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2023年3月10日金曜日

小説 霊園散歩 1




霊園散歩

第1部

 2019年3月末に60歳で札幌市内の総合病院を定年退職し、その後は働きもせずに家でブラブラと過ごしていた私の気楽な引退生活を完全に破壊したのは、2021年5月末のある夜にマーロンから掛かってきた1本の電話だった。
 庭の芝生の手入れをし、本棚の中や床に積み重ねられて置いてある大量の本を適当に読み、DVDや衛星放送録画で映画やオペラを楽しむだけといった安穏安逸なヤモメ生活は、そのたった1本の電話によって坂道を転げ落ちるように跡形もなく消えてしまった。
 もっとも、その1本の電話のかなり前から、私の最大の楽しみだった海外団体旅行というものは消えてしまっていた。新型コロナウイルスの世界的大流行により、定年後の最大の楽しみだった「毎月の海外団体旅行」は消滅していたのである。
 そして、そのマーロンの電話というものも、新型コロナウイルスのパンデミックと関係のないものではなかった‥‥というよりも、ある意味でその「騒乱」の中心部へと私を引き込むものだった。

 マーロンの本名は「栗山雅彦」というものだった。もちろん彼は純然たる日本人であり、いつだったか彼から聞いた話では先祖は熊本から十勝地方の開拓地にやって来たという。マーロンは私の大学医学部および内科医局の3年先輩であり、血液病治療の専門医にして指導医でもあった。1991年4月から3年間、これも札幌市内にある「移植病院」で私はマーロンと一緒に働いた。正確に言うと「一緒に」というよりも、マーロンの「部下として」私は働いたのである。
 その「移植病院」というのはベット数が300近くある大きな病院で、もともとは血気盛んで優秀な大学の外科医たちが数人集まって、「肝臓移植のできる病院」として設立したものだった。医学部外科教室の講師や助手の地位を投げうった彼らは、莫大な借金を背負って1985年にその移植病院を開設した。しかし残念ながら実際には肝臓移植の機会は巡っては来ず、代わって腎臓移植と骨髄移植の実績を病院は積み重ねてゆくことになった。
 アメリカの西海岸で数年間、実際の骨髄移植による治療に携わってきた内科部長を指導者とする血液内科チームが、移植病院で白血病など血液疾患の治療にあたっていた。その内科部長に招かれるかたちでマーロンが移植病院に移ってから3年後に、私は所属する大学の医局の人事のひとつとしてその病院で勤務することになり、マーロンと出会ったのである。
 マーロンというニックネームはもちろん、「栗」から来ている。創設間もない「若い病院」に集まった若い看護婦たちは、医師たちと和気藹々と医療をしていた。国立病院や市立病院のような古くからある大病院には決まって見られるような、硬直した官僚組織の冷たい雰囲気といったものは移植病院には微塵もなかった。何よりも患者のためになるチーム医療の実現を目指していた。死んでゆくような重症の患者が多かったからである。そうした患者の前では、まともな医療者なら常に、「何が患者にとってベストなのか」を考える。
 看護婦と医師の距離も近く、看護婦が医者をニックネームで呼ぶことも珍しいことではなかった、少なくとも内輪のあいだでは。
 看護婦が「看護師」と名称変更されたのは、2001年からのことである。だから今でも、あの当時のナースたちを思い出すと、私は「看護婦」と呼んでしまう。移植病院の看護婦たちは、たいていは医者の苗字を簡略化してニックネームにしていた。私の場合は、「杉田」なので「スギちゃん」である。しかし、ドクター栗山を「クリちゃん」と呼ぶにはさすがに抵抗があったのだろう、それはどうしても女性性器を連想させてしまうこともあるだろうから。そのため「栗」の英語名の「マロン」がニックネームとして使われ、より呼びやすく最初の「マー」にアクセントを付けて「マーロン」となったのだという。そんなことを酒の席で看護婦たちの一人から私は説明されたことがあった。その説明を聞かされるまでは、私はマーロンというニックネームは「マーロン・ブランド」に由来するのだろうと思っていた。そう思わせるくらいマーロンは格好良かったのである、顔は髭だらけではあったけれども。

