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2023年3月10日金曜日

小説 霊園散歩 9





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 3年振りに会った成田の様子は、驚くことに何一つ変わっていなかった。
 眼光鋭い鷹のような目つきも、小柄で痩せた体つきも変わらず、着ている夏物の薄地の紺色のブレザーとベージュ色のチノパンまでもが、バルト3国を巡っていたときに見たものと同じだった。
 新千歳空港まで迎えに行き、そのまま私の車で東千歳に向かう自動車専用道路に入った。高速の道東道を帯広方向へと向かい、初日はそこを通り過ぎて網走に泊まる予定だった。
 車中での成田はあまり喋ることもなく、8月初めの北海道の夏景色を眺めていた。本州の山景色と北海道のそれとは異なっていた。深山幽谷といった雰囲気はどこまで走ってみても全くないのだけれども、北海道では長閑で牧歌的な山の風景が続いている。実際、牧場の中を通ることもあり、トンネルに入るときには草を食んでいた牧場の牛たちが、すぐ上からこちらをぼんやりと見下ろしていたりするのだった。
 足寄で高速を降りて、ゆっくりとした速度で国道を走るようになると、成田はいろいろと私に話しかけるようになった。
「それで、君の家の建築のほうは進んでいるのかね?」
「まだこれからですよ、やっと家の整理の目処がついたところで、今の家の取り壊しは今月の末になっています。新しい家は9月から建築が始まり来年の2月頃までかかって、外構工事の方は雪解けを待って4月以降になると話していました」
 理絵と30年以上暮らした古い家、理絵が死んだあとに10年近く私が独りで暮らした古い家には、今では木製の家具と電子ピアノだけが残されていた。中を空にした古いタンスなどの木製家具は取り壊しの際に一緒に廃棄される。電子ピアノは、直前になって私が側板と鍵盤などに分解して、廃棄物処理センターに運ぶつもりだった。幸い「家電製品」である電子ピアノは無料で引き取ってもらうことができた。鍵盤部分は分解できず、重さは30キロ程度になると思われたが、それでもSUVの私の車の後部座席をフラットにすれば、自分一人で運ぶことができるはずだ。傷に配慮をする必要もないのだから、理絵のピアノの「埋葬」は独りでしようと思っていた。ただ、気が向かず、先延ばし先延ばしを繰り返してはいた。

「すまないね、僕の希望であちこち走ってもらうことになって。余市のウィスキー工場も予定に組んでくれてありがたいよ」
「どうせまたウィスキーを買って飲むつもりなんでしょう」
 バルト3国の旅、ホテルの部屋で毎晩ウィスキーを飲んでいた成田の姿を私は思い出しながら、からかうようにそう応えた。すると成田は、まるで高校生を相手に講義する老齢の教師のような口調でこう話し始めた。
「君はウィスキーの語源を知っているのかね? 知らない? あれはね、ゲール語で『いのちの水』という言葉から来ているんだよ、驚くよね、いのちの水、だよ。僕の弱ってきた命を長引かせるために、もう少しこの世界で生き続けていくためには是非ともその、いのちの水、というものが必要なんだよ、このことは君にはよく覚えておいてもらいたいものだね」
 網走が第1泊目、次に釧路、そして帯広に泊り、帯広から高速で札幌を通り越して小樽まで行ってそこで4泊目のホテルに泊まる。翌日は余市のウィスキー蒸留所を見学してから、そのまま新千歳空港まで走り、成田を羽田への飛行機に乗せる。これから始まる4泊5日の自動車旅の行程はすっかり出来上がっていた。

 成田はしばらくしてそう訊ねてきた。
「今回の旅行では、相部屋は小樽のホテルだけなのかね?」
「そうです、祝津の水族館の上にあるホテル。そこはシングルルームは無いのでツインルームを予約してあります。僕もそこに泊まるのが初めてなので、ホテルの夕食が美味しいのか、どんな雰囲気のホテルなのかはよく知らないんです。ただ友達はいいホテルだと請け合ってくれましたが」
 道東では網走、釧路、帯広に泊まることになっていたけれども、そうした比較的大きな街にはシングルルームを提供できる快適なホテルがあった。小樽にももちろんそうしたホテルはあったのだけれども、私はこの機会を利用して、ヒヤマが勧めてくれたホテルに宿泊しようと思ったのだ。マーロンの遺灰を沈めた海をそこから見ることのできるホテルに、かねてから泊まってみたいとも思っていた。ただ、そこはリゾートホテルであり、シングルルームは無かった。広いツインルームに独りで泊まることまでして、マーロンの沈む海をわざわざ見に行く気分にはなれなかったので、延び延びになっていたのだ。成田は「相棒」としては最高であり、この機会を逃すのは惜しかった。「余市のウィスキー工場にも行ってみませんか?」と誘ったとき、二つ返事で成田は乗ってきてくれたのである。

 足寄から北見を経由して網走に到着し、ホテルのレストランで夕食を取ってからそれぞれの部屋に戻って眠った。できれば地元の料理屋にでも入ってオホーツク郷土料理でも食べたいところだったが、私も長距離運転で疲れていたし、翌日からも独りで運転を続けなければならなかったので、ホテルのレストランでごく普通の中華料理を食べながら成田とバルト3国旅行の思い出話を軽く触れる程度にしただけだった。ただ、成田は突然こんなことを要望してきた。
「明日、知床半島に行く前に、途中で通る斜里町の博物館に寄ってくれないかね。羽田でネットをいじっていたら面白い博物館だと紹介されている記事を見つけたんだよ」と。
 翌日は網走からウトロ、知床峠を渡って羅臼、そして平野部の単調な道路を釧路まで、といった長距離ドライブだった。その合間に知床ネイチャーセンターや知床五湖の木道歩きも予定していてタイトなスケジュールだったけれども、できるだけ成田の希望は叶えてあげたかった。私は「大丈夫ですよ」と腹のうちとは裏腹に笑って応えた。それでも多少皮肉っぽくこう付け加えた。
「北海道に60年以上暮らしていて、斜里にも知床にも、もう20回以上は行ってますけど、斜里町の博物館というのは僕にも初めてです」
 すると成田はこう応えた。
「僕は社会科の教師だからね、どこに行っても博物館というものには興味があるし、事前にあれこれ調べてみるんだよ」
 私は心の中だけで、(モト教師ね‥‥)と訂正してあげた。


13
 斜里町の博物館はどこの町にもある博物館とあまり変わりはしなかった。土器石器の展示から始まり、太古からのその土地の地形の変化、アイヌ時代、和人の移住、明治大正昭和の日常生活用品や農機具などの展示物、その土地の動植物の紹介、植物の写真、動物の剥製、などなど。私も成田も興味のおもむくままに、銘々で見て回った。
 博物館には別館があり、姉妹都市となっている青森県弘前市と沖縄県竹富町の紹介をやっていた。建物中には、ねぷたの山車や沖縄の民家が再現されていた。その別館に行くには一旦外に出て、林の中を30メートルほど続いている歩道を歩くことになる。幅1メートルくらいのコンクリートのその歩道を、私と成田は並んでゆっくりと歩き出した。
 気がついてみると、そのコンクリート歩道の上には多くの蟻が動き回っていた。身体の大きな蟻の群れが続いたかと思うと、とても小さな蟻の群れもコンクリートを歩いている。しばらく行くとまた違う種類の中くらいの大きさの蟻が群れている。どの種類の蟻の巣が歩道の近くにあるかによって異なるようだが、大きさや形状の違う何種類かの蟻が何百匹もの集団を作って動いていた。
 四方八方に動き回っているそんな蟻たちの上を歩くのだから、当然、中には歩行者である私と成田によって踏み潰されてしまう蟻も出てくる。蟻を踏まないように歩くことは実際には不可能だった。成田は突然立ち止まると、その蟻たちの動き回る姿をじっと眺めていた。
 そうやってじっと蟻たちをしばらく眺めてから、何も言わずに再び成田は歩き出した。
 博物館別館では、ねぷたの山車や沖縄民家よりも、成田は片隅に寄せて放置されていた古い小さなグランドピアノをずっと眺めていた。それは展示されているピアノではなく、捨て場所に困ってそこに放置されているといった雰囲気の古いグランドピアノだった。
「昔はきっといい音を出していただろうね」と成田は年老いてシミと血管の浮いた自分の手をピアノの上に置き、そう呟いた。その時になって私は、成田が今年74歳になることを思い出した。74歳になれば、私もこうした鶏の脚のような手になるのだろう、そう思った。

 斜里町の町外れからはついに知床半島に入った。ウトロまでは左手にオホーツク海を眺めながら快適なドライブが続いた。ウトロの立派な道の駅で短い休憩を取ってから、知床五湖や知床峠へと続いている国道334号線を更に奥へと向かった。途中、ウトロの港を見下ろす「みはらしばし」で車を停めた。眼下遠くにはウトロ港が見え、高さ60メートルのオロンコ岩山に守られたその港の出入り口からは観光船が出てくるのも見ることができた。
 私と成田がウトロ港を見下ろしていたのは2022年8月27日だった。そのおよそ4ヵ月前の4月23日、波浪注意報と暴風注意報を無視して、40年前に製造されて瀬戸内海を走っていた平底の船底である遊覧船は、子供2人を含む26人の乗員乗客を乗せてあの港から死へと旅立っていった。その遊覧船を操る船長は前の年に座礁事故を起こして書類送検中であり、船首の損傷箇所も確実な修理がなされていたか明らかになっていなかった。そして遊覧船は船首から浸水を受け、エンジンは止まり、短時間のうちに沈没してしまったのだった。海に投げ出された26人には、凍りつくように冷たい知床の海水が待っていた。たとえ救命胴衣を付けていたとして生きていることは不可能だっただろう。
「3歳の女の子を抱いて死んでいった若い夫婦は‥‥最期に何を思ったでしょうね‥‥」
 ウトロ港を見下ろしながら私は隣に立つ成田にそう問うように言葉を漏らした。
 成田は黙ったまま港を見下ろしていた。
 私と成田が眺める夏の知床の光景は、春の嵐のそれとは全く異なり、長閑で平和なものだった。成田は顔を私に向けると、できの悪い高校生にでも諭すようないつもの口調で静かにこう言った。
「日本のいたる所、世界のいたる所、どこにでも下劣なクソ野郎ってのはいるものなんだよ。そしてそうした下劣なクソ野郎によって人が殺されたからといって、この美しい世界を否定する必要は微塵もない」
 私には成田がどういった思考回路の末にそんな言葉を発したのか、その時は全く解らなかった。あまりにも唐突に思えるその成田の言葉に、私は何とも返答もできなかった。


 知床五湖の木道を歩き、オホーツク海と知床連山の景色を眺めた。そのあたりまでは天気は良かった。ところが知床峠への急な坂道の続く道路を走っている途中で激しい雨に襲われた。視界が全く効かない時もあるような激しい雨だった。
 当然、知床峠の駐車場に入ってみたところで一歩たりとも外に出られるようなものではなく、そこから単独峰のように聳えて見える羅臼岳の雄姿を楽しむことなど不可能だった。私と成田は知床峠をそのまま通過し、反対側の羅臼の街に降りた。幸い雨は止んだが重苦しい雲が空を覆い尽くしていた。遅い昼食を羅臼の道の駅で取り、そのまま海沿いを南下して標津町から内陸へと入り釧路へ向かった。

 翌朝は釧路川に面して建っているホテルの評判の朝食をゆっくりと取ったあと、「元高校社会科教師」の希望で釧路市立博物館と炭鉱博物館を見物した。
「今回泊まった釧路のホテルもこの市立博物館も同じ建築家による建物です。午後に行く予定の湿原展望台も同じ建築家によるもので、鋼鉄と半円形の曲線を多用した不思議な様式です」
「君は建築物も好きなのかね?」
「建築物は美術作品ですから、というより、一部の建築物は美術作品として鑑賞できますから」
「で、君の考えでは、一部の墓石もまた美術作品として鑑賞できるというわけなんだろうね。さてと、その紫雲台墓地とやらに行こうか。ところで君は『紫雲台』という言葉の意味を知っているのかね?」
 成田は元高校教師然とした口調になって、私にまたあれこれと講義を始めたのだった。

 市立博物館と炭鉱博物館、そして釧路市内では恐らく最大の霊園である紫雲台墓地はそれほど離れていない位置にあった。
 私は大学2年の夏休みに、当時釧路に住んでいた叔母の家にひと月住み込んだことがあった。昼間は自動車学校に通って免許を取り、夜は高校受験を控えた従姉妹の家庭教師をやったのだった。娘の受験勉強の進み具合を心配した叔母の頼みで引き受けたアルバイトだった。もっとも、自動車免許を取ることができるという利点もあった。付き合っていた理絵とはその期間、電話ではなく手紙の遣り取りをした。もっとも理絵には2ヵ月以上の夏休みがあり、私が札幌に戻ってからは毎日デートをしていた。
 その釧路の叔母の家から歩いて数分のところにあったのがこの紫雲台墓地だった。
 夏の釧路は毎日のように霧に包まれていた。当時は今と違って、終日、街に間断なく霧笛が響き渡っていた。その物悲しい霧笛と霧に包まれた肌寒い霊園の中を歩き回ったのは1979年の夏のことだから、成田とそこを歩く43年も前のことだった。
 「霊園散歩」という私の不思議な趣味が生まれた原点は、この釧路の墓地にあったのかもしれない。

