかな陽の光と深い緑と子供の歓声と父母の優しい声に、束の間、私は自分がどこを歩いているのかを忘れていた。並ぶ墓石はどれも立派で、ときどきその墓石を飾る彫刻は、美しい若い女性が憂いを帯びて石に寄り添う、そんなものばかりだった。穏やかで落ち着いた死の庭園、形式化され無毒化された死の悲しみ。そんな「偽りの平和な雰囲気」の中をノホホンと歩き続けていた私は、しかし次の瞬間には一挙に現実に引き戻された、ひと組の彫像によって。
 愛する人を失う苦しみを、絶望を、それは見事なまでに表現した彫像だった。
 棺の形をした石台の上に、若い女性が仰向けに横たわっている。人間の実物大の彫像。ゆったりとした古代ローマ風の衣装を着て、その襞のひとつひとつまで大理石で精妙に表現されている。ふくよかな頰は、まるで今でも生きているかのように生命感に溢れているが、それはたった今しがた死んだことを表現しているのだろう。というのも、その女性の横には、地べたに倒れ込んでいる筋骨逞しい男がいて、これもまた古代ローマ風のトーガを袈裟懸けにまとっている。その男は、地面に四つん這いになるかのように倒れこみ、左手は地面にあて、そして右手は顔を覆って嘆いているのだった。嗚咽しているのだろう。
 2013年1月、当時私が勤務していた病院の10階にある個室で理絵は息を引き取った。明け方だった。雪の降っていない、厳しい凍れの朝だった。看護師が当直医を呼びにいっているあいだに、病室には理絵と私しかいなかった。私の胸に抱かれるようにして、理絵は最後の息を終えた。私にはただ泣くことしかできなかった。病室の床に崩折れて、手をつき、もう一方の手で顔を覆って慟哭した。
 あの時の、あの朝の自分の姿が、なんと、遠い異国の山の墓地、ハイデルベルクの森の中でひっそりと存在し続けて、私の訪れをずっと待っていたのである。
 理絵の死から6年半の月日が流れていたので、私はある程度は落ち着いてその「ハイデルベルグの嘆き男」を見ることができた。そうでなければ3枚の写真を撮るなどということはできなかっただろう。しかし、ほんの3枚の写真を急いで撮ること、それが私にとっては限度だった。その場に崩れかねないほどの目眩を覚えながら、それでもなんとかヨロヨロと、右、左、と口の中で呟きながら脚を動かして、その場所から遠ざかることができた。
「‥‥俺の命‥‥俺の太陽‥‥俺の命‥‥俺の太陽‥‥」
 そんな言葉が頭の中に蘇った。
 理絵が死んだその朝、病室の床に四つん這いになって、泣きながら口から絞り出していた言葉だった。

 穴あけパンチという道具がある。
 紙に円い小さな穴を開ける道具である。2穴パンチもあるし、私はルーズリーフ用の30穴パンチも持っている、鋼鉄製の頑丈でとても重い道具である。それを見るたびに、思う、〈神様〉は「1穴パンチ」を持っているのだと。もっとも、神様のものは紙に穴を開ける道具ではない、人間の胸に穴を開ける道具である。理絵を喪った朝、神様は私のところにやってきて、彼が手にしていたその1穴パンチで、いとも簡単に、血を流すこともなく、私の胸に直径20センチくらいの穴を開けた。
 心臓は、命は、太陽は、私から完全に奪い去られてしまった、理絵と共に。
 しかしそこは偉大な神様の力である。心臓も命も太陽も失った男は、そのまま死にもせずに形だけは生きてゆくことができるのである。食べ、飲み、排便し、眠り‥‥それだけの男として。ハイデルベルクの嘆き男が私と同じように、胸に大きな空洞、トンネルのような穴を開けたまま、それでも死にもせずに生きていったであろうことを私は体験から知っていた。
 唯一、時間の経過だけが、男を四つん這いから立ち上がらせ、涙を乾かせ、再び歩き出させることができる。たとえそうであったとしても、愛する女性を失った男は、中心に穴の開いた小さな紙片のように風に吹かれて生きてゆくしかない。
 穴の開いた紙切れのような存在である私は、ハイデルベルクまで飛ばされて、そこで理絵を喪った朝の自分の姿を発見したのである。
 そんな話をマーロンにしたのは、2019年12月の2人の忘年会でのことだった。
「今年印象に残った墓がもう一つあるんだ、リトアニアで見つけた」
 私はマーロンに話し続けた。