 移植病院で勤務を始めてひと月と経たないうちに、私も看護婦たちから気安く「スギちゃん」と呼ばれるようになっていた。当時私はまだ32歳であり、同じ年代の看護婦や年上の看護婦も多かった。年季の入った看護婦から見れば、私などまだヒヨッコ医者に過ぎなかった。
「あらスギちゃん、おはよう。5号室の斎藤さんね、今朝から吐いてるから診に行ってよ」といった具合に年配の看護婦から命令されることは毎日のことだった。そして私も気安く看護婦と言葉を交わせるようになっていき(当時は酒場での飲み会というものが、今思い返すと異様なまでに頻繁に行われていた)、たまには減らず口も叩くようになっていた。
「おいおい、スギちゃんなんて呼ばないでさ、どうせなら『スギさま!』って声を掛けてほしいね、イナセなお兄さんにでも声をかけるように。そしたら流し目で応えてあげるよ、『何か御用ですかい、そこのおきれいなお嬢さん』」
 私が調子に乗って俳優・杉良太郎のモノマネをしていたその瞬間、後ろから嘲るような声が掛かってきた。
「スギさまだってー? スギちゃんにはそんなのまだ100年早いよ!」
 驚いて振り向くと、看護婦で主任のヒヤマが立っていた。身長163センチでスタイルが良いうえに、大きな瞳が魅力的な看護婦だったのだが、いつも口調はキツかった。
 ヒヤマは私より3歳年下で、移植病院創設期以来の古株だった。結婚し、一人息子をもうけ、それから離婚していた。ヒヤマという姓は「火山」と書くのだけれども、その字面を嫌って本人がいろいろな書類に署名するときは、可能な限りいつもカタカナで「ヒヤマ」としていた。
「スギちゃん、さぁ、早く無菌室に行って。五十嵐さんが吐血してるから」
 いつもどこからか現れて、何かの重大事件や事故のときには必ずその現場にいると定評のある主任看護婦がヒヤマだった。