 紫雲台墓地は海辺の崖の上に広がっていた。夏、沿岸で発生する大量の霧は南風に運ばれて釧路湿原を覆い、遠く何十キロも先の摩周湖にまで達する。霧の摩周湖はそうやって生まれるのである。その霧が最も濃く、そして頻回に襲うのがこの紫雲台墓地であり、43年前の夏にここを散歩していて濃霧に包まれなかったことが一度でもあったのか、私の記憶は定かではなかった。当時は、まるで異星か異界の廃墟の台地を歩いているかのような感覚に私は毎回浸ったものだった。
 しかし成田と歩いた8月末の日の午後、空は晴れ渡っていた。
 気持ちのいい風の中を私と成田は、左右の墓石の銘に目をやりながら歩き続けた。そうしているうちに、中央近くの一番南側にあったカトリック教徒の墓地区画に行き当たった。
 墓石には十字架が刻み込まれ、聖書から一文も彫り込まれている、そんな区画が続いたかと思うと、突然、大きな壁画の前に出た。高さ2メートル以上幅は7、8メートルある壁画が海を背にして建てられている。壁画の前の地面には、これも7、8メートル四方はあるコンクリートの剥き出しの構造物があった。換気のための U字パイプも突き出ていて、恐らくは地下に造った共同納骨堂なのだろう。壁画の近くには大きな十字架が立てられていて、その中央には磔刑となったキリストの彫像があった。。壁画のほうはタイル画ができていて、中央に衣服を着て天を仰いでいるキリスト、左に使徒たち、右には不思議なことに江戸時代風の武士や商人、そして子供達が描かれていた。
「これは何の意味があるんですか、この髷を結った武士たちは?」
「僕にもさっぱり解らないね」と成田は応えて、その壁画を穏やかな表情で眺めていた。
 私は、ふと、こんなことを成田に訊いてしまった、壁画を並んで眺めながら、成田の顔は見ずに。
「ところで、成田さんがカトリックの信仰から離れてしまった理由というのは何だったんですか?」
 成田は一瞬緊張して黙ってしまったが、やがて口を開いて静かに話し始めた、理解力の無い高校生に優しく諭すような口調で。
「‥‥僕が君を好きになった一番の理由はね、君がプライベートなことをあれこれ訊いてくる男ではないからなんだよ。相部屋になった男たちの中にはあれこれ煩い質問をしてくる人もいたからね。相部屋でなくても、一緒にモスクワやゴルドバのランチのテーブルに付いただけで、あれこれ個人的なことに探りを入れてくることに熱心な御婦人連中も少なくなかった。さて、そんな連中にどうして私的な話を僕が打ち明けなくてはならないというのかね。
 僕は君がバルトでの夜ごとに、墓の話や登山の話、鉄が宇宙で生まれた話や放射性元素の崩壊やカルシウムによる細胞膜電位がどうのこうのという話をしているのを聞くのが好きだったよ。僕自身の話は殆どしなかったし、僕はいつも聞き役に回っていた、バッハとブルックナーに関係すること以外ではいつもね。そう、ウィスキーを飲みながら君のいろいろな話を聞いていることは楽しかった。
 さて、でも、せっかくこんな天気のいい夏の終わりに霊園をこうして散歩をして楽しんでいるのだから、少しは僕の話をしてもいいかな。この理解不能なキリストと江戸時代の会衆の不思議な絵を眺めながらね。
 さっきの君の質問に対する答えはね、実のところは、僕にも解らないんだ、がっかりさせるようで悪いけれどね。見合いをして結婚をして、毎週日曜日に妻と教会に通い、娘が生まれ、毎日高校で授業をし、大きく成長してきた娘にピアノを教え、小さなあの手が鍵盤の上を少しずつ上手く動くのを眺めているのを楽しんでいた。ところが、娘が中学に上がる頃のことだったけれどもね、自分がいつの間にか信仰を失っていることに気づいた、それも完全にね‥‥。
 何か大きな事件があったわけでも信仰を失うきっかけとなるような小さな出来事が積み重なったったわけでもない。教会で聴く神父の言葉に対して皮肉な言葉が頭の中に湧いてくるようになってきたな、と気付いたら、そのうち教会に行く気がしなくなった。妻には随分いろんなことを言われたが、結局日曜日には私は家に残って、妻と娘がミサに出かけるのを見送るようになっていた。
 ただそれだけのことなんだよ。
 教会に行かないようになっても、あちこちのパイプオルガンを自由に弾かせてもらえたし、そのうち教会のパイプオルガンも信仰抜きで使わせて貰えるようになった。宗教から離れてしまっても、宗教音楽はいいものだよ、素晴らしいものだよ。
 ということでね、自分でも信仰を失った理由を人に説明することはできないんだよ、申し訳ないけど。」
「娘さんはどんな反応をしてるです?」
 そう訊いた私は、バルトの夜にも同じ質問をしたことを頭の隅で思い出していた。
 成田は落ち着いた声で、
「あいつは妻とは違って非難がましいことはヒトコトも言わなかった。妻にも私に似ていない、内気で優しい娘だった。」
「いいですよね、京都に嫁に行ってるんなら、たまに成田さんも会いに行って、ついでに京都観光もできますね」
 成田は頷くと、
「そう、京都はとてもいいところだよ。観光客や街の喧騒から逃れて静かに歩ける場所は幾らでもあるし、殆ど人のやって来ない素晴らしい仏像もたくさんあるからね」
 そう言ってしまうと、成田は踵を返して駐車場の方へと私を残して先に歩いていった。


小説 霊園散歩 8





 その夜、ホテルの部屋に戻って寝る前には、いつものように成田はパジャマ姿になってウィスキーのグラスを手にしていた。金色のペンダントをサイドテーブルの上に置き、ベッドの上に成田は座っていた。私もパジャマ代わりの薄手の上下のスエットに着替えて、部屋にあった椅子に座っていた。
 気がついてみると成田が話をして、私は聞き役に回っていた。
 ポーランドからカリーニングラード、そしてバルト3国の沿岸部に住んでいた多くのドイツ系住民は、第二次世界大戦でのソ連の侵攻とナチスの敗退によりその地を追われて難民としてドイツに逃げ込んだ。たとえばドレスデンにも多くの避難民がいたのだが、ドレスデン空爆で一体どれほどのそうした避難民が死んでしまったかの推定は難しい。
 私は成田に応えた。
「今日見物したニダの墓に、たった一日で死んでしまった子供、というか赤ちゃんの墓がありましたよ。1912年。きっとその赤ちゃんのドイツ系の両親もこの土地から追われて避難していったんでしょうね」
「確かなことは」と成田が応えた。「墓を立てて、名前を彫り込み、その前で神に祈っていたであろう一組の男と女がいたということだけだ。その後その二人がどうなったかは誰も知らないだろう」
 ウイスキーを一口飲むと、成田は続けて訊いてきた。
「どうして君は他人の墓なんかに興味があるのかね、医者のくせに?」
「医者が墓に興味を持ってはダメですか? まぁこの場合、僕が医者であることはあまり関係ないんですよ、僕が職業としてサラリーマンをしていたとしても、同じように墓に興味があったと思いますから」
「それでは答えになってないよ」と元高校教師は首を横に振った。
「僕が興味があるのは墓だけではないんですよ、大きな事故で、小さな事故でも、誰かが死んだ場所に立ってみるのが‥‥好きなんです。『好き』と言えば語弊がありますけど」
「たとえばどんな場所なんだい?」
「たとえば、そう、日航機が墜落した御巣鷹山にも登ってきたし、軽井沢のスキーバス事故現場は半年後に見てきました。古いところでは長崎市長が狙撃されて死んだときに長崎の現場まで行って市長が斃れた歩道に立ったこともありますよ。九州は遠過ぎますけれど、北海道の中の事件なら交通事故であれ殺人事件であれ、現場まで行ってそこを見てくることがよくあります」
「どうしてそんなことをするんだい? 君は人が死ぬことが面白いのかい? まるでハイエナのように死臭を嗅いで回っているのかな?」
「関ヶ原の戦場、姉川の戦場、賤ヶ岳の戦場跡なんかにも行ってきましたが、それは死臭の跡を追っていることにはならないでしょう。毎年歴史好きの連中が大挙してそうした戦場跡を観光していますよ。カンボジアの虐殺の場所やヴェトナム戦争戦跡ツアー、フィリピン戦跡ツアーにも行きましたが僕と一緒に行ったツアー客たちもハイエナと呼ばれるべきですか、成田さんの判断基準では?」
 成田は私の質問には答えず、黙ってウィスキーを飲んでいた。私も別に感情的になっていたのではなかった。「ハイエナ」という言葉は多少は不愉快だったが、それに対しては淡々とこう応じた。
「ハイエナは死臭で死にそうな動物や死んだ動物の肉を探すのでしょう。僕はただ人が死んでしまった現場に行って、やがて自分も同じように、飛行機事故や交通事故や戦争で突然死んでしまうかもしれないと思うだけですよ。そういった場所にはとても大きな黒い穴が開いていて、黒くて暗いその穴は底知れず落ちていて、しかしやがていつかは自分も確実にその穴の中に落ちてゆくのを感じ取ることができるんです」
「墓場も同じように黒い大きな穴が開いているのかね?」
「そうですね、墓場と言わずこの世界の至るところに穴が開いていますよ、死へと通じている穴が。墓場は人が実際に死んだ場所ではありませんが、死を想う場所としては最適なものだと思いますよ。僕の好きな画家であるカスパー・フリードリヒは好んで墓場や廃墟の絵を描いています」
「君のその墓場巡りという趣味は奥さんが死んでからのことなのかね?」
「いえ、そのずっと前からのことですね」
「変わった男だね、君も‥‥」そう言って、成田はサイドテーブの上に置いていた金色のペンダントを手に取った。
「ところで、君は交通事故の現場にもよく行くのかね?」
「気になった交通事故の場所には北海道内なら大抵は行ってますね。一番印象に残っているのは旭川の事故ですね。右折で前を何も確認しないで、漫然と先の車に続いて動いた婆さんが、前方からやってきた車の側面に衝突した。婆さんは擦り傷一つ負いはしなかったけれども、側面に衝突された車はそのまま電柱に衝突して載っていた若い兄と妹は死亡、更にはその電柱のそばで横断歩道の信号が変わるのを待っていた高校生の男子一人も死亡したという事故がありましたよ。結局、婆さんは起訴されることすらなかった、3人の若者を自分の不注意な運転で死にいたらしめたというのにね」
「どこにでも下劣なクソ野郎はいるものだよ」
「えっ?」
 成田がそんな品の無い言葉を使うとは思っていなかった。しかもその口調は、『イチたすイチはニだね』という台詞のように何の感情も含まれてはいないものだった。
「そうした下劣なクソ野郎に毎日毎日大勢の人が殺されているというのが現実の世界なんだよ」
 成田はそう続けて言ってから、私にこう訊いてきた。
「君はもうアウシュビッツには行ってきたかね?」
「2年前の3月にポーランドを2週間近く回りました」
「あそこにも大きな黒い穴が開いていたかね?」
「とてつもなく大きな黒い穴が開いていました」と私は答えた。
 成田はそれからは何も言わずウィスキーを飲んでいたけれども、気がつくと小さなイビキをかきながら、いつの間にか眠ってしまっていた。

 ラトビアのリガに宿泊したときのことだった。
 私はリガでは、ツアーの仲間たちと一緒に観光することを完全に放棄して、朝から丸一日独りで歩き通した。
 リガはワーグナーが2年を過ごした街だった。ワーグナーが住んだ家も残されており、中には入れなかったものの、それを記したプレートが「ワーグナー通り」の建物の一つに嵌め込まれていた。そこから30分以上も歩き続けて、「角の家」と呼ばれていたKGBのビルに着いた。中は資料館になっていて、拷問虐殺が繰り返された建物の内部を見物することができた。ユダヤ博物館、ラトビア国立美術館、ゲットー・ホロコースト博物館などを巡り、くたくたになって、ダウガバ川の岸辺に立つ4つ星ホテルに戻ってきた。
 成田が部屋に戻ってきたのは、8時を過ぎていた。北緯56度に位置するラトビアの首都は夏至を過ぎてまだ2週間というその時期、8時過ぎでも昼間のように明るかった。
 成田は市内の教会で開かれていたパイプオルガンのコンサートを聴いてきたのだという。偶然そのポスターを街中で見つけ、ツアー観光が終わった後に一人で教会に向かったのだという。そのコンサートがとても素晴らしかったので、聴いたメロディーが自然と鼻歌が出てしまうという。
 それまでの成田との「就寝前会話」によって、私は成田が教会でパイプオルガンを今でも弾いていることを知っていた。彼はカトリック教徒なのである。いや、正確には「カトリック教徒」だった。
 成田が出た私立の中学高校大学はカトリック系であり、彼は母校の高校の社会科の教師をやっていたが、と同時に教会のパイプオルガニストとして長年に渡って演奏を続けていたのだという。カトリックの信仰を失っても、どういうツテがあるのか私は教えてもらわなかったが、教会のパイプオルガンを弾くことは続けているらしかった。
「信仰というものを失った後になってもパイプオルガンは素晴らしいしものだし、バッハも素晴らしいものだよ」と成田は言った。
 パイプオルガニストである成田がとても感動してホテルに戻ってきたのだから、リガの教会で聴いた演奏は本当に素晴らしかったのだろう。
 カトリックの信仰を失ったと聞いたとき、私は思わず反射的に訊いてしまった、「どうしてですか?」と。それに対して成田はしばらく考えたあとこう答えた。
「突然のことではなく、何か事件が起きてそうなったわけでもないんだよ。次第次第に潮が退くように信仰が退いていっていて、ある日気づくと神父の話していることがどれもつまらない戯言のようにしか思えなくなっている自分を発見していた、それだけのことだ」
「ただし」と成田は続けた。「うちの家内は信仰を失っていない、それどころか、年取ってきてますます教会に入れ込むようになってしまった。僕がこうしてバルト3国を歩いているあいだは、家内は教会の神父たちと一緒にイスラエルへと、聖地巡礼ツアーに出かけているんだ」
「成田さんの娘さんはどう言ってるんです?」
 それまでの「就寝前会話」で、成田には一人娘がいて、その娘は京都に嫁いでいることを教えてもらっていた。
 成田は私の質問が不意だったのか、一瞬黙っていたが、
「娘というものは嫁に行ってしまうと実家の両親が何をやっているのかなんてことには興味を持たなくなるものだよ、自分のことに精一杯でね」と答えた。

「また、何でワーグナーの住居なんかに行ったのかね?」
 という成田の質問に対しては、私は長年のファンであることを話した。成田は吐き捨てるように、
「ワーグナーはつまらん男だよ」と応じた。
「でも、ブルックナーの才能を楽譜を一目見てすぐに見抜いたのはワーグナーですよ」と私は成田の痛いところを突いた。成田も私も大のブルックナーファンであることはそれまでの夜の会話で確認していたのである。成田は不愉快そうな表情を浮かべたが、私には何も応えずにウィスキーを一口飲んだ。

 翌日はエストニアに入り、サーレマー島にフェリーで渡った。途中のムフ島でムフ野外博物館に寄り、サーレマー島では数千年前に隕石が衝突してできた「カーリークレーター」などを見物してから島の中心都市であるクレッサーレのホテルに入った。ホテルで夕食を食べ終わった後は自由時間で、しかもまだ外は十分に明るかった。私はホテルから2キロほどの東の場所に大きな墓地があることを知り、そこに歩いて行った。治安の良い住宅街が続き、その住宅街が尽きると森になり、やがてその森の中に広大な墓地が現れた。
 ビリニュスの墓地には彫刻が多かった。しかもドイツに見られるような「嘆きの乙女」や「キリスト磔刑像」といった型にはまった陳腐なものではなく、個性を競ったような不思議な彫刻が多かった。ここエストニアでは、墓地の最大の特徴といえば、とにかく「ベンチ」だらけであるということだった。墓石があり、そしてその脇には多くの場合、洒落たベンチが、金属製や石製のベンチが置かれているのである。私がクレッサーレのその墓地に行ったときにも、一人の灰色の服を着た老人がベンチに座り、じっと目の前の墓石を眺めていた。まるで自身も石にでもなってしまったかのように、微動だにせず、墓石を眺めていた。心の中で何を呟いていたのかは私には分らなかったけれど、恐らくは先に逝ったのであろう妻に話しかけていたのだろう。
 ホテルに戻る頃にはさすがに暗くなってきていた。計2時間ほどの外出を終えてホテルの部屋に戻ると、いつものようにベッドに腰掛けて成田がウィスキーを飲んでいた。
 私がこの街の墓地を見物してきたというと、彼は珍しく笑顔を作り、こう訊ねてきた。
「君は墓地散歩や死亡事故現場巡り以外に、尋常の人間が持っているような、というか、マトモな人間が持っているような趣味というものを持っていないのかね?」
 珍しく機嫌のいい成田を怒らせる気は、私にはなかった。尋常ではない、マトモでもない、北海道の墓地散歩愛好家はソファーに腰を下ろしながら陽気にこう応えた。
「ありますよ、とても尋常でとてもマトモな趣味がね」
「ほう?」
「登山ですよ、日本人の登山人口は1千万人を超えると言われていますからね、10人に1人の趣味、とても尋常でマトモな趣味です」
 そして私はホロ酔い加減の成田を前にして、3年前に奥穂高岳に登ってきたときのことを話した。