 その年の7月、リトアニアの首都ヴィニュリスを私は観光していた。団体で昼食を取ったリトアニア料理のレストランは、市内中心部から少し離れたところにあったが、私は食事を早々に終えてしまうとその日も離団して、一人で街を歩き出した。ツアーの仲間たちは昼食後にバスに乗って市の中心部に戻り、街の名所を観て歩くことになっていたが、私には他に是非とも見物したい場所があった||リトアニアの大規模な墓地である。
 レストランから一本道の通りを歩き、ネリス川を越える橋を渡るとそこに「聖ペテロ聖パウロ教会」がある。そしてこの奥には、広大な敷地を有する「アンタカルニオ墓地」が広がっているのだった。墓地まではいつものようにグーグルマップの助けを借りて、レストランから30分ほどの歩きで迷うことなく着くことができた。
 兵士の集団墓石や戦争の記念碑がところどころにあった。しかし広い墓地のほとんどを占めているのは個人の墓であり、そしてそれらは驚くほど奇抜な彫刻で飾られていることが多かった。もちろんキリスト教に関係した彫像が多いのだけれども、そのどれもが「現代的」であり、まるでサグダラファミリア教会の東側を飾っているような現代的に簡素化された石像だった。ドイツ中部の墓地で比較的多く見るような、古典的写実的キリスト像やマリア像、あるいは嘆きの乙女の彫像といったものは存在せず、エルンスト・バルラッハの作品を彷彿させるようなものが多かった。そんな不思議な彫像が並ぶ墓石の中を歩いていて、突然目の前に現れたのが、「風の美女」の線刻だった。
 縦80センチほど、横1メートルほど、厚さ20センチほどの黒い平板の石が立てられていて、その表面には幅数ミリから1センチほどの線が彫り込まれ、女性の単純化された顔が描かれている。彫り込まれた線は灰色となっていて、黒い画面に美しく映えている。
 女性の髪は垂れ下がる細い木の枝で表現されている。その枝には木の葉が付いている。一本の細い枝が風に揺れて、女性の顔にかぶさる。その枝先は他の部位の木の葉とは異なり、2枚の葉が付いていて、ちょうどそれが女性の唇を形作る場所にあるのだ。まるで、その女性が何かを喋ってでもいるかのように、2枚の木の葉は少し開いている。風の中から彼女の声が聞こえてきそうだ。
 目はアーモンド型の大きなものなのだけれども、上の瞼が少し下がっている。両方の瞳の円形は上3分の1ほどがその瞼によって隠されている。その瞳は遠く遥か彼方を見つめているかのようで、鼻梁は額から流れる美しい一本の曲線だけで表現されている。木の枝の髪は風に揺れ、唇の木の葉は何かを語るかのように揺れ、美しい瞳はこの世を超えた遠い世界を見遣っている。
 それが、「リトアニアの風の美女の墓」だった。
 もっとも、こちらは「ハイデルベルグの嘆き男」とは異なり、ちゃんとそこに眠っている故人の名前が彫り込まれている石が設置されている。風の美女を彫った石板へと続く4段の階段状の石板が置かれていて、その石板の一番下のものにこう彫られていた。

《Stasys Krasauskas(1929-1977)
 Nijole Krasauskiene(1929-2006) 》

 エストニア語では、姓には男性形と女性形がある、ロシア語と同じように。だからこの二人の男女は夫婦だろう。Stasysは男性の名前、Nijoleは女性の名前だろう。スタシスは48歳で死に、ニジョレは77歳で死んでいる。スタシスが死んだ後、恐らく妻であるニジョレは29年間も生きたことになる。
 スタシスの考案なのか、それともニジョレが手配したのかは知らないけれども、この、黒い石に刻まれた・線刻された若い女性の顔は、悲しみとか苦悩とかを軽く超越したものを感じさせてくれた。見る者を一瞬で捉えてしまうような圧倒的な魅力が、この墓石にはあった。
 一人の男と一人の女が、この地で、共に懸命に生きたことがかつてあった。それだけのことを、風に流れる髪と、はるか彼方を見つめる瞳と、そして髪にかかる若葉が唇の形となって声にならない囁きを、見る者に聞かせてくれていた。十字架とか宗教がらみのものは一切無く、大げさに死者を悼むキリストや天使や聖母の彫像などもない、きわめてスンナリと見る者の心の中に飛び込んでくる墓。人は、生まれ、愛し、死んでゆくという単純な事実を教えてくれる墓だった。
 スタシスが死んだ1977年は、まだリトアニアがソ連に支配され、KGBによる秘密の処刑がリトアニア人を恐怖に陥れていた時代だったはずだった。リトアニアでも、ラトヴィアでも、そしてエストニアでもソ連やKGB関連した施設を私は見物してきた。ヴィニュリスの旧KGBでは、そこで多くのリトアニア人が殺されたという地下室も見た。
 ニジョレはそうした過酷な社会を生き延び、リトアニアがソ連から独立するのを見届け、人生の最後の15年ほどは比較的自由な社会で生きることができたことだろう。
 スタシスとニジョレのこの墓石をじっと見つめていると、風の美女の髪が永遠に風に揺れるのを感じることができる。そして、あの残酷な時代にも、一組の男と女が確かに愛し合って生きていたのだと信じることができる。