 マーロンから電話がかかってきた翌日の夕方、私は札幌駅の東コンコースにあるパン屋の喫茶室にいた。ここでは買ったパンをそのまま、店の奥の比較的広いラウンジで、美味しいカフェオレと一緒にゆったりと味わうことができる。私がショーケースの前で色とりどりのパンを選んでいると、いつの間にか背の高いマーロンが横に立っていて、カヌレを幾つか注文していた。
 マーロンの顔は髭だらけなのだが、清潔感がある。口髭も顎髭も頬髭もあるのだけれども、長くは伸ばしてはいない、せいぜい1センチだろう。映画俳優のジャン・レノを彷彿させるフルフェイスの髭である。身長180センチ、体重は移植病院で元気に働いていた頃なら90キロはあっただろう、ラガーマンのような偉丈夫だった。そのがっしりとした身体つきをしていたマーロンが、少し瘠せてしまっていたことに私はその日初めて気づいた。ラウンジに歩いてゆくマーロンを後ろから見ると、背中も尻も小さくなっていたのである。しかし、椅子に座り向かい合うと、そこには昔と変わらない、落ち着いた雰囲気の微笑を髭の中に浮かべている紳士のマーロンがいた。
 マーロンがカヌレを食べる姿を見ていた。マーロンを前にすると決まって、移植病院で働いていた3年間の日々のシーンがいつも脳裏を流れてゆく。
 そこは、生と死との細い境界線の上をヨロヨロと、しかし懸命に歩いている患者を多数抱えていた場所だった。絶えず心電図モニターの音が鳴り、人工呼吸器の重苦しい音が響き、タコの足の数以上のチューブやケーブルが重症患者に巻きついていた。死亡宣告があり嗚咽があり号泣がありストレッチャーの音が響いて消えてゆく世界。そんな中でいつも泰然自若としてジャン・レノ髭の向こうから優しい口調で語りかけてくる医者がマーロンだった。そしてその口調と同じように、銀縁眼鏡の向こうにある彼の瞳はとても優しかった。
 私はマーロンと「コンビ」を組んで、2人で常時30人近い患者を担当していた。胃癌や肝癌といった消化器系疾患の患者もいたが、殆どが急性白血病や悪性リンパ腫などの血液疾患の患者であり、若い患者が治療の甲斐無く死んでいくことも珍しくはなかった。だから、骨髄移植が成功して「完治」し、笑顔で退院してゆく患者を送り出した時はとても嬉しかった。そんな嬉しい日の夜はマーロンと私は病院近くの酒場で軽く呑んで帰るのを常としていたし、勤務を終わった看護婦がそこに合流することも珍しくはなかった。そうしたときにはヒヤマは必ず顔を出し、マーロンの横に座ってその場を仕切っていた。
 移植病院を辞めたあと、私は札幌市内の総合病院の人間ドックセンターに勤務した。癌治療に従事して疲労困憊する3年間、妻の理絵と長い旅行することは不可能だっし、何よりも「人の死を見つめてゆくこと」に疲れてしまっていた。新しい職場の人間ドックでは入院患者を診ることもなく、9時から5時までの単調な勤務だけであり、そこで24年間働いて定年を迎えた。暇な部署に希望して移ったことによって収入は半分になったけれども、自宅もあり子供もいなかったので家計の支出は少なかった。後年父が亡くなりまとまった額の遺産も入ってからは、私の場合は働く必要はそれほどなかったのである。
 マーロンは白血病患者の治療という、身体も心も休まることのない激務を続けていたのだが、そして50代半ばで副院長となっていたのだけれども、2018年に突然病院を辞職してしまった。副院長には定年はなく、働こうと思えば70歳やその先も働くことができたのだが、マーロンは移植病院を去って市内の小さなクリニックに勤務し始めた。そのクリニックは医局の先輩がやっているところで、マーロンは週に2日、午前中だけの外来に出るようになっていた。私はそれを知って、自分の血圧と高尿酸血症(痛風)の内服薬をマーロンの外来で貰うようにした。それまでも毎年終わりには2人で会ってススキノで忘年会をしていたが、3年前からはふた月に一度はマーロンの外来で顔を合わせることになった、私は患者として、マーロンは主治医として。
 どうして移植病院を辞めたのかと、その年の暮れの2人だけの忘年会の席で訊ねてみたのだが、彼はただ苦笑を浮かべて「疲れたのさ、寄る年波には勝てないんだよ」とだけ答えた。確かに酒の量も随分と減っていた。頑健だったマーロンも普通の人と同じように歳を取り、活動範囲も酒も少なくなるのだと単純に私は理解した。
 ふた月に一度薬を貰いに行っているマーロンの診察室では長い世間話などはできなかったが、それでも私は先月はどこそこの国に出かけてきたと旅行の話を少しはした。総合病院を定年退職する2年前から、年休を取ったりそれを休日に繋げたりという方法で、通常通りに働きながらも海外旅行を年に何回かするようになっていた。そして定年退職後はどこにも働きに出ずに、私は毎月のように海外旅行に出ていた。
 何も憂うこともなく、呑気な生活を当時の私は続けていた。マーロンは診察室で私の短い旅行話に微笑みながら耳を傾けてくれたし、年末の忘年会では『ハイデルベルクの嘆き男』や『リトアニアの風の美女』の話を興味深そうに聞いてくれた。