10
 バルト旅行の3年前の7月、独りで車を運転して本州を旅行した。札幌を発って小樽からフェリーで新潟に渡り、そこから高速で松本まで行ってホテルに泊まり、翌朝には沢渡の駐車場に車を預けてバスに乗り込んだ。上高地に降り立つやいなや直ぐに涸れ沢目指して歩き出し、午後3時過ぎには涸れ沢ヒュッテに到着した。ここで一泊してから翌日は奥穂高岳に登山をする、という計画をしていたのだけれども、運悪く強い勢力の台風が近づいてきていた。次第に風が強くなり、大雨も降り出していた。
 涸沢ヒュッテで迎えた翌朝は、全く身動きが取れないほどの雨嵐となっていた。それでも午後になって風雨が多少弱まったので、ほんの少し登ったところにある涸沢小屋に移動した。停滞を余儀なくされるのなら、この機会に涸沢の二つの山小屋の両方に泊まってみるのも一興だろうと思ったのである。

 涸沢ヒュッテから涸沢小屋に移り、夕食を終えた手持ちぶたさの時間を持て余した私は小さな和室で時間を潰すことにした。
 6畳ほどの小さな和室には座卓が置かれ、その周囲の棚には山岳雑誌などが並べられていた。一人、若い、30歳ほどの男性が先客として本を読んでいた。私もそこらにある雑誌を一冊手に取り、座卓の近くに腰をおろすと写真を眺めたりしていた。しばらくして私がこの若者に「明日は奥穂に登るんですか?」という質問をし、彼が「いえ、北穂です」と答えたことから始まって、その後は二人で登山の話をあれこれと始めたのだった。
 若者は東京出身で研究職に就き、今は名古屋で単身で暮らしているという。休みを利用して、ほんの4年ほど前から山に登るようになったのだという。どこの登山クラブにも属さず、誰に教えてもらったわけでもなく、ただ登山書と登攀技術を説明するDVDだけで、かなり危険な部類に入る山にも挑戦してきたのだった。槍や劔(つるぎ)にも登ったことがあり、私と話をした翌朝は北穂高岳に登る予定だと話した。北穂高岳には以前も登ったことがあり、そこにある山荘のとある部屋からの眺めがとても素晴らしかったので、もう一度登るのだと楽しそうに話していた。
「4年前からって、どうして突然、山に登るようになったの?」
 そう尋ねると彼はほんの一瞬答をためらっていたようだったが、すぐにこう話してくれた。
「父が山をやっていましてね。父はもうずっと昔に死んでしまっているんですけど、何故なんでしょうね、この歳になってみて初めて、父と同じように山に登ってみたいと思うようになったんですよ。と言っても、父は山で死んだわけでなくて病気で死亡したんですけどね、ずいぶん昔に。父の山道具は全て処分されてしまっていて、残っているのは古い写真だけなんですけれど、ここら辺りの奥穂や槍や常念や蝶が岳のですね。そんな写真の中で愉快そうに笑っている父の姿を見ているうちに、ふと、自分も山に登ってみようかなと思うようになったんですよ。僕は仕事が忙しいので、いつも独りで見よう見まねで登っているだけなんですけど、これはこれで案外楽しいものなんだなーって思っています」
 もちろん、私は彼の父親が何歳で死んだのだとか、病気はなんだったのか、などというような野暮な質問はしなかった。彼と私は互いに名乗りもせぬままに、これまでに登った幾つかの山の話をした。北海道の山、日高や知床の山には彼はまだ行ったことはなく、興味深そうに私の話を聴いてくれた。私は自分の心を占めていた心配事、つまりは翌日の奥穂高岳登山について彼に訊ねた。
「素人に毛の生えたような中高年登山者が単独で明日、奥穂に登るつもりなんですけれども、特に注意をしなければならない危険な場所ってどこなんでしょうかね?」
 2回奥穂高岳に登ったという彼は、頭の中でルートをなぞるように思い返しているようだったが、やがてこう答えてくれた。
「ここからザイテングラートを越えて穂高岳山荘までは慎重に進めば問題はないと思います。滑落しないように慎重に進んでください。ただ、奥穂高山荘から先はいきなり直登の崖になります。ところどころに梯子や鎖場はありますけれど、ここだけは特に慎重に登ってください。ここを越えれば、後はただのハイキングのようなものですから」
 ちょっと言葉を休んでから、彼はこう続けた。
「脅かすつもりじゃありませんが、毎年のようにそこで死者が出ています。何年か前には8歳の孫と62歳のおじいちゃんが滑落して2人とも死んでいます。ほんの軽い落石で子供が手を離してしまい、落ちてゆく孫を追いかけるようにおじいちゃんも落ちてしまったという悲惨な事故だったようです。僕はその日居合わせたという人から偶然いろいろ聞いたんですけどね。ともかくあそこから落ちたらまず助かりはしませんから、穂高岳山荘の上の崖だけは十分注意して登ってください」

 翌朝。
 若者は疾うに北穂高岳に向けて出発していたのだろう、顔を見ることはなかった。私は札幌から持参してきたヘルメットをしっかりとかぶり、朝5時過ぎには登山を開始した。
 毎年何人もの死者が出ているというザイテングラートの岩場は慎重に登った。しかし、登山素人の私には、そこがどうして危険地帯だといわれているのか全く理解できなかった。今から振り返ってみれば、私が登った日は安全な条件に恵まれていたのである。台風一過で雨も風もなく、空はすぐに陽をいっぱいに含んではるかな高みまで青く輝き、これ以上は考えられないほどの登山日和となっていたのだから。何より視界を遮るものがなく、岩も濡れて滑るようなこともなく、条件に恵まれていれば能天気な中高年単独登山者が苦労することも無く登れる場所だった。しかし逆に、雨や風や霧や視界不良や疲労があれば、滑落して命を落とす危険な場所だった。
 やがて私は穂高岳山荘前の広場に辿りつき、そこで小休止を取り、山荘の売店で記念のTシャツを買ってから山荘直上の崖に取り付いた。
 この崖は高さが50メートルあるということを後で知ったけれども、たとえ100メートルあったとしても私は躊躇うことなく登り始めただろう。
 どこかで、頭の隅のどこかで、ここで死ねるのならそれもいい、と私が考えていたことは間違いない。死んでもいいと思えれば、死の恐怖感も消える。何の目標も目的も夢も無かった私には、「登山中の事故死」というのは「大手を振って」安らかな眠りを得ることのできるチャンスでもあった。
 教科書通りに3点確保で岩壁にへばりつき、絶壁に固定された鉄の梯子を登り、ところどころに垂れている鉄鎖を握りしめて登攀し続けた。ビルで言えば20階ほどの高さがあるその崖を、私は二度か三度だけ振り返るだけで登り切った。一度も、その崖のはるか下に存在している赤い穂高山荘の赤い屋根に気付くことはなかった。
 崖を登り切り、2、3箇所の短い直登部分を過ぎてしまえば、後はハイキングにも近いなだらかな岩場だった。さすがに頂上に近い稜線に出ると、身体を持っていかれそうになるような強風に時々襲われることもあったが、私は無事に単独で奥穂高岳頂上に到着した。
 空は蒼くドームのように広がり、雲一つ無かった。
 下界に目をやれば前々日そこを発った上高地の幾つかの建物も見ることができた。
 驚くべきことなのだろうが、この登山シーズン中の快晴の日に、奥穂高岳頂上に存在しているのは、私一人切りであった。いつもなら頂上周辺には何十人という登山者がいるに違いなかったというのに。台風が全てをお膳立てしてくれた。
 誰もいない、そして誰も登ってこない快晴の奥穂高岳山頂を一人で独占して愉しんだ。

 頂上からの下山を開始すると、さすがに疲労を覚えた。疲れ切っていたからだろう、ダラダラと「穂高岳山荘の崖」を降りていった。これが案外安全な下山に寄与していたのかもしれない。この崖を降りる頃になると、さすがに何人かの登山者も登ってきていた。道を譲って待っているときに、はるか下を眺めた。本当に、まるで直下に赤い口を開いているかのように、地獄の火炎のように赤く輝いているのが、穂高岳山荘の屋根だった。この50メートルの崖のどこかから落下したならば、一度か二度岩にぶち当たってバウンドし、あの赤い屋根の上に真っ逆さまに落ちてゆくだろうし、絶命することは必定だった。
 立ち止まって赤い屋根を見下ろしたその時になって、やっと、私は前夜の若者が話してくれた孫と祖父のことを思い出した。恐らくは落石に驚いて孫は岩から、あるいは梯子や鎖から手を離してしまったのだろう。そして、落下してゆくその愛する孫を追いかけて、祖父もまた手を離したのだろう、孫を助けようとして。
 ここから落ちたら確実に死ねるんだ‥‥そんなことをボーっと思いながら赤い屋根を見下ろしていると、下から女性の声がして現実に引き戻された。
「すいませーん、先に降りてくださーい。私たちゆっくり登るんでー」
 カラフルな登山服を着た40歳くらいの女性3人グループが私を見上げていた。
 すると58歳の初老男である私は、電流を流された電車のように突然シャキッとなり、慎重に、しかし老人臭さを感じさせないようにできるだけ優雅に見えるように梯子を降りたのだった。


11
 話を聴き終えると、成田はウィスキーを一口飲んでから私に訊いてきた。
「君は本当にその崖から身を投げて死んでしまいたいと思っていたのかね?」
 私は一呼吸置いてから答えた。
「その時、本当には何を考えていたのか、自分でも分からないですね。ただ、死んでもいい、と思っていたことは確かでしょう。あんな20階建てのビルのような崖を這いつくばって登ってゆくなんて、今でも思いますけどマトモな精神状態の人間にはできない||」
「登山好きはみんなマトモではないからね」と成田は笑いを含んだ半畳を入れた。
「‥‥ただその時、降りる時になって、不思議と、8歳の孫と62歳の老人のあの2人ことを考えていたのは確かですね。特に落下してゆく孫を追いかけて、自ら落ちていったその老人のことを、ですね」
 成田はウィスキーボトルからコップに新たにウィスキーを注いで、何も答えないで黙ってしまった。私はその時に思い出した別の話、これも山岳遭難、これも「自ら死を選んだ男」の話をした。

 2011年の3月には東日本大震災が起こり、東北地方の太平洋沿岸では死者行方不明者が2万に迫る大惨事となった。その年の8月、穂高岳山荘の赤い屋根の上に落下して、8歳と62歳の孫と祖父とが死亡した。そして翌年2012年の夏には妻の理絵の癌が見つかり、末期癌であったためにその翌年である2013年1月の初めに彼女は息を引き取った。
 そしてその翌月の2月には、穂高山系ではこんな遭難事故が起きていた。私はそれをネットのニュースで読んだ。
 岐阜県高山市の西穂高岳独標で山岳遭難の男女が発見され、岐阜県警は2人の死亡を確認した。男性は静岡市在住の県立こども病院の医師でHさん、63歳。女性は妻で58歳。二人の死因は凍死だった。岐阜県警によると夫妻は日帰りの予定で入山し、西穂高岳独標登頂後に悪天候のため道に迷い、妻が尾根から200メートル滑落したのだという。夫は妻からから約50メートル離れて倒れて見つかったという。身体の一部が雪に埋まり、心配停止の状態だったという。
 私はその遭難事件の概要を話してから成田に言った。
「奥さんが雪の沢の下にどんどん滑落していったのを見て、夫は『自分一人では助けられない』と頭ではしっかりと理解していたはずです。夫婦とももかなりの山の経験があったはずで、そうでなければ冬季にあの場所に行くはずはないですから。僕は夏に新穂高ロープウェイを使って少し独標の方に登ってみましたが、冬にはベテランの登山者でなければとても登攀は不可能なことぐらい理解できました。
 2人の遺体が50メートルも離れていたことを考えると、雪が深くて、夫は妻にそれ以上近づくこともできなかったのでしょう。雪が飛ばされている尾根を歩くことはそれほど難しくはありません。でも新雪が何メートルと積っている谷すじを進むのは、よほどの体力と装備がなければ無理です。
 雪の谷底に滑落した場合は、2次遭難を恐れて一緒に登山していた仲間ですら「諦める」ことが多いのです。実際の話を登山仲間から聞かされたこともあります。2次遭難になることを、自分も恐らく助からないことを、この夫はちゃんと理解していたと思います。
 でも、奥さんを見捨ててゆけるでしょうか?
 妻をその場で「諦める」ことができたでしょうか?
 一緒に助からない・一緒に凍死することになると解っていても、この夫は妻のもとへと、雪に埋もれても死に物狂いで助けに向かったのでしょう。

 あるいは……と私は続けた。
 一人だけで山荘に戻り、救助を求めるよりも、妻のいる雪の谷すじに降りてゆき、自分もまた死ぬことの方を、彼は自覚しながら・頷きながら選んだのかもしれません。
 妻と一緒に死ぬことのできたこの夫は、自分が死ぬことを理解していながら妻の落ちていった谷へと、自ら望んで降りていったような気して私にはならないんですよ。
 不謹慎な言い方かもしれないんですけど、この夫が羨ましくてならないんですよ、僕は。ともかく、奥さんと一緒に死ぬことができたんですからね。少なくとも、奥さんを喪って突き落とされることになる絶望の谷でもがき苦しむことを彼は免れることができたわけですから。自分の人生に意味を与えてくれた存在、毎朝起きることに意味を与えてくれた存在を喪って、どうやって生きていけるというんでしょうかね。