 2019年12月の忘年会で、私はその年に巡り合って最も感動した2つの墓、「ハイデルベルグの嘆き男」と「リトアニアの風の美女」について、そんな風に長々とマーロンに話し、その2つの墓の写真を彼に見せた。
「いったい、これは何を現しているんだろうね」と私は、2つの写真を交互に何度も見つめながら続けた。「この嘆き男やこの風の美女が、どんな人生を生きたのかは誰も知らないし、少なくとも僕には知る手立てはない」
「でもそうやって、愛する女を失った男が床に這いつくばって悲しんだということや、恐怖の時代のリトアニアで愛し合って暮らした男と女がいた、ということだけは知ることはできるし、それで十分じゃないか」とマーロンは応えた。
「おまえの霊園散歩の話を聞いていると、不思議なことに俺も世界中の墓場を散歩してみたくなるよ、おまえがそのうち行くつもりだと言っているルーマニアの陽気な墓地とかブエノスアイレスのレコレータ墓地、そしてベニスの墓地の島とかにね」
「一緒に行こうよ。奥さんも連れてさ、僕が案内してあげるよ、ハイデルベルグにもリトアニアにも、もう一度行ってみたいと思っているんだ」
 するとマーロンは軽い溜息をつき、いつもの優しい微笑みを浮かべながら、
「墓場見物の旅行に出るよりも、自分が先に墓に入るかもしれない」と応えた。
「またなに縁起でもないこと言ってんのさ。そんなのずっと先のことだよ。何なら来年でもツアーに申し込もうか、飛び切りいいのを僕が探すよ」
 マーロンは首を横に振ると、
「もう、ちょっと遅いな。体力に自信がなくてな、それに家で奥さんとブラブラしている方が、今の俺には似合っているようだ」と苦笑した。
(いいねー、あんたには長年連れ添ってきた奥さんがいて‥‥)
 愛妻が家でマーロンを待っている。そんなマーロンを『世界の墓場巡りの旅』に誘うなんてことは無理なのだと私は理解した。


 マーロンとパン屋の喫茶室で会い、新型コロナワクチン大規模接種会場での仕事を引き受けさせられた翌日の朝10時過ぎに、医療サービス会社の葛城という男性から私の携帯に電話がかかってきた。マーロンから連絡を受けたのだという。
「お引き受けいただき、誠にありがとうございます」
 葛城の声の調子には、ホッとしたという安堵があった。
 その会社は札幌市からの依頼を受けて、コロナワクチン集団接種事業の「一部」を運営している医療サービス会社だった。法人組織であり、病院経営から集団健診事業など手広くおこなっており、今回はワクチン大規模接種事業を札幌市から請け負うことになったのだった。葛城の会社は医者や看護師を集め、実際の問診・ワクチン接種を行う部門を担っていた。それ以外の大勢の誘導スタッフなどは、別の人材派遣会社や大手旅行会社の子会社が担当しているようでだった
 大規模接種会場での市民の案内や膨大な数のコンピューター情報処理、接種後の受診者の観察などをする100人単位のスタッフを、幾つもの会社が「分割して」請け負っていた。そうした「混成部隊」によって、前代未聞空前絶後の「希望する市民全てへのワクチン接種事業」が開始されていたのだった。
 札幌テレビ塔近くにあるビルの中で、私は葛城と初めて会った。彼は30代半ばの有能な銀行員といった雰囲気のスーツ姿の人物だった。
「栗山先生のお話では、杉田先生は少なくとも週に4日は働けるということでしたが?」
「えっ? 栗山先生は週に2日働く予定だと言ってたので、僕もてっきりその穴埋めに週2日働けば済むと思っていましたが?」
「いえ、あのー、栗山先生のお話では自分とは違って杉田先生は時間的にも体力的にも余裕があるので週4日で大丈夫だから、それで予定を組むようにと伺っていたのですが‥‥。実はもうその線で予定を入れて、契約書も用意しているのですが」
 葛城は明らかに困惑していた。
「申し訳ありませんが、杉田先生には週4日で御検討いただけないでしょうか?」
 マーロンの奴め、ヒトをとことん働かせようとして最初からこうするつもりだったんだな‥‥。
 私はもう面倒になり、こう応えた。
「わかりました。週4日でも構いません。ただし週末は休みたいので、土曜日曜は入れないでください」
 結局私は毎週月曜から木曜日まで、6月6日から12月6日までの半年間、札幌中島公園にある札幌パークホテルの大規模接種会場で働く契約を交わしたのだった。