 マーロンからの電話が掛かってきた日には、札幌では新型コロナワクチンの大規模接種が始まって既に一週間の時間が流れていた。2021年5月下旬から始まっていた大規模接種である。札幌では札幌駅近くにある複合ビルと中島公園にある札幌パークホテルの2ヵ所の会場で実施されていた。ワクチン接種会場で働く医者の数が全国至る所で足りていないことはネットのニュースを読んだ私も知ってはいたが、それが自分と関係するようになるとは夢にも思ってはいなかった。
 その日、喫茶室でカヌレを食べ終えたあと、コーヒーを飲みながらマーロンは話し始めた。
「実はな、俺は新型コロナのワクチン接種の仕事を申し込んでいたんだ。ところが残念なことに、ここのところちょっと体調を崩してしまって、その仕事を断らざるを得なくなった」
「クリニックの外来の仕事をしながらワクチンの仕事をするつもりだったの?」
「クリニックは2日だけだし、ワクチンの仕事も2日だけやってみようと思っていたけれど、どちらも止めることにした。クリニックのほうは他の先生がいるからいいんだけど、ワクチンの仕事は人が集まらなくてな、しかも急に穴を開けてしまうことになった」
「まぁ仕方ないよ、体調が悪いんなら。身体を壊してまで働く必要はないさ」
「それでだ、俺は思い出したんだよ、暇で苦しんでいる医者が一人いたことを」
 マーロンはニヤリと笑って私を見た。私は反射的に舌を出した。
「ご冗談でしょ。僕ならお断りですよ、感染しないように街にはあまり出ないように気をつけてるんだから。まして何千人と集まるようなコロナワクチンの集団接種会場で働くなんてありえない」
 するとマーロンは例の優しい目つきで私を見たまま、諭すようにこう話した。
「おいおい、ビー・ジェントル(Be gentel. 優しくあれ)だよ、杉田。ビー・ジェントルを実践してみてくれないか、あの時みたいに?」