 そこで私は話を終わりにした。
 サーレマー島の豪華なホテルの一室。
 薄暗い部屋で、ベッドに座っている成田の顔の表情は分からなかったが、声だけははっきりと聞こえた。その成田は、しばらく黙ってウィスキーを飲んでいたが、やがて一言呟いた。
「‥‥なんてバカなことを言ってるんだろうかね、君は‥‥」
 教師がバカな生徒を呆れるような口調だった。私には成田に怒りとか反感とかを抱く感情は既に無かった。確かに、自分の言っていたことが「バカなこと」のようにも思えていたからである。
「君はコリント書の中のパウロの言葉を知っているかね? 信仰、希望、愛。この中で最も重要なのは、愛だとパウロは言っている‥‥」
 既に信仰を喪ったと話していた成田からキリスト教の説教を受けるとは笑止千万、と私は心の中で呟いた。
「そう、信仰? そんなものはもう僕はとっくに失ってしまっている。希望? そんなものはもう僕にはないよ。しかしそれでも、愛、は残っている。そして愛なくしては、人間というのはこの苦しみに満ちたクソったれた世界の中で生きてゆくことはできないんだと思う。そうじゃないかね?」

 愛が無ければ生きてはいけない‥‥そのあまりに陳腐な説教の内容に、その表面的にはあまりに俗っぽい「説教」に、私は何も言い返す気にはなれなかった。奥さんとはもう殆ど話をしない仲になっている、寝る部屋も別々で食事も殆ど一緒に取ることはないと成田は話していた。信仰も失い来世の希望も神への「愛」も無い。恐らくは京都に嫁に行った娘とはかろうじて接点はあるのだろうけれども、その娘も母親同様熱熱なカトリックの信者だとしたら、父と娘の関係はどうなっているのか分からない。
 成田はそんな私の頭の中の雑念にはお構いなく続けて言った。
「愛する者が死んでしまったら死ぬよりほかに仕方がない、というようなことを詩人の誰かが言っていた。ところが世界というものは、歴史というものは、そして人間社会というものは、愛する者を失っても生きてきた人たちの努力で成り立ってきたんじゃないかね? 愛する者を失って、その度に近親者が何もできなくなっていたら、まして死んでいたら、人間社会というものは崩壊するよ。愛する者を失ってもそれでも生きていく人たちがいたからこそ、こうやって快適なホテルでウィスキーを飲み、飛行機やバスで世界旅行もできるし、平和な社会を維持できているんじゃないかね?」
 成田は首からいつもの金色のペンダントを取り外してベッドサイドのテーブルの上に置いた。
「なるほど、孫を追って死へと落ちていったおじいちゃんや妻を追って死へと降りていった夫がいたことは事実だし、誰もその行為を責めたりはしない。でも君がそうした行為をさも美しい行為であるかのように、羨ましい行為であるかのように喋るのは実に不愉快だよ。なぜなら、君は奥さんが死んだ後も、ちゃんとこうして生きているじゃないか」
「ボロボロ、ヨレヨレで生きていますよ、目的もなく」
「おいおい、自己憐憫はやめたまえ、とても見苦しいことだよ。愛があるから人はなんとか生きていけるんだよ」
 私は成田の言っていることの脈絡を掴むことができなかった。
「‥‥僕も、ですか?」
「君の頭の中で君の亡くなった奥さんは生きている。死んではいない。だから、君は生き続けることができているんだよ」
 私はますます、成田が何を言っているのか理解できなくなった。
「思い出は死なない‥‥少なくとも君が死ぬその日まではね。だから、人は生きていける」
「思い出を愛して生きていけとでも? 過去を愛着して生きていけとでも?」
「思い出をじゃない、思い出の中の人を愛して生きていけるのさ。思い出の中に愛する人を持たない哀れな連中もいるのだろうけれども、そうした連中の場合がどうなのかは僕は知らない。下劣なクソ野郎がいるのと同様に愛も知らずに生きている灰色の連中もいる。しかし少なくとも君には、思い出の中に愛する人がいる。だから生きていける、それに君は気付いていないんだよ!」
 成田は珍しく大きな声を上げた。
 どうしてそんなに感情が昂ぶっているのか、その時の私には解りはしなかった。
「‥‥でも、君もいつかはそれに気づくよ」
 成田は打って変わって囁くような声でそう言うと、ウィスキーを飲み干し、そして壁のほうに身体を向けるとそのまま眠ってしまった。
 私は部屋の明かりを完全に消して、成田の隣のベッドで横になった。
 成田の言っていたことは全く分からないままだった。
 日中歩き回った疲れからなのだろう、そのまま直ぐに私は暗闇に吸い込まれるように眠りに落ちていった。

 翌日はエストニアの首都タリンへと向かった。
 途中、歴代のロシア皇帝やチャイコフスキーの保養地として有名なハープサルを見物し、午後にタリンに到着する。5年に一度タリンで開催されている「歌と踊りの祭典」のプログラムの一つである「踊りの祭典」を、カレフ・スタジアムで見物した。
 タリンでは港の直ぐ近くに建つホテルに3泊した。その最初の夜にも、私は成田としばらく話をした。
「明日の予定はどうするんだね? 午前中は自由時間だけど」
 そう成田に訊かれて、私は既に添乗員に翌日は完全に自由行動をさせてもらう許可を取っていることを話した。その日に踊りの祭典をやっていたスタジアムの横に広い墓地があり、そこを見学してからタリン市内の美術館や博物館を一人で歩き回る計画を既に立てていたのである。
「やれやれ、また墓場かね、飽きないね」
「成田さんはどんな予定なんですか?」
「僕は午前中は旧市街地を歩くよ。ここはヨーロッパでも有数の美しい旧市街を楽しめるところなんだよ。ヘルシンキ、サンクト・ペテルブルク、ストックホルムとの海上交通による物資の流れも昔から盛んだった。午前中は街を一人で散歩して、午後からは添乗員さんがレストランに連れて行ってくれるし、昨日スタジアムで踊っていた人たちがあのまま民族衣装で参加するパレードも見物できる」
「唯一惜しいと思うのは、昼食と夕食を諦めることですよ。僕は店でサンドイッチでも買って済ませます。これがイスラエルやトルコやエジプトならばレストランでの食事を喜んで諦めるんですけどね。あのあたりはピタパンにどこも同じような詰め物ばかり詰めて食べるだけですから」
「エジプトは良かったかね、僕はまだ行ったことがないけどね」
「王家の谷で入った地下墓地は最高でしたよ、あんなに美しくて感動的な墓所というものは他にありません。ツタンカーメンの墓を含めて3つ入りましたけど、実際にあそこに行くまではどれほど凄いところなのかということをまるで理解していませんでした」
「おやおや、どこに行っても君という男は墓にのめり込む男なんだね」
 と成田は笑いながら、胸に掛けていた黄金色のペンダントをサイドテーブルの上に置いた。

 タリンでの2泊目の夜についても、そして『歌の祭典』を観たあとの3泊目の夜についても、成田と何かを話したという記憶はない。2人とも良い意味で疲れ切って、興奮した日中の時間の結果としての心地良い疲れから、おやすみの挨拶もそこそこに眠りに落ちてしまった。成田が酒を飲んでいたのかすら私は知らない。
 最終日は早朝に起きて、タリンの国際空港からワルシャワに飛び、そしてポーランド航空に乗り換えて成田空港に戻ってきた。元社会科教師の成田とは飛行機の席が離れていたので、フライト中は一度も話をしなかったし、日本に到着してからも成田と別れの挨拶すらできなかったのである。住所や電話番号の交換すらしなかった。
 その成田が私の住所を聞き出したのは、後で彼から聞いた話によると、私の卒業大学の事務からだったという。ホテルでの夜毎の会話の中で、私は何かの流れで卒業大学名を彼に教えていた。成田は大学医学部の事務に電話をかけた。そうした個人情報は普通は教えないものだが、ここで「高校教師」という成田のいつもの切り札がとても役に立ったのだという。もちろん、どんな嘘八百を並べ立てたのかまでは話しはしてくれなかったが、成田はまんまと医学部事務の女性に名簿を調べさせ、住所を聞き出すことに成功したのだった。

 こうして、成田と3年振りに会うために、私は新千歳空港に彼を迎えに行ったのだった。

小説 霊園散歩 5





14
 理絵と私が50歳になった年・2008年の11月の末に3泊4日の京都旅行に出たことがある。そしてそれが理絵にとっては最後の京都になった。
 東京の私立大学の日本文学科の学生だった頃、理絵は鴨長明に関する講義を半年間受けた。『方丈記』に関する研究では有名な教授で、講義自体も軽妙洒脱な話ぶりでとても面白かったのだという。人間的魅力にも溢れた教授だったらしい。その講義でしばしば見かけた同学年の女学生と言葉を交わすようになり、一緒に喫茶店で長時間話をするようになった。やがてその女学生は理絵の親友になったのである。京都出身の女学生で、理絵は彼女に案内される形で毎年京都を歩くようになったのだった、結婚したその親友が分娩時の脳出血によって28歳で死ぬ年まで。
 50歳記念の京都旅行では、理絵と私は京都の日野というところにある鴨長明方丈庵跡まで歩いた。もちろん方丈庵の遺構があるわけではなく、ただそこで鴨長明が暮らしたということを説明する石碑などが置かれているだけだった、ごくありふれた森の中に。
 行きも帰りも落ち葉を踏みしめる山道を歩き、ずっと理絵が鴨長明について説明してくれる言葉を聞いていた。方丈記自体も読み通したことのない私には、理絵の話は驚きの連続だった。そもそも、悟りすました男、といった印象しか持っていなかった鴨長明に結婚しようとした女性がいたり、あるいは際どい恋愛歌を幾つも詠んでいたり、詩歌管弦に優れたこの男が世間的には親族との争いに破れて社会的地位を得ることができず、そのために出家したということも理絵から初めて教えてもらったことだった。尾羽打ち枯らして大原を数年彷徨い、日野に移ってからは方丈庵に独り暮らして落ち着き、1212年に方丈記を書き上げた。
 800年ほど前にそこで一人の男が暮らしていた山の中の一画に、理絵と私は手を繋いで立っていた。他に人の気配はなく、50歳の私たちは時々立ち止まり、抱き合い、キスをしていた。耳元では微風の流れる弦の響きのような音がして、足元では枯れた落ち葉の崩れてゆく音が大勢の人々の声をひそめた囁きのように響いていた。
 理絵の唇は甘く、舌は熱かった。

「死ぬほんの1週間前には、『信じられないくらい、怖いくらい、わたしは幸せなんだって感じている』、そう電話で嬉しそうに話していたわ。そしてその1週間後、赤ちゃんを産んだ夜に死んでしまった‥‥生きているって、一瞬先は本当に闇なんだと思う」
 京都女子大のキャンパスの奥にある秀吉の墓に参るために、人気のない細い道や次々に現れる石段を理絵と私は二人だけでゆっくりと登っていた。そこもその親友がかつて理絵を案内してくれた場所なのだという。
「一瞬先が闇でもどうでもいいよ、俺は理絵とこうして歩いていられるならそれでいい」
「あら、たまには古女房にもステキなことを言ってくれるのね、普段はそんな嬉しい言葉を聞いたことはないけど」
「誰もいないから恥ずかしくないね、太閤様以外は誰も見ていない」
 私は理絵を抱き寄せた。
「そういえば、ネネにも子供はできなかったわね‥‥」
 私の胸の中で理絵はそう呟いた。


 父が死ぬ何年か前、家で私と二人きりになったときに、「理絵ちゃんが子供のできない身体だというのなら離婚は考えられないのか」と切り出されたことがあった。その時の父の暗い顔が、思い詰めたようなその顔の映像が高速で通り過ぎてゆく旗のように私の脳裏を飛んでいった。言下に「絶対に離婚などしない」と応えたし、そのことは理絵にはもちろん話したりはしなかった。ただ、それから二度と父は札幌の家の庭の手入れにやってくることはなかった。
 子供はできなかった。
 日本の10組に1組の夫婦には子供はいない。その1割の夫婦に含まれてはいても、理絵といることは幸せだった。理絵の京都の親友のように赤ちゃんを産んで死んでしまうこともある。そちらの方が私には恐ろしかった。24歳で理絵と結婚し、こうして50歳を迎えることができた。60歳となり80歳となり90歳まで一緒に生きられたなら、もうそれ以上望むものはない、そう思いながら豊臣秀吉の墓を見物した後に、登ってきた坂道を二人で降りていった。
「‥‥難波のことも夢のまた夢」
 私がそう呟くと、理絵がゆっくりと、こう言い直してくれた。
「露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」
 感心して私は、ほーっ、と声をあげた。
「さすが国文科卒、無教養なバカ医者と違って君は何でも知っている」
「秀吉の辞世の句はとても有名」
「本能寺で死んだ織田信長の辞世も、ユメマボロシのどうとかっていう言葉だったような気がする」
「実際のものじゃないわ、信長が好んで舞ったという幸若舞という能の一種の中の言葉。
『ジンカン50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり』」
 それからちょっと間を置いてから理絵はこう続けた。
「『ひとたびしょう(生)を得て、滅せぬ者のあるべきか』」
 私は、他には誰もいない、おそらくは猫も猪もいないその夕闇の迫りつつあるその参道で、理絵を再び抱き寄せた。

 それからたった4年と2ヵ月後の2013年1月、理絵は当時私が勤務していた病院の10階の個室で息を引き取った。
 床に崩れ落ちた私の姿は、ハイデルベルグの嘆き男、そのものだった。


15
 8月26日木曜日の夜、家でDVDを見ていたらスマホが鳴った。
 取り上げ画面を見ると、
《 マーロン 》
 と表示されていた。あのジャンレノ髭の優しい男の顔が、幾つものショットとなって脳裏を流れていった、ほんの一瞬で。人間の脳の働きというものは不思議なものだとふと思いながら、通話のスイッチを押した。
「マーロン、なんだいこんな時間に。仕事ならちゃんと真面目にやってるよ」
 スピーカー機能を使って気楽な調子で話しだした私に応えた声は、しかし、疲れ果てたような女の声だった。
「スギちゃん、元気なの?‥‥」
 私は声を失った。
 どうしてマーロンの携帯から女の声が、それもかすかに聞き覚えのある声が流れてくるのだろう?
「‥‥誰?」
「わたしよ、ヒヤマ‥‥」
 ヒヤマ? ヒヤマがマーロンの携帯を使って私に電話を掛けてきている?
 ヒヤマとマーロンが一緒にそこにいるのだろうか、こんな夜に。ヒヤマとマーロンがそうした関係だとしたら、マーロンは愛する奥さんと離婚でもしたのか、それとも不倫なのか、いつからそうした関係なのか、私が移植病院で働いていたときから陰で不倫でも続けていたのか、マーロンと奥さんのは泥沼の喧嘩状態なのだろうか、いや先日札幌駅までちゃんと迎えに来ていたじゃないか奥さんは‥‥。
 頭は勝手な方向に動いていた。その勝手な動きを一瞬で凍りつかせたのは、ヒヤマの次のヒトコトだった。
「マーロンが死んだわ、月曜日の朝に」
 頭が空白になった。
 マーロンが‥‥死んだ?
 ヒヤマの疲れ切った声が単調にスピーカーから流れていた。
「身内だけで‥‥ほら、コロナの時代でしょう、本当に身内だけで、密葬を終わらせたわ。今日、里塚で火葬して家に戻ってきて、さっきまで死んだように寝てたの。でも、スギちゃんには連絡しておかなくちゃと思って‥‥マーロンは3年前から肺癌と闘っていたのよ」
「‥‥どうしてヒヤマが」
 やっと口をついて出た私の言葉に、ヒヤマは答えた。
「マーロンと私、結婚していたのよ3年前に。詳しい話は明日、会って話すわ。明日は仕事ないんでしょう? マーロンから預かっていて、スギちゃんに渡したいものもあるしね」
 なおも何かを訊ねようとする私に、
「ごめん、私本当に疲れているからもう寝させて。睡眠薬もさっき飲んだのよ。明日午後3時に会ったときに説明するからね」
 そう言うとヒヤマは電話を切った。