 札幌市の中島公園の中に札幌パークホテルはある。
 正確には「公園に接して」なのだろうけれども、境界はあってなきに等しいものなので、その名の通り「公園(パーク)ホテル」となっている。1964年に開業しているこのホテルは、もともと、1972年の札幌冬季オリンピック開催のために国際基準に適合した宿泊施設の必要から建設された。
 中島公園の南端には、地下鉄の「幌平橋駅」がある。高校の3年間、私はこの駅を降りてから10分ほど歩いて学校に通っていた。高校時代、授業をサボってこの公園の中を歩いたことは何十回とあったし、高校3年になってからは同級生のガールフレンドと何度かデートをした場所でもあった。そのガールフレンドこそが、私の妻となった理絵だった。この公園でデートをしていた頃の理絵と私はまだ17歳だった。
 中島公園という場所は、だから、いろいろなことを私に思い出させるところなのである。理絵を喪い、独りになって、また中島公園にこうして62歳になってから頻繁に通うようになるとは想像もしていなかった。生きていれば、生き残ってしまえば、いろいろな事柄に翻弄されることになる。
 ホテルの正面玄関から中に入り、フロントを通り過ぎ、そのままエレベーター前を通って右手に歩いて行くと、天井から床まで続いているガラスの壁が西に面して広がっている。外は庭園である。30メートル近く続いているそのガラスの壁の手前半分ほどは朝食会場などに使われるレストランで、残り半分は小さなホールに通じる通路になっている。幅3メートルほど、長さ15メートルほどのその通路には、壁に接して幾つかの長椅子がある。ソファーではなく、薄いクッションを張っただけの硬い長椅子。その長椅子に座ると、ガラス壁の向こうには庭園が広がっているのだった。
 月曜日から木曜日の毎週4日間、7時半頃から8時半頃までの1時間のあいだ、この長椅子に座るのが私の習慣になってしまった。座っているうちに背中も尻も痛くなってくるこの長椅子で、庭園の芝生と滝と木の茂み、そして藻岩山と空を眺めるのが週に4日の朝の日課になっていた。新型コロナワクチン大規模接種の業務は、ホテル地下2階にある大ホールで実施されていた。朝9時にミーティングが始まり、医者の問診は9時半から始まる。だから8時半に会場に入れば十分間に合うのだが、私はホテルには7時半前には着くようにしていた。
 札幌パークホテルは札幌の繁華街の南端に位置していたが、そこに通じる主要道路は朝の渋滞がひどい。渋滞が大嫌いな私は家を7時には出て、まだ空いている道を走って20分弱でホテルに着くようにしていたのである。8時の渋滞時間に家を出ると同じ経路でも1時間はかかってしまう。
 そうやって通勤し、ホテルが臨時に用意した「医師用駐車スペース」に車を入れ、近くのコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、それを手にして庭園前の長椅子に座る、それがお決まりの朝のパターンになっていた。
 庭園の中で流れている滝は、軽井沢の白糸の滝を彷彿させた。理絵とそこに行ったのは2000年頃だったろうか。軽井沢の滝は幅70メートル、高さ3メートルほどあり、大噴火で堆積した地層と古い地層の界から地下水が溢れ出している。細い白い糸のように流れ続けるその水の舞台は、深閑とした深い森の中にあった。小雨が降って人影もほとんど無いその森の中で、傘も差さずいつまでも理絵と二人でその滝を眺め続けていた記憶が私の頭の中にある。
 札幌パークホテルの庭園の滝は、しかし、全く人工のものだった。幅40メートル、高さ2メートルほどのその滝の裏は、模造岩石のコンクリートブロックで造られていて、流れ落ちる水はやがて無粋なステンレス格子に吸い込まれる。そこで小川は完全に地下の設備に吸い込まれるのだけれども、その水は電気ポンプによって吸い上げられて2メートルの高さと何十メートルかの通路を戻り、また再び滝の水として落ちて循環し続けるのである。
 ある日、偶然早く来てしまって、朝7時前に庭園を眺めるいつものベンチ席に腰を下ろしたことがある。
 庭に目をやって、唖然とした。
 滝は消えていたのである。
 そこには剥き出しの模造岩石コンクリートブロックの壁が続いているだけだった。しかし、7時を過ぎると、突如として滝が出現した。つまりは電動モーターのスイッチが入り、水の循環が始まったというわけである。朝7時過ぎから始まり、夜は何時まで続くのだろうか。確かなことは、誰も見ることのない深夜から早朝にかけては電気代の節約のために滝は消えてしまっているということである。