 ビー・ジェントル‥‥
 その言葉を初めてマーロンから聞かされた夜の記憶が私の脳裏に蘇った。

 加藤雄一は北海道庁の役人だった。かなりの地位にいた地方官僚であり、移植病院のマーロンの外来に入院治療目的で紹介されてきたときは54歳で、病名は急性骨髄性白血病だった。
 正直に告白してしまえば、私はこの加藤が嫌いだった。傲慢尊大を絵に描いたような男だったからである。胸骨から骨髄を引くときも、最初の局所麻酔の注射から不満そうに息を漏らし、骨髄液を引いたときなどには(患者は通常かなりの痛みを覚える)「痛くなくできないのか! あんた、ヘタなんじゃないか?」と罵声を浴びせられたことがあった。もっとも一度マーロンが加藤の骨髄穿刺をしたことがあり、私がやるよりもかなり痛かったらしく、それ以降はあまり文句を言わなくなった。マーロンは優秀な医者だったが、手先は少しだけ不器用だったのである。
 だから、患者の鎖骨下静脈を使ったカテーテル留置やダブルルーメン、ヒックマンカテーテル、胸水穿刺、腹水穿刺、髄液穿刺などなど、あらゆる手先の器用さを求められるベッドサイド手技は全て私が受け持つようになっていた。
 最初から私は移植病院を3年か4年で辞職するつもりでいたし、将来血液内科の専門医になるつもりもなかったが、マーロンと一緒に血液患者を診ていた。それだけではなく、胃癌や肝臓癌といった患者の担当も任されていて消化管の検査の腕を磨くようにも努めていた。胃カメラや大腸カメラといった検査の腕を磨いて、将来は一般病院でも働けるようにと考えていたのである。
 加藤にしてみれば、担当医はマーロンと私ではあるけれども、病状の詳しい説明をしてくれるのも治療方針を決めてくれるのもマーロンであり、私はといえばマーロンの「下働き」ばかりしているのだから、同じく医者であったとして2人に払う「敬意の度合い」は全く違ったものとなった。当然、私に対する態度も横柄になり、言葉遣いすら乱暴になっていった。
 そのために私は偉そうな態度を示す加藤を増す増す嫌うようになり、彼に対する私の対応もごく機械的で冷淡なものになっていった。恐らく、私のそうした態度に腹が立ったのだろう、加藤本人と奥さんの2人からある日、内科部長とマーロンのもとに私に関しての「苦情」が入ったのだった。
 その「苦情」がどういったものなのか、マーロンは私に詳しくは教えてくれなかったが、教えてくれなくてもだいたいの見当はついた。好感の持てない患者、はっきり言ってしまえば嫌いな患者に対して、私は顔つきや言葉の端々にそれを出してしまっていた。それはあからさまのものではないし、医療の内容がそれによって些かなりとも変わるものではないのだが、やはり苦情を入れられても仕方のない欠点であることに間違いはなかった。
 その日、マーロンは仕事が終わった後に「どうだ、ちょっと一杯やらないか」と私を誘った。既に午後9時を過ぎていたが、着替えて病院前でタクシーをつかまえればほんの10分ほどでススキノの酒場街に到着する。
 マーロンの好きなカウンターだけのバー、女っ気の無い、年老いたバーテンダーが一人で切り盛りしている店に入った。そこはそれまでにも何度かマーロンと一緒に酒を飲んだ場所だった。カウンターの左端の席に座ると、マーロンはいつものようにサイドカーを注文した。私はマッカランの水割りを頼んだ。
 マーロンは加藤夫妻から前日に苦情が入ったと私に告げた。具体的に何か私の行為が怒りの引き金を引いたのではなく、よそよそしい態度、顔つき、口のききかたが彼らの神経に触るのだという。なるほど、と私は思った。もし私が加藤の立場なら同じように感じて同じように苦情を言っていただろう、何しろ私は加藤が大嫌いなのだから。
 私はマーロンに、医療行為は適切にやっていると弁明した。マーロンには言いはしなかったが、マーロンがやるよりも3倍も上手く骨髄穿刺や脊椎穿刺をしているし、鎖骨下静脈へのカテーテルも何もかも問題なくこなしていた。マーロンには「やるべきことはちゃんとやっているはず」とだけ話した。
 マーロンはしばらくの沈黙の後、カクテルグラスを眺めながら、突然こんな話を始めたのだった。
「サンフランシスコに行っていたとき、俺のボスはユダヤ人だったんだよな。とても敬虔なユダヤ教徒だった」

 マーロンが1年間、サンフランシスコの大学病院に留学していたことは私も知っていた。移植病院で働き始めてから1年後、内科部長の紹介で部長が以前数年間働いていた大学病院に研究員として留学したのである。研究員はとても暮らしてはいけないほどの薄給なので、留学している間も移植病院が普段通りの給料をマーロンに渡していた。マーロンはそこで骨髄移植の最先端治療を学んでから札幌に戻ってきた。
「そのユダヤ人のボスの家に何度か招かれたことがあった。どういうわけか、俺はボスに気に入られていた」
 マーロンを嫌うような人間はいないだろうと私はぼんやりと思いながら、水割りグラスの中で氷が音を立てるのを眺めていた。マーロンは続けた。
「ボスは家で飲むのが好きでね、ボスの自宅には素敵なバーカウンターがあって、いろいろなカクテルを作ってくれた。サイドカーがその中では抜群にうまかった。
 で、ある日ボスが訊いてきた、どういった話の流れだったのかは忘れたけれども、『マサ、お前は仏教徒なのか?』ってね。で、俺は正直に神もブッダも信じていないし、強いていえば無神論者に自分は入ると思うとこたえた。するとカウンターの向こうの、骨髄移植では世界的権威であるこの人なつっこい高齢のユダヤ人は、敬虔なこのユダヤ教徒は、ニヤリと笑うと、俺をしっかりと見ながら、瞳を見ながら、『実は私も強いていうと無神論者なんだ』と言ったんだよ。
 よほど驚いた顔をしていたんだろう俺はね、すぐにボスが付け加えてこう説明してくれたから。確かに自分はユダヤ教徒だけれども、神の存在を信じていた若い頃はもう遠い昔のことだと。そして神を信じなくてもユダヤ教徒でいられるのは、ユダヤ教でもっとも重要な教えに従っていればいいからだと。そしてその教えというのは、
『あなたが人にされたくないと思うことを人にするな』
 というものだと。これこそがユダヤ教の最も重要な教えだそうだ。神への愛と隣人への愛のうち、神を信じなくなったユダヤ教徒にはもう隣人への愛しか残っていないし、また、それで十分なのだと、ね。」