16
 27年ぶりに会ったヒヤマは、27年ぶんの魅力を身につけていた。今年は60歳になる「おばさん」のはずだったが、若い頃の魅力とは異なる、落ち着いた、表情の奥から優しく輝いているような雰囲気を持っていた。
 時の流れが残酷に作用し、難破船や廃墟のように朽ちてゆく女性の顔もあれば、時の流れがワインを熟成でもするかのように作用して、芳醇な存在を生み出すこともあるのだ。目の前の魅力的な女性の顔は、そうした作用によって新しく生まれたものだった。
 私は約束の3時よりも30分も前から待ち合わせのパン屋の喫茶室にやってきていた。コーヒーを飲みながら、マーロンが好きだったここのカヌレを3つも食べてしまった。そして約束の時間の10分前に、ヒヤマがやってきてコーヒーだけを注文した。
「さてと、何から話しましょうか?」
 そう言ってからヒヤマは深呼吸を一つした。そして私が口を開く前に、こう続けていた。
「マーロンと結婚したは3年前のことなのよ。マーロンが肺癌の宣告を受けて移植病院を退職してからひと月後。マーロンと私が『そういった関係』になっていたのは、なってしまっていたのはその10年前くらいからのことだけどね‥‥
 いろいろなことがあってそうなったんだけど、説明するのは面倒なのでその部分はみーんな省略。マーロンが肺癌にならなければ、ずっと籍を入れることはなかったのかもしれないけれど、治療とか入院とかいった手続きになると、ちゃんと籍の入った奥さんじゃなければ病院や役所は相手にしてくれないからそうしたのよ」
 運ばれてきたコーヒーをヒヤマが一口啜っているあいだに、私はやっと口を挟んだ。
「マーロンの奥さんはどうなったの?」
 最初、ヒヤマは意味がわからずキョトンとしていたが、事情を飲み込むと声をあげて笑った。
「あのね、マーロンは最初から結婚なんてしていなかったのよ。私は再婚、マーロンは初婚」
 私は口をポカーンと開けていたことだろう、2、3秒、たっぷりと。それからやっと質問した。
「‥‥あの、結婚指輪は?」
「マーロンの学生時代の恋の記憶。どんなことがあったのかは私も知らないし訊かなかったしマーロンも殆ど何も話してくれなかった、ただ相手の女性が亡くなっているということ以外は何もね」
 それから可笑しそうに笑って、
「ねぇ、信じられる? マーロンはね、私と結婚したときにあの結婚指輪を外したのよ、それもちょっと残念そうな顔をしてね。結婚して結婚指輪を外すなんてマーロン以外には歴史上きっといないわね。そして私と結婚して以降は、マーロンは結婚指輪をしなかった。私は30年振りに左手の薬指にこの指輪をはめたのにね」
 そう言って、ヒヤマは顔の前で左手の甲を向けてヒラヒラと回した。そこにはイエローゴールドの指輪が光っていた。
「マーロンの趣味で、ティファニー。あの人は昔からオードリー・ヘップバーンの熱烈なファンだったのよ、マーロンがしていた指輪もティファニー。」
 ティファニーという言葉を耳にして、高山にあるガラス美術館に理絵と行ったことを思い出した。ティファニー一族の誰かが造ったテーブルランプのガラス工芸が、息を飲むほど美しく、うっとりとそれに見とれていた理絵の横顔が、束の間私の脳裏に鮮やかに蘇った。
「で、スギちゃんに渡してくれとマーロンに頼まれていたのがこの2つのティファニー」
 そう言ってヒヤマがハンドバックから取り出して私の目の前に置いたものは、5センチ四方のほどの透明なビニールの小袋だった。中に2つの指輪が入っている。しかもその2つは、太い赤い糸で結ばれているのだった。
 私は袋を開いて、2つの指輪を掌の上に落とした。取り上げて仔細に見てみる。大きな指輪は、外側にTIFFANY&Co.と大きく刻印されていて、同じ文字が小さく、内側の面にも刻印されている。そして内側にはその他にもこう刻印されていた。

 MASAHIKOYUMIKO

 もう一つの小さな方の指輪の外側には、等間隔の3ヵ所に小さなダイヤが嵌め込まれ、ダイヤとダイヤの間の外側3ヵ所にTIFFANY&Co.と刻印されていた。そして、これも同じように、内側の面にはマーロンの名前と「ユミコ」という女性の名前がアルファベットで刻印されていた。
「ユミコ、って、誰なの?」
「死んだ恋人の名前ということ以外は何も知らないわ。私はマーロンに訊かなかったわ。マーロンが話したければ話したでしょうけど、マーロンはそれについては何も話すつもりはなかったんだと思う、誰にも」
 私は赤い糸で結ばれて、まるで寄り添うかのように密着している2つの指輪をビニールの小袋に戻しながら呟いた。
「どうしてマーロン、これを僕にくれたんだろうね‥‥」
「その理由なら、こんなおかしな説明をしてくれたわよ」とヒヤマは微笑んだ。
「マーロンが言ってたわ、墓場を散歩することが大好きな杉田は、きっと俺の墓を見物できなくてさみしく思うだろうから、これを俺の墓代わりだと言ってあいつに渡してくれ、って。墓場散歩? そんなの趣味になるの?」
 私はビニール袋の中の二つのティファニーを眺めながら呟いた。
「墓代わり? これがマーロンの墓?」
「あのね、マーロンはお墓は造らないことにしていたの。そのうちに小樽の祝津の沖合の海に私が散骨することになっている、遺灰の全てをね。小樽の港から船に乗って、遺骨を全部粉にして袋に詰めて、マーロンのその遺灰を海に沈めてくるわ」
 そこでしばらく言葉を途切らせて、ヒヤマは何かを思い出しているようだったが、まるでもうそれ以上の考えを振り捨てようとでもするかのように頭を一度大きく振ると、
「さてっ、と。こうしてマーロンから頼まれていた用件も済ませたことだから、私はあの思い出だらけのマーロンのマンションに戻ることにするわ」
 それからしばらく沈黙していたヒヤマだったが、突然、実物の金属でできた金網の向こうに描かれた絵画の本棚をぼんやりと見上げながら、独り言でも呟くような口調になってこんな話をした。
「ねぇ、昔、患者さんや患者さんの家族の人たちがみんながこう言ってたわ。大勢の患者さんの家族が同じ意味のことを言っていた。マーロンと話をするとね、まるで居心地のいい部屋で座り心地のいいソファーに座っていて、優しい髭面の神様に慰められているような気持ちになるんだ、って。杉ちゃんや他の先生たちのムンテラ(病状説明)はただのムンテラ。でも、マーロンのムンテラは、声は、顔つきは、まるで教会の神父さんの慰めの言葉のようで、とても安心させてくれるものなんだって。わかる? 私はそんなマーロンと、20年以上同じ職場で働いて10年以上男と女になって、3年間夜も昼もずっと一緒に暮らしたの。で、マーロンがいなくなった今、本当に、心にポッカリと穴が空いてしまっている。どうやってこれから生きていけるんでしょうね‥‥」
 そして顔を私に再び向けると、突然打って変わってサバサバした口調になり、こう続けた。
「あーぁ、私って本当に運が無いわよね、最初の亭主は交通事故で死んじゃうし、やっと一緒になれた大好きなマーロンも死んじゃうし」
「えっ? 離婚したんじゃないの最初の旦那さんとは?」
「離婚したって言ったほうが格好いいでしょ。気の強い看護主任とか看護師長には似合っているのよ、その方が。そうそう私ね、来年の1月にはおばあちゃんになっちゃうのよ、信じられる?」
 そう言い終えると、ヒヤマはゆっくりと立ち上がった。
「じゃぁね、杉ちゃん、またね」
 昔のようにそう別れの言葉を告げると、ヒヤマは店を出て行った。


17
 札幌駅の東コンコースを歩き、南口から外の街に出た。
 午後4時を過ぎたばかりで、8月終わりの夏の日差しはまだ十分に残っていた。
 子供の手を引いた家族連れや若いカップルがコロナ禍にもかかわらず、大勢、楽しそうに歩いている。
 ‥‥そして、もう、マーロンはいないのである。
 5日前に息を引き取り、もう永遠にあの独特の微笑を、ジャン・レノ髭の向こうに見ることはできない。
 死んだことも知らず、毎日私は朝から夕方まで新型コロナワクチンの問診をやってクタクタになる日々を送っていた。この仕事の最初の頃は、マーロンに欺されてトンデモナイ仕事をさせられていると思っていたが、そのうちに、いろいろな人を見るこの仕事が楽しく思えてきていた。「新型コロナ火星人襲来」と五里霧中で戦っている地球防衛隊の一員にでもなったような、得難い、貴重な経験をさせてもらっていると思えるようになった。
 マーロンにそのお礼を言う前に彼は死んでしまい、理絵と同じように里塚の火葬場で荼毘に付され、その身体は宇宙の中へと溶けてしまった。

 札幌駅からそのまま南へ歩いた。
 大通り公園を超えススキノを貫通し中島公園までの2キロほどの一本道を、何も考えずに。
 子供の泣き声がした。
 見ると、親に手を引かれた4歳くらいの可愛い女の子が、何故か声をあげて泣いていた。
 ‥‥いつだったろう、病院事務の職員に期限が来ている書類の提出を強く求められて、勤務時間中に家に戻ったことがあった。玄関ドアを開けて中に入ると、泣き声がした。
 そっと廊下を歩いて、泣き声に近づいていった。
 理絵のアトリエのドアが少し開いていて、中から理絵の、身も世もあらぬといった強い号泣の声が溢れ出していた。私がドアの前に立ち止まったいたのは、1分間もなかっただろう、あるいは10秒すらも。ゆっくりと踵を返して、私は玄関ドアを開いて体を外に滑り出させた。そして鍵を閉めた、書類を持ち出すことなど思いもせずに。
 あの時、アトリエの中に入って、理絵を抱きしめ、どうして泣いているのかを訊くことが、ビー・ジェントルな行為だったのだろうか?
 話し合えば解決がつくことだったのだろうか?
 いや、いつかマーロンが言ったように、いくら話してみても解決のつかない事柄というものがあり、それを抱えたままで生きてゆかなくてはならないことがあるのだろう。
 どうやったって解決のつかなかったことを、死ぬまでずっとあれこれ後悔して生きてゆく、気づいていよいうがいまいが、誰もがそうやって生きていくものなのだろう。
 ハイデルベルクの嘆き男も、そしてリトアニアの風の美女も、誰もが、死ぬそのときまであれこれ嘆き悲しみ後悔する。
 そして幸いなことに、死がそれらすべてをいつか終わらせてくれる。
 理絵が家の中で泣いていたのは、旭川の父が札幌の家の芝生を見に来なくなってしばらくしてのことだっただろう。そして私の知らない数多くの日々、理絵は一人でアトリエで泣いていることもあったのだろう。当時もそれくらいのことは推測できてはいた。そして私には、理絵が抱えている悩みを解決する力にはなってやれないだろうことを、漠然と理解していた。
 ただ、移植病院をできるだけ早く辞めようと思ったのは、あの泣き声を聴いたからでもあった。移植病院どころか、普通の病院勤務も選ばずに、もっと時間を自由にできる健康診断の医者になることに決めた。そうすれば理絵ともっとずっと長い時間一緒にいられる、と。
 その選択は正しかったのだと今は思う。
 ふと見ると、通りの向こうの青いビルの上のほうに、『札幌パークホテル』の大きな文字があった。レトロな字体の、眠りを誘うような文字である。ホテルの庭園の滝が見たくなり、そのまま建物の中へ入り、ロビーを進んだ。そして壁ガラスの前に置かれた硬い長椅子の上に腰を下ろした。
 札幌パークホテルの庭園の滝は、その日も相変わらず、電気の力を借りて流れ落ちていた。
 同じ水が循環している。
 しかし考えてみれば、地球全体が一つの「閉じた空間」なのだから、この滝もそれを象徴する一つの閉じた循環を見せてくれていることになる。
 やがてこの水の循環の中に、マーロンの体の中の水分子も入り込んでくるだろう。そして、理絵の水分子と一緒になって流れることになる。恋人を遺して若くして死んだ百田や、副知事を目前にして死んだ加藤や、ハイデルベルグの嘆き男やリトアニアの風の美女の水分子と一緒になって、地球が40億年後に膨張する太陽に呑み込まれて消えてしまうその時まで、この惑星の上を旅し続けることだろう。
 軽井沢の白糸の滝に理絵と一緒に行ったときのことを思い出した。
 あそこでも、ちょうど目の前の札幌パークホテルの庭園滝と同じように水が流れ続け、今ではその中に、かつて理絵の体の中に存在した水分子が無数に流れていることだろう。やがて私も死に、その水の中に溶けてゆき、理絵と一緒になることができるだろう。
 小雨の中で傘も差さずに、あの軽井沢の滝に見とれていた理絵が、振り返って私に微笑む。
「きれいね‥‥」

 どこでも
 君と一緒にいることができたならば
 その世界は限りなくきれいだった‥‥

(第一部終わり)

続く


小説 霊園散歩 3





 家に戻り『ぽっぽまんじゅう』を食べた。理絵が好きだったフォションのアールグレイを淹れて、4人掛けのダイニングテーブルで独りぽつねんと。
 饅頭を食べながら、マーロンが口にした「ハイデルベルグの嘆き男」と「リトアニアの風の美女」について思いを巡らした。
 2019年9月、私は15日間のドイツ周遊旅行に参加した。周遊とはいってもドイツの南半分を回るもので、ミュンヘン、ドレスデン、ベルリンには行くけれども以前からとても興味のあったハンブルグなどの北の街には行かない。それでもボーデン湖やノイシュバインシュタイン城には行けるので申し込んでいたのだった。
 ハイデルベルクの古城近辺の観光にガイドとして付いてくれたは、地元在住の60歳くらいの日本人女性だった。彼女の案内で城を見物し、城主たちの逸話を聞かせてもらった。その女性の話はとても面白いものだったのだが、古城観光の後に回るという学生寮見物やネッカー河畔の散歩には全く興味はなかったので、ツアー会社の添乗員の許可をもらって離団すると、ひとりでハイデルベルクの街を歩き出し、個人的な目的地へと向かった。
 こうした時には、昔では考えもつかなかった便利なものが今では利用できる||スマホ画面に表示されるグーグルマップである。オフラインでも(ネットに繋がっていなくても)、 GPSを利用して初めての見知らぬ街のどこに自分がいるのかを、常に知ることができる。市街地の地図の中で点滅している青い小さな円、そこが自分のいる位置である。これさえあれば決して道に迷うことはないのである。このグーグルマップのおかげで、イスタンブールでもチュニスでも、パリやモスクワやアムステルダムでも、私は何の不安もなくひとりで散歩することができた。
 ハイデルベルクの古城跡で旅の仲間たちと別れて、大きな通りをひとりでひたすら西へ、そして途中から南へと歩く。目指すは「山の墓地」である。
 山の墓地は森の中にあった。森の中に溶け込み、森と一体化していた。
 ヨーロッパや中東・アフリカの大都市の墓地は、当然木々の緑はほとんどなく、地面は墓石や納骨堂で埋め尽くされている。例外はペールラシューズ墓地くらいのもので、パリのこの墓地は比較的緑に恵まれている。ハイデルベルクの山の墓地は、山の中の公園であり、実際私がうろついていた初秋の午後には、どう見ても墓参者とは思えない子供連れの家族の幾組かと擦れ違った。陽気なパパやママたちが、歓声をあげて先を走ってゆく子供達に声を掛けながら歩いていた。柔らかな陽の光と深い緑と子供の歓声と父母の優しい声に、束の間、私は自分がどこを歩いているのかを忘れていた。並ぶ墓石はどれも立派で、ときどきその墓石を飾る彫刻は、美しい若い女性が憂いを帯びて石に寄り添う、そんなものばかりだった。穏やかで落ち着いた死の庭園、形式化され無毒化された死の悲しみ。そんな「偽りの平和な雰囲気」の中をノホホンと歩き続けていた私は、しかし次の瞬間には一挙に現実に引き戻された、ひと組の彫像によって。
 愛する人を失う苦しみを、絶望を、それは見事なまでに表現した彫像だった。
 棺の形をした石台の上に、若い女性が仰向けに横たわっている。人間の実物大の彫像。ゆったりとした古代ローマ風の衣装を着て、その襞のひとつひとつまで大理石で精妙に表現されている。ふくよかな頰は、まるで今でも生きているかのように生命感に溢れているが、それはたった今しがた死んだことを表現しているのだろう。というのも、その女性の横には、地べたに倒れ込んでいる筋骨逞しい男がいて、これもまた古代ローマ風のトーガを袈裟懸けにまとっている。その男は、地面に四つん這いになるかのように倒れこみ、左手は地面にあて、そして右手は顔を覆って嘆いているのだった。嗚咽しているのだろう。
 2013年1月、当時私が勤務していた病院の10階にある個室で理絵は息を引き取った。明け方だった。雪の降っていない、厳しい凍れの朝だった。看護師が当直医を呼びにいっているあいだに、病室には理絵と私しかいなかった。私の胸に抱かれるようにして、理絵は最後の息を終えた。私にはただ泣くことしかできなかった。病室の床に崩折れて、手をつき、もう一方の手で顔を覆って慟哭した。
 あの時の、あの朝の自分の姿が、なんと、遠い異国の山の墓地、ハイデルベルクの森の中でひっそりと存在し続けて、私の訪れをずっと待っていたのである。
 理絵の死から6年半の月日が流れていたので、私はある程度は落ち着いてその「ハイデルベルグの嘆き男」を見ることができた。そうでなければ3枚の写真を撮るなどということはできなかっただろう。しかし、ほんの3枚の写真を急いで撮ること、それが私にとっては限度だった。その場に崩れかねないほどの目眩を覚えながら、それでもなんとかヨロヨロと、右、左、と口の中で呟きながら脚を動かして、その場所から遠ざかることができた。
「‥‥俺の命‥‥俺の太陽‥‥俺の命‥‥俺の太陽‥‥」
 そんな言葉が頭の中に蘇った。
 理絵が死んだその朝、病室の床に四つん這いになって、泣きながら口から絞り出していた言葉だった。

 穴あけパンチという道具がある。
 紙に円い小さな穴を開ける道具である。2穴パンチもあるし、私はルーズリーフ用の30穴パンチも持っている、鋼鉄製の頑丈でとても重い道具である。それを見るたびに、思う、〈神様〉は「1穴パンチ」を持っているのだと。もっとも、神様のものは紙に穴を開ける道具ではない、人間の胸に穴を開ける道具である。理絵を喪った朝、神様は私のところにやってきて、彼が手にしていたその1穴パンチで、いとも簡単に、血を流すこともなく、私の胸に直径20センチくらいの穴を開けた。
 心臓は、命は、太陽は、私から完全に奪い去られてしまった、理絵と共に。
 しかしそこは偉大な神様の力である。心臓も命も太陽も失った男は、そのまま死にもせずに形だけは生きてゆくことができるのである。食べ、飲み、排便し、眠り‥‥それだけの男として。ハイデルベルクの嘆き男が私と同じように、胸に大きな空洞、トンネルのような穴を開けたまま、それでも死にもせずに生きていったであろうことを私は体験から知っていた。
 唯一、時間の経過だけが、男を四つん這いから立ち上がらせ、涙を乾かせ、再び歩き出させることができる。たとえそうであったとしても、愛する女性を失った男は、中心に穴の開いた小さな紙片のように風に吹かれて生きてゆくしかない。
 穴の開いた紙切れのような存在である私は、ハイデルベルクまで飛ばされて、そこで理絵を喪った朝の自分の姿を発見したのである。
 そんな話をマーロンにしたのは、2019年12月の2人の忘年会でのことだった。
「今年印象に残った墓がもう一つあるんだ、リトアニアで見つけた」
 私はマーロンに話し続けた。

 その年の7月、リトアニアの首都ヴィニュリスを私は観光していた。団体で昼食を取ったリトアニア料理のレストランは、市内中心部から少し離れたところにあったが、私は食事を早々に終えてしまうとその日も離団して、一人で街を歩き出した。ツアーの仲間たちは昼食後にバスに乗って市の中心部に戻り、街の名所を観て歩くことになっていたが、私には他に是非とも見物したい場所があった||リトアニアの大規模な墓地である。
 レストランから一本道の通りを歩き、ネリス川を越える橋を渡るとそこに「聖ペテロ聖パウロ教会」がある。そしてこの奥には、広大な敷地を有する「アンタカルニオ墓地」が広がっているのだった。墓地まではいつものようにグーグルマップの助けを借りて、レストランから30分ほどの歩きで迷うことなく着くことができた。
 兵士の集団墓石や戦争の記念碑がところどころにあった。しかし広い墓地のほとんどを占めているのは個人の墓であり、そしてそれらは驚くほど奇抜な彫刻で飾られていることが多かった。もちろんキリスト教に関係した彫像が多いのだけれども、そのどれもが「現代的」であり、まるでサグダラファミリア教会の東側を飾っているような現代的に簡素化された石像だった。ドイツ中部の墓地で比較的多く見るような、古典的写実的キリスト像やマリア像、あるいは嘆きの乙女の彫像といったものは存在せず、エルンスト・バルラッハの作品を彷彿させるようなものが多かった。そんな不思議な彫像が並ぶ墓石の中を歩いていて、突然目の前に現れたのが、「風の美女」の線刻だった。
 縦80センチほど、横1メートルほど、厚さ20センチほどの黒い平板の石が立てられていて、その表面には幅数ミリから1センチほどの線が彫り込まれ、女性の単純化された顔が描かれている。彫り込まれた線は灰色となっていて、黒い画面に美しく映えている。
 女性の髪は垂れ下がる細い木の枝で表現されている。その枝には木の葉が付いている。一本の細い枝が風に揺れて、女性の顔にかぶさる。その枝先は他の部位の木の葉とは異なり、2枚の葉が付いていて、ちょうどそれが女性の唇を形作る場所にあるのだ。まるで、その女性が何かを喋ってでもいるかのように、2枚の木の葉は少し開いている。風の中から彼女の声が聞こえてきそうだ。
 目はアーモンド型の大きなものなのだけれども、上の瞼が少し下がっている。両方の瞳の円形は上3分の1ほどがその瞼によって隠されている。その瞳は遠く遥か彼方を見つめているかのようで、鼻梁は額から流れる美しい一本の曲線だけで表現されている。木の枝の髪は風に揺れ、唇の木の葉は何かを語るかのように揺れ、美しい瞳はこの世を超えた遠い世界を見遣っている。
 それが、「リトアニアの風の美女の墓」だった。
 もっとも、こちらは「ハイデルベルグの嘆き男」とは異なり、ちゃんとそこに眠っている故人の名前が彫り込まれている石が設置されている。風の美女を彫った石板へと続く4段の階段状の石板が置かれていて、その石板の一番下のものにこう彫られていた。

《Stasys Krasauskas(1929-1977)
 Nijole Krasauskiene(1929-2006) 》

 エストニア語では、姓には男性形と女性形がある、ロシア語と同じように。だからこの二人の男女は夫婦だろう。Stasysは男性の名前、Nijoleは女性の名前だろう。スタシスは48歳で死に、ニジョレは77歳で死んでいる。スタシスが死んだ後、恐らく妻であるニジョレは29年間も生きたことになる。
 スタシスの考案なのか、それともニジョレが手配したのかは知らないけれども、この、黒い石に刻まれた・線刻された若い女性の顔は、悲しみとか苦悩とかを軽く超越したものを感じさせてくれた。見る者を一瞬で捉えてしまうような圧倒的な魅力が、この墓石にはあった。
 一人の男と一人の女が、この地で、共に懸命に生きたことがかつてあった。それだけのことを、風に流れる髪と、はるか彼方を見つめる瞳と、そして髪にかかる若葉が唇の形となって声にならない囁きを、見る者に聞かせてくれていた。十字架とか宗教がらみのものは一切無く、大げさに死者を悼むキリストや天使や聖母の彫像などもない、きわめてスンナリと見る者の心の中に飛び込んでくる墓。人は、生まれ、愛し、死んでゆくという単純な事実を教えてくれる墓だった。
 スタシスが死んだ1977年は、まだリトアニアがソ連に支配され、KGBによる秘密の処刑がリトアニア人を恐怖に陥れていた時代だったはずだった。リトアニアでも、ラトヴィアでも、そしてエストニアでもソ連やKGB関連した施設を私は見物してきた。ヴィニュリスの旧KGBでは、そこで多くのリトアニア人が殺されたという地下室も見た。
 ニジョレはそうした過酷な社会を生き延び、リトアニアがソ連から独立するのを見届け、人生の最後の15年ほどは比較的自由な社会で生きることができたことだろう。
 スタシスとニジョレのこの墓石をじっと見つめていると、風の美女の髪が永遠に風に揺れるのを感じることができる。そして、あの残酷な時代にも、一組の男と女が確かに愛し合って生きていたのだと信じることができる。

 2019年12月の忘年会で、私はその年に巡り合って最も感動した2つの墓、「ハイデルベルグの嘆き男」と「リトアニアの風の美女」について、そんな風に長々とマーロンに話し、その2つの墓の写真を彼に見せた。
「いったい、これは何を現しているんだろうね」と私は、2つの写真を交互に何度も見つめながら続けた。「この嘆き男やこの風の美女が、どんな人生を生きたのかは誰も知らないし、少なくとも僕には知る手立てはない」
「でもそうやって、愛する女を失った男が床に這いつくばって悲しんだということや、恐怖の時代のリトアニアで愛し合って暮らした男と女がいた、ということだけは知ることはできるし、それで十分じゃないか」とマーロンは応えた。
「おまえの霊園散歩の話を聞いていると、不思議なことに俺も世界中の墓場を散歩してみたくなるよ、おまえがそのうち行くつもりだと言っているルーマニアの陽気な墓地とかブエノスアイレスのレコレータ墓地、そしてベニスの墓地の島とかにね」
「一緒に行こうよ。奥さんも連れてさ、僕が案内してあげるよ、ハイデルベルグにもリトアニアにも、もう一度行ってみたいと思っているんだ」
 するとマーロンは軽い溜息をつき、いつもの優しい微笑みを浮かべながら、
「墓場見物の旅行に出るよりも、自分が先に墓に入るかもしれない」と応えた。
「またなに縁起でもないこと言ってんのさ。そんなのずっと先のことだよ。何なら来年でもツアーに申し込もうか、飛び切りいいのを僕が探すよ」
 マーロンは首を横に振ると、
「もう、ちょっと遅いな。体力に自信がなくてな、それに家で奥さんとブラブラしている方が、今の俺には似合っているようだ」と苦笑した。
(いいねー、あんたには長年連れ添ってきた奥さんがいて‥‥)
 愛妻が家でマーロンを待っている。そんなマーロンを『世界の墓場巡りの旅』に誘うなんてことは無理なのだと私は理解した。


 マーロンとパン屋の喫茶室で会い、新型コロナワクチン大規模接種会場での仕事を引き受けさせられた翌日の朝10時過ぎに、医療サービス会社の葛城という男性から私の携帯に電話がかかってきた。マーロンから連絡を受けたのだという。
「お引き受けいただき、誠にありがとうございます」
 葛城の声の調子には、ホッとしたという安堵があった。
 その会社は札幌市からの依頼を受けて、コロナワクチン集団接種事業の「一部」を運営している医療サービス会社だった。法人組織であり、病院経営から集団健診事業など手広くおこなっており、今回はワクチン大規模接種事業を札幌市から請け負うことになったのだった。葛城の会社は医者や看護師を集め、実際の問診・ワクチン接種を行う部門を担っていた。それ以外の大勢の誘導スタッフなどは、別の人材派遣会社や大手旅行会社の子会社が担当しているようでだった
 大規模接種会場での市民の案内や膨大な数のコンピューター情報処理、接種後の受診者の観察などをする100人単位のスタッフを、幾つもの会社が「分割して」請け負っていた。そうした「混成部隊」によって、前代未聞空前絶後の「希望する市民全てへのワクチン接種事業」が開始されていたのだった。
 札幌テレビ塔近くにあるビルの中で、私は葛城と初めて会った。彼は30代半ばの有能な銀行員といった雰囲気のスーツ姿の人物だった。
「栗山先生のお話では、杉田先生は少なくとも週に4日は働けるということでしたが?」
「えっ? 栗山先生は週に2日働く予定だと言ってたので、僕もてっきりその穴埋めに週2日働けば済むと思っていましたが?」
「いえ、あのー、栗山先生のお話では自分とは違って杉田先生は時間的にも体力的にも余裕があるので週4日で大丈夫だから、それで予定を組むようにと伺っていたのですが‥‥。実はもうその線で予定を入れて、契約書も用意しているのですが」
 葛城は明らかに困惑していた。
「申し訳ありませんが、杉田先生には週4日で御検討いただけないでしょうか?」
 マーロンの奴め、ヒトをとことん働かせようとして最初からこうするつもりだったんだな‥‥。
 私はもう面倒になり、こう応えた。
「わかりました。週4日でも構いません。ただし週末は休みたいので、土曜日曜は入れないでください」
 結局私は毎週月曜から木曜日まで、6月6日から12月6日までの半年間、札幌中島公園にある札幌パークホテルの大規模接種会場で働く契約を交わしたのだった。