 私は手に持ったグラスの中で、マッカランの薄い琥珀色が水の中でゆっくりと舞っているのを眺めていた。氷が絶えず溶けてゆき、その透明の水の層と琥珀色の層が互いにダンスでも踊るようにグラスの中で舞っている。空を流れる雲のように見えた。耳に届いているマーロンの言葉の意味は、あの傲慢不遜で威張り散らしてばかりいる道庁の役人である加藤にも隣人愛を持てということなのかと思いながら。
 しばらく沈黙を続けていたマーロンが続けた。
「加藤さんはな、かなりの立場にいたらしい、役所では。このまえ見舞いにやってきた道庁の役人の一人と立ち話をしたけれども、こんな病気にさえならなければ間違いなく副知事になれていたはずの人物だそうだ。
 ちょっと考えてみろ、54歳の働き盛りの、官僚としてはトップの地位をほぼ手中に収めていた男が生死に関わる病気になり、毎日抗癌剤で吐き気と倦怠感に苦しめられてベッドでのたうちまわり、出世の見込みもなくなり、このままドナー(骨髄提供者)が見つからなければ死ぬかもしれないという状況の中にいる。すると毎朝主治医の一人である若いお前が部屋に入ってくるなり乞食でも見るような目つきで||」
「乞食でも?」
「いや、加藤さんの奥さんの表現だ。多分に被害者意識が入っているのだろうけれども、少なくともお前の態度は愛情のある態度とは到底言えない。何しろお前が加藤さんを嫌っているのは事実なんだから、それが態度や目つきに出てきても仕方のないことだろう。立場を逆にして考えてみろ、お前が加藤さんの立場でベッドで吐き気と痛みに眠られない夜を我慢し通した朝を迎えたとする。すると、息子ほども歳の離れた若いドクターが嫌悪感丸出しの顔つきで部屋に入ってくる、としたら?」
 ‥‥確かに、それは耐えられないだろうな、と私にも思えた。
 マーロンはサイドカーを一口啜ると、何か英語の文章を声に出した。聞き取れなかった私が首を傾げるとと、
「あなたが人にされたくないと思うことを人にするな、さっきのその言葉を英語で言うとそうなる。ボスに教わった唯一にして最高の英語のセンテンスだ。要するに汝の隣人を愛せよという意味なんだろうな、キリストの場合は更に一歩進んで汝の敵までも愛せよと言っている。でもそれら全てをもっと簡単な英語で表現することができるし、それが俺の唯一の信条でもある||ビー・ジェントル、優しくあれ。
 なぁ俺はな、優しくできないんなら医者という職業は辞めるべきなんだとさえ思っているよ」

 口調こそは「優しい」ものだったが、その言葉の意味するところはその時の私の心にナイフのように刺さるものだった。

「なぁ、杉田、どうせいつかはみんな死んでゆく、別れることになる。いつか別れることになるのならせめて一緒にいられる時間くらいは、人間は互いに優しくあるべきだとは思わないか? 誰にだって、まして患者に対してなら特に、な」


 その後加藤は寛解して退院した。私はといえば、あの夜のマーロンの話が効いたのだろうか、加藤に対して失礼な目つきも態度もするようなことはなくなっていった。どんなに彼がイラついて怒りの声や眼差しを向けてこようとも、今考えると当たり前のことだけれども、「同じ立場にいるのではない」ということを思い出すことができた。死の恐怖に苦しめられている患者に、ビー