 札幌市の中島公園の中に札幌パークホテルはある。
 正確には「公園に接して」なのだろうけれども、境界はあってなきに等しいものなので、その名の通り「公園(パーク)ホテル」となっている。1964年に開業しているこのホテルは、もともと、1972年の札幌冬季オリンピック開催のために国際基準に適合した宿泊施設の必要から建設された。
 中島公園の南端には、地下鉄の「幌平橋駅」がある。高校の3年間、私はこの駅を降りてから10分ほど歩いて学校に通っていた。高校時代、授業をサボってこの公園の中を歩いたことは何十回とあったし、高校3年になってからは同級生のガールフレンドと何度かデートをした場所でもあった。そのガールフレンドこそが、私の妻となった理絵だった。この公園でデートをしていた頃の理絵と私はまだ17歳だった。
 中島公園という場所は、だから、いろいろなことを私に思い出させるところなのである。理絵を喪い、独りになって、また中島公園にこうして62歳になってから頻繁に通うようになるとは想像もしていなかった。生きていれば、生き残ってしまえば、いろいろな事柄に翻弄されることになる。
 ホテルの正面玄関から中に入り、フロントを通り過ぎ、そのままエレベーター前を通って右手に歩いて行くと、天井から床まで続いているガラスの壁が西に面して広がっている。外は庭園である。30メートル近く続いているそのガラスの壁の手前半分ほどは朝食会場などに使われるレストランで、残り半分は小さなホールに通じる通路になっている。幅3メートルほど、長さ15メートルほどのその通路には、壁に接して幾つかの長椅子がある。ソファーではなく、薄いクッションを張っただけの硬い長椅子。その長椅子に座ると、ガラス壁の向こうには庭園が広がっているのだった。
 月曜日から木曜日の毎週4日間、7時半頃から8時半頃までの1時間のあいだ、この長椅子に座るのが私の習慣になってしまった。座っているうちに背中も尻も痛くなってくるこの長椅子で、庭園の芝生と滝と木の茂み、そして藻岩山と空を眺めるのが週に4日の朝の日課になっていた。新型コロナワクチン大規模接種の業務は、ホテル地下2階にある大ホールで実施されていた。朝9時にミーティングが始まり、医者の問診は9時半から始まる。だから8時半に会場に入れば十分間に合うのだが、私はホテルには7時半前には着くようにしていた。
 札幌パークホテルは札幌の繁華街の南端に位置していたが、そこに通じる主要道路は朝の渋滞がひどい。渋滞が大嫌いな私は家を7時には出て、まだ空いている道を走って20分弱でホテルに着くようにしていたのである。8時の渋滞時間に家を出ると同じ経路でも1時間はかかってしまう。
 そうやって通勤し、ホテルが臨時に用意した「医師用駐車スペース」に車を入れ、近くのコンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、それを手にして庭園前の長椅子に座る、それがお決まりの朝のパターンになっていた。
 庭園の中で流れている滝は、軽井沢の白糸の滝を彷彿させた。理絵とそこに行ったのは2000年頃だったろうか。軽井沢の滝は幅70メートル、高さ3メートルほどあり、大噴火で堆積した地層と古い地層の界から地下水が溢れ出している。細い白い糸のように流れ続けるその水の舞台は、深閑とした深い森の中にあった。小雨が降って人影もほとんど無いその森の中で、傘も差さずいつまでも理絵と二人でその滝を眺め続けていた記憶が私の頭の中にある。
 札幌パークホテルの庭園の滝は、しかし、全く人工のものだった。幅40メートル、高さ2メートルほどのその滝の裏は、模造岩石のコンクリートブロックで造られていて、流れ落ちる水はやがて無粋なステンレス格子に吸い込まれる。そこで小川は完全に地下の設備に吸い込まれるのだけれども、その水は電気ポンプによって吸い上げられて2メートルの高さと何十メートルかの通路を戻り、また再び滝の水として落ちて循環し続けるのである。
 ある日、偶然早く来てしまって、朝7時前に庭園を眺めるいつものベンチ席に腰を下ろしたことがある。
 庭に目をやって、唖然とした。
 滝は消えていたのである。
 そこには剥き出しの模造岩石コンクリートブロックの壁が続いているだけだった。しかし、7時を過ぎると、突如として滝が出現した。つまりは電動モーターのスイッチが入り、水の循環が始まったというわけである。朝7時過ぎから始まり、夜は何時まで続くのだろうか。確かなことは、誰も見ることのない深夜から早朝にかけては電気代の節約のために滝は消えてしまっているということである。


小説 霊園散歩 1




霊園散歩

第1部

 2019年3月末に60歳で札幌市内の総合病院を定年退職し、その後は働きもせずに家でブラブラと過ごしていた私の気楽な引退生活を完全に破壊したのは、2021年5月末のある夜にマーロンから掛かってきた1本の電話だった。
 庭の芝生の手入れをし、本棚の中や床に積み重ねられて置いてある大量の本を適当に読み、DVDや衛星放送録画で映画やオペラを楽しむだけといった安穏安逸なヤモメ生活は、そのたった1本の電話によって坂道を転げ落ちるように跡形もなく消えてしまった。
 もっとも、その1本の電話のかなり前から、私の最大の楽しみだった海外団体旅行というものは消えてしまっていた。新型コロナウイルスの世界的大流行により、定年後の最大の楽しみだった「毎月の海外団体旅行」は消滅していたのである。
 そして、そのマーロンの電話というものも、新型コロナウイルスのパンデミックと関係のないものではなかった‥‥というよりも、ある意味でその「騒乱」の中心部へと私を引き込むものだった。

 マーロンの本名は「栗山雅彦」というものだった。もちろん彼は純然たる日本人であり、いつだったか彼から聞いた話では先祖は熊本から十勝地方の開拓地にやって来たという。マーロンは私の大学医学部および内科医局の3年先輩であり、血液病治療の専門医にして指導医でもあった。1991年4月から3年間、これも札幌市内にある「移植病院」で私はマーロンと一緒に働いた。正確に言うと「一緒に」というよりも、マーロンの「部下として」私は働いたのである。
 その「移植病院」というのはベット数が300近くある大きな病院で、もともとは血気盛んで優秀な大学の外科医たちが数人集まって、「肝臓移植のできる病院」として設立したものだった。医学部外科教室の講師や助手の地位を投げうった彼らは、莫大な借金を背負って1985年にその移植病院を開設した。しかし残念ながら実際には肝臓移植の機会は巡っては来ず、代わって腎臓移植と骨髄移植の実績を病院は積み重ねてゆくことになった。
 アメリカの西海岸で数年間、実際の骨髄移植による治療に携わってきた内科部長を指導者とする血液内科チームが、移植病院で白血病など血液疾患の治療にあたっていた。その内科部長に招かれるかたちでマーロンが移植病院に移ってから3年後に、私は所属する大学の医局の人事のひとつとしてその病院で勤務することになり、マーロンと出会ったのである。
 マーロンというニックネームはもちろん、「栗」から来ている。創設間もない「若い病院」に集まった若い看護婦たちは、医師たちと和気藹々と医療をしていた。国立病院や市立病院のような古くからある大病院には決まって見られるような、硬直した官僚組織の冷たい雰囲気といったものは移植病院には微塵もなかった。何よりも患者のためになるチーム医療の実現を目指していた。死んでゆくような重症の患者が多かったからである。そうした患者の前では、まともな医療者なら常に、「何が患者にとってベストなのか」を考える。
 看護婦と医師の距離も近く、看護婦が医者をニックネームで呼ぶことも珍しいことではなかった、少なくとも内輪のあいだでは。
 看護婦が「看護師」と名称変更されたのは、2001年からのことである。だから今でも、あの当時のナースたちを思い出すと、私は「看護婦」と呼んでしまう。移植病院の看護婦たちは、たいていは医者の苗字を簡略化してニックネームにしていた。私の場合は、「杉田」なので「スギちゃん」である。しかし、ドクター栗山を「クリちゃん」と呼ぶにはさすがに抵抗があったのだろう、それはどうしても女性性器を連想させてしまうこともあるだろうから。そのため「栗」の英語名の「マロン」がニックネームとして使われ、より呼びやすく最初の「マー」にアクセントを付けて「マーロン」となったのだという。そんなことを酒の席で看護婦たちの一人から私は説明されたことがあった。その説明を聞かされるまでは、私はマーロンというニックネームは「マーロン・ブランド」に由来するのだろうと思っていた。そう思わせるくらいマーロンは格好良かったのである、顔は髭だらけではあったけれども。

 移植病院で勤務を始めてひと月と経たないうちに、私も看護婦たちから気安く「スギちゃん」と呼ばれるようになっていた。当時私はまだ32歳であり、同じ年代の看護婦や年上の看護婦も多かった。年季の入った看護婦から見れば、私などまだヒヨッコ医者に過ぎなかった。
「あらスギちゃん、おはよう。5号室の斎藤さんね、今朝から吐いてるから診に行ってよ」といった具合に年配の看護婦から命令されることは毎日のことだった。そして私も気安く看護婦と言葉を交わせるようになっていき(当時は酒場での飲み会というものが、今思い返すと異様なまでに頻繁に行われていた)、たまには減らず口も叩くようになっていた。
「おいおい、スギちゃんなんて呼ばないでさ、どうせなら『スギさま!』って声を掛けてほしいね、イナセなお兄さんにでも声をかけるように。そしたら流し目で応えてあげるよ、『何か御用ですかい、そこのおきれいなお嬢さん』」
 私が調子に乗って俳優・杉良太郎のモノマネをしていたその瞬間、後ろから嘲るような声が掛かってきた。
「スギさまだってー? スギちゃんにはそんなのまだ100年早いよ!」
 驚いて振り向くと、看護婦で主任のヒヤマが立っていた。身長163センチでスタイルが良いうえに、大きな瞳が魅力的な看護婦だったのだが、いつも口調はキツかった。
 ヒヤマは私より3歳年下で、移植病院創設期以来の古株だった。結婚し、一人息子をもうけ、それから離婚していた。ヒヤマという姓は「火山」と書くのだけれども、その字面を嫌って本人がいろいろな書類に署名するときは、可能な限りいつもカタカナで「ヒヤマ」としていた。
「スギちゃん、さぁ、早く無菌室に行って。五十嵐さんが吐血してるから」
 いつもどこからか現れて、何かの重大事件や事故のときには必ずその現場にいると定評のある主任看護婦がヒヤマだった。


 マーロンから電話がかかってきた翌日の夕方、私は札幌駅の東コンコースにあるパン屋の喫茶室にいた。ここでは買ったパンをそのまま、店の奥の比較的広いラウンジで、美味しいカフェオレと一緒にゆったりと味わうことができる。私がショーケースの前で色とりどりのパンを選んでいると、いつの間にか背の高いマーロンが横に立っていて、カヌレを幾つか注文していた。
 マーロンの顔は髭だらけなのだが、清潔感がある。口髭も顎髭も頬髭もあるのだけれども、長くは伸ばしてはいない、せいぜい1センチだろう。映画俳優のジャン・レノを彷彿させるフルフェイスの髭である。身長180センチ、体重は移植病院で元気に働いていた頃なら90キロはあっただろう、ラガーマンのような偉丈夫だった。そのがっしりとした身体つきをしていたマーロンが、少し瘠せてしまっていたことに私はその日初めて気づいた。ラウンジに歩いてゆくマーロンを後ろから見ると、背中も尻も小さくなっていたのである。しかし、椅子に座り向かい合うと、そこには昔と変わらない、落ち着いた雰囲気の微笑を髭の中に浮かべている紳士のマーロンがいた。
 マーロンがカヌレを食べる姿を見ていた。マーロンを前にすると決まって、移植病院で働いていた3年間の日々のシーンがいつも脳裏を流れてゆく。
 そこは、生と死との細い境界線の上をヨロヨロと、しかし懸命に歩いている患者を多数抱えていた場所だった。絶えず心電図モニターの音が鳴り、人工呼吸器の重苦しい音が響き、タコの足の数以上のチューブやケーブルが重症患者に巻きついていた。死亡宣告があり嗚咽があり号泣がありストレッチャーの音が響いて消えてゆく世界。そんな中でいつも泰然自若としてジャン・レノ髭の向こうから優しい口調で語りかけてくる医者がマーロンだった。そしてその口調と同じように、銀縁眼鏡の向こうにある彼の瞳はとても優しかった。
 私はマーロンと「コンビ」を組んで、2人で常時30人近い患者を担当していた。胃癌や肝癌といった消化器系疾患の患者もいたが、殆どが急性白血病や悪性リンパ腫などの血液疾患の患者であり、若い患者が治療の甲斐無く死んでいくことも珍しくはなかった。だから、骨髄移植が成功して「完治」し、笑顔で退院してゆく患者を送り出した時はとても嬉しかった。そんな嬉しい日の夜はマーロンと私は病院近くの酒場で軽く呑んで帰るのを常としていたし、勤務を終わった看護婦がそこに合流することも珍しくはなかった。そうしたときにはヒヤマは必ず顔を出し、マーロンの横に座ってその場を仕切っていた。
 移植病院を辞めたあと、私は札幌市内の総合病院の人間ドックセンターに勤務した。癌治療に従事して疲労困憊する3年間、妻の理絵と長い旅行することは不可能だっし、何よりも「人の死を見つめてゆくこと」に疲れてしまっていた。新しい職場の人間ドックでは入院患者を診ることもなく、9時から5時までの単調な勤務だけであり、そこで24年間働いて定年を迎えた。暇な部署に希望して移ったことによって収入は半分になったけれども、自宅もあり子供もいなかったので家計の支出は少なかった。後年父が亡くなりまとまった額の遺産も入ってからは、私の場合は働く必要はそれほどなかったのである。
 マーロンは白血病患者の治療という、身体も心も休まることのない激務を続けていたのだが、そして50代半ばで副院長となっていたのだけれども、2018年に突然病院を辞職してしまった。副院長には定年はなく、働こうと思えば70歳やその先も働くことができたのだが、マーロンは移植病院を去って市内の小さなクリニックに勤務し始めた。そのクリニックは医局の先輩がやっているところで、マーロンは週に2日、午前中だけの外来に出るようになっていた。私はそれを知って、自分の血圧と高尿酸血症(痛風)の内服薬をマーロンの外来で貰うようにした。それまでも毎年終わりには2人で会ってススキノで忘年会をしていたが、3年前からはふた月に一度はマーロンの外来で顔を合わせることになった、私は患者として、マーロンは主治医として。
 どうして移植病院を辞めたのかと、その年の暮れの2人だけの忘年会の席で訊ねてみたのだが、彼はただ苦笑を浮かべて「疲れたのさ、寄る年波には勝てないんだよ」とだけ答えた。確かに酒の量も随分と減っていた。頑健だったマーロンも普通の人と同じように歳を取り、活動範囲も酒も少なくなるのだと単純に私は理解した。
 ふた月に一度薬を貰いに行っているマーロンの診察室では長い世間話などはできなかったが、それでも私は先月はどこそこの国に出かけてきたと旅行の話を少しはした。総合病院を定年退職する2年前から、年休を取ったりそれを休日に繋げたりという方法で、通常通りに働きながらも海外旅行を年に何回かするようになっていた。そして定年退職後はどこにも働きに出ずに、私は毎月のように海外旅行に出ていた。
 何も憂うこともなく、呑気な生活を当時の私は続けていた。マーロンは診察室で私の短い旅行話に微笑みながら耳を傾けてくれたし、年末の忘年会では『ハイデルベルクの嘆き男』や『リトアニアの風の美女』の話を興味深そうに聞いてくれた。

 マーロンからの電話が掛かってきた日には、札幌では新型コロナワクチンの大規模接種が始まって既に一週間の時間が流れていた。2021年5月下旬から始まっていた大規模接種である。札幌では札幌駅近くにある複合ビルと中島公園にある札幌パークホテルの2ヵ所の会場で実施されていた。ワクチン接種会場で働く医者の数が全国至る所で足りていないことはネットのニュースを読んだ私も知ってはいたが、それが自分と関係するようになるとは夢にも思ってはいなかった。
 その日、喫茶室でカヌレを食べ終えたあと、コーヒーを飲みながらマーロンは話し始めた。
「実はな、俺は新型コロナのワクチン接種の仕事を申し込んでいたんだ。ところが残念なことに、ここのところちょっと体調を崩してしまって、その仕事を断らざるを得なくなった」
「クリニックの外来の仕事をしながらワクチンの仕事をするつもりだったの?」
「クリニックは2日だけだし、ワクチンの仕事も2日だけやってみようと思っていたけれど、どちらも止めることにした。クリニックのほうは他の先生がいるからいいんだけど、ワクチンの仕事は人が集まらなくてな、しかも急に穴を開けてしまうことになった」
「まぁ仕方ないよ、体調が悪いんなら。身体を壊してまで働く必要はないさ」
「それでだ、俺は思い出したんだよ、暇で苦しんでいる医者が一人いたことを」
 マーロンはニヤリと笑って私を見た。私は反射的に舌を出した。
「ご冗談でしょ。僕ならお断りですよ、感染しないように街にはあまり出ないように気をつけてるんだから。まして何千人と集まるようなコロナワクチンの集団接種会場で働くなんてありえない」
 するとマーロンは例の優しい目つきで私を見たまま、諭すようにこう話した。
「おいおい、ビー・ジェントル(Be gentel. 優しくあれ)だよ、杉田。ビー・ジェントルを実践してみてくれないか、あの時みたいに?」

 ビー・ジェントル‥‥
 その言葉を初めてマーロンから聞かされた夜の記憶が私の脳裏に蘇った。

 加藤雄一は北海道庁の役人だった。かなりの地位にいた地方官僚であり、移植病院のマーロンの外来に入院治療目的で紹介されてきたときは54歳で、病名は急性骨髄性白血病だった。
 正直に告白してしまえば、私はこの加藤が嫌いだった。傲慢尊大を絵に描いたような男だったからである。胸骨から骨髄を引くときも、最初の局所麻酔の注射から不満そうに息を漏らし、骨髄液を引いたときなどには(患者は通常かなりの痛みを覚える)「痛くなくできないのか! あんた、ヘタなんじゃないか?」と罵声を浴びせられたことがあった。もっとも一度マーロンが加藤の骨髄穿刺をしたことがあり、私がやるよりもかなり痛かったらしく、それ以降はあまり文句を言わなくなった。マーロンは優秀な医者だったが、手先は少しだけ不器用だったのである。
 だから、患者の鎖骨下静脈を使ったカテーテル留置やダブルルーメン、ヒックマンカテーテル、胸水穿刺、腹水穿刺、髄液穿刺などなど、あらゆる手先の器用さを求められるベッドサイド手技は全て私が受け持つようになっていた。
 最初から私は移植病院を3年か4年で辞職するつもりでいたし、将来血液内科の専門医になるつもりもなかったが、マーロンと一緒に血液患者を診ていた。それだけではなく、胃癌や肝臓癌といった患者の担当も任されていて消化管の検査の腕を磨くようにも努めていた。胃カメラや大腸カメラといった検査の腕を磨いて、将来は一般病院でも働けるようにと考えていたのである。
 加藤にしてみれば、担当医はマーロンと私ではあるけれども、病状の詳しい説明をしてくれるのも治療方針を決めてくれるのもマーロンであり、私はといえばマーロンの「下働き」ばかりしているのだから、同じく医者であったとして2人に払う「敬意の度合い」は全く違ったものとなった。当然、私に対する態度も横柄になり、言葉遣いすら乱暴になっていった。
 そのために私は偉そうな態度を示す加藤を増す増す嫌うようになり、彼に対する私の対応もごく機械的で冷淡なものになっていった。恐らく、私のそうした態度に腹が立ったのだろう、加藤本人と奥さんの2人からある日、内科部長とマーロンのもとに私に関しての「苦情」が入ったのだった。
 その「苦情」がどういったものなのか、マーロンは私に詳しくは教えてくれなかったが、教えてくれなくてもだいたいの見当はついた。好感の持てない患者、はっきり言ってしまえば嫌いな患者に対して、私は顔つきや言葉の端々にそれを出してしまっていた。それはあからさまのものではないし、医療の内容がそれによって些かなりとも変わるものではないのだが、やはり苦情を入れられても仕方のない欠点であることに間違いはなかった。
 その日、マーロンは仕事が終わった後に「どうだ、ちょっと一杯やらないか」と私を誘った。既に午後9時を過ぎていたが、着替えて病院前でタクシーをつかまえればほんの10分ほどでススキノの酒場街に到着する。
 マーロンの好きなカウンターだけのバー、女っ気の無い、年老いたバーテンダーが一人で切り盛りしている店に入った。そこはそれまでにも何度かマーロンと一緒に酒を飲んだ場所だった。カウンターの左端の席に座ると、マーロンはいつものようにサイドカーを注文した。私はマッカランの水割りを頼んだ。
 マーロンは加藤夫妻から前日に苦情が入ったと私に告げた。具体的に何か私の行為が怒りの引き金を引いたのではなく、よそよそしい態度、顔つき、口のききかたが彼らの神経に触るのだという。なるほど、と私は思った。もし私が加藤の立場なら同じように感じて同じように苦情を言っていただろう、何しろ私は加藤が大嫌いなのだから。
 私はマーロンに、医療行為は適切にやっていると弁明した。マーロンには言いはしなかったが、マーロンがやるよりも3倍も上手く骨髄穿刺や脊椎穿刺をしているし、鎖骨下静脈へのカテーテルも何もかも問題なくこなしていた。マーロンには「やるべきことはちゃんとやっているはず」とだけ話した。
 マーロンはしばらくの沈黙の後、カクテルグラスを眺めながら、突然こんな話を始めたのだった。
「サンフランシスコに行っていたとき、俺のボスはユダヤ人だったんだよな。とても敬虔なユダヤ教徒だった」

 マーロンが1年間、サンフランシスコの大学病院に留学していたことは私も知っていた。移植病院で働き始めてから1年後、内科部長の紹介で部長が以前数年間働いていた大学病院に研究員として留学したのである。研究員はとても暮らしてはいけないほどの薄給なので、留学している間も移植病院が普段通りの給料をマーロンに渡していた。マーロンはそこで骨髄移植の最先端治療を学んでから札幌に戻ってきた。
「そのユダヤ人のボスの家に何度か招かれたことがあった。どういうわけか、俺はボスに気に入られていた」
 マーロンを嫌うような人間はいないだろうと私はぼんやりと思いながら、水割りグラスの中で氷が音を立てるのを眺めていた。マーロンは続けた。
「ボスは家で飲むのが好きでね、ボスの自宅には素敵なバーカウンターがあって、いろいろなカクテルを作ってくれた。サイドカーがその中では抜群にうまかった。
 で、ある日ボスが訊いてきた、どういった話の流れだったのかは忘れたけれども、『マサ、お前は仏教徒なのか?』ってね。で、俺は正直に神もブッダも信じていないし、強いていえば無神論者に自分は入ると思うとこたえた。するとカウンターの向こうの、骨髄移植では世界的権威であるこの人なつっこい高齢のユダヤ人は、敬虔なこのユダヤ教徒は、ニヤリと笑うと、俺をしっかりと見ながら、瞳を見ながら、『実は私も強いていうと無神論者なんだ』と言ったんだよ。
 よほど驚いた顔をしていたんだろう俺はね、すぐにボスが付け加えてこう説明してくれたから。確かに自分はユダヤ教徒だけれども、神の存在を信じていた若い頃はもう遠い昔のことだと。そして神を信じなくてもユダヤ教徒でいられるのは、ユダヤ教でもっとも重要な教えに従っていればいいからだと。そしてその教えというのは、
『あなたが人にされたくないと思うことを人にするな』
 というものだと。これこそがユダヤ教の最も重要な教えだそうだ。神への愛と隣人への愛のうち、神を信じなくなったユダヤ教徒にはもう隣人への愛しか残っていないし、また、それで十分なのだと、ね。」

 私は手に持ったグラスの中で、マッカランの薄い琥珀色が水の中でゆっくりと舞っているのを眺めていた。氷が絶えず溶けてゆき、その透明の水の層と琥珀色の層が互いにダンスでも踊るようにグラスの中で舞っている。空を流れる雲のように見えた。耳に届いているマーロンの言葉の意味は、あの傲慢不遜で威張り散らしてばかりいる道庁の役人である加藤にも隣人愛を持てということなのかと思いながら。
 しばらく沈黙を続けていたマーロンが続けた。
「加藤さんはな、かなりの立場にいたらしい、役所では。このまえ見舞いにやってきた道庁の役人の一人と立ち話をしたけれども、こんな病気にさえならなければ間違いなく副知事になれていたはずの人物だそうだ。
 ちょっと考えてみろ、54歳の働き盛りの、官僚としてはトップの地位をほぼ手中に収めていた男が生死に関わる病気になり、毎日抗癌剤で吐き気と倦怠感に苦しめられてベッドでのたうちまわり、出世の見込みもなくなり、このままドナー(骨髄提供者)が見つからなければ死ぬかもしれないという状況の中にいる。すると毎朝主治医の一人である若いお前が部屋に入ってくるなり乞食でも見るような目つきで||」
「乞食でも?」
「いや、加藤さんの奥さんの表現だ。多分に被害者意識が入っているのだろうけれども、少なくともお前の態度は愛情のある態度とは到底言えない。何しろお前が加藤さんを嫌っているのは事実なんだから、それが態度や目つきに出てきても仕方のないことだろう。立場を逆にして考えてみろ、お前が加藤さんの立場でベッドで吐き気と痛みに眠られない夜を我慢し通した朝を迎えたとする。すると、息子ほども歳の離れた若いドクターが嫌悪感丸出しの顔つきで部屋に入ってくる、としたら?」
 ‥‥確かに、それは耐えられないだろうな、と私にも思えた。
 マーロンはサイドカーを一口啜ると、何か英語の文章を声に出した。聞き取れなかった私が首を傾げるとと、
「あなたが人にされたくないと思うことを人にするな、さっきのその言葉を英語で言うとそうなる。ボスに教わった唯一にして最高の英語のセンテンスだ。要するに汝の隣人を愛せよという意味なんだろうな、キリストの場合は更に一歩進んで汝の敵までも愛せよと言っている。でもそれら全てをもっと簡単な英語で表現することができるし、それが俺の唯一の信条でもある||ビー・ジェントル、優しくあれ。
 なぁ俺はな、優しくできないんなら医者という職業は辞めるべきなんだとさえ思っているよ」

 口調こそは「優しい」ものだったが、その言葉の意味するところはその時の私の心にナイフのように刺さるものだった。

「なぁ、杉田、どうせいつかはみんな死んでゆく、別れることになる。いつか別れることになるのならせめて一緒にいられる時間くらいは、人間は互いに優しくあるべきだとは思わないか? 誰にだって、まして患者に対してなら特に、な」


 その後加藤は寛解して退院した。私はといえば、あの夜のマーロンの話が効いたのだろうか、加藤に対して失礼な目つきも態度もするようなことはなくなっていった。どんなに彼がイラついて怒りの声や眼差しを向けてこようとも、今考えると当たり前のことだけれども、「同じ立場にいるのではない」ということを思い出すことができた。死の恐怖に苦しめられている患者に、ビー・ジェントルでいられないのだとしたら、マーロンの言う通り、医者を辞めるべきなのだろう。
 加藤はHLA(組織適合性抗原)の一致するドナーを見つけることができずに、白血病を再発し、抗癌剤の組み合わせを変えて再度寛解に持ち込んだものの、最初の入院から1年後には死亡した。最期のときには ICUで私が長時間心臓マッサージをした。まだ別れたくはなかった。せめて一度でも、互いに微かなものであれ笑顔を交わし合いたいと思った、やがて死んでゆく人間同士として。それができないままに別れるのは悲しい、そう思った。
 心臓マッサージを懸命に続けていた私を見ていたのは、彼の妻だった。遺体を病院の裏門から葬儀会社のワゴン車に納めて去ってゆくときに、見送りに出ていたマーロンに加藤夫人は深々と頭を下げた。それから同じくヒヤマに「お世話になりました」と頭を下げ、私に気づくと、驚いたことに私の前までつかつかと寄ってくると、「先生には本当にお世話になりました」と頭を深く下げたのだった。
 後日、マーロンと話をした。加藤夫人が葬儀などを終えて御礼の挨拶にきたときにこう話したのだという。杉田先生がICUで主人を生き返らせようと本当に一生懸命にやってくれたことに感謝している、と。心臓マッサージやボスミン心注、気管挿管、心臓電気ショック、ありとあらゆる蘇生を試みたが加藤は生き返らなかった。これが癌末期だというのなら私もそれほどまで執拗に蘇生を試みたりはしなかっただろうが、急変した加藤には息を吹き返す可能性が十分にあった。だから必死になって蘇生処置を続けていたのだが、その私の姿を加藤夫人は見て、それまで心にずっと抱いていたわだかまりが消えたのだという。
「加藤さん夫妻には子供がなくてな、仕事だけが主人の生き甲斐だったと言っていたよ」
 マーロンのその言葉に思わず私は呟いた。「僕にも子供はいませんよ」
 するとマーロンは、「俺にだっていないよ、でも愛する奥さんならいるけどな」そう言って、左手の薬指を私の目の前でヒラヒラさせた。
 薬指の金色のリングが眩しいまでに輝いた。

(続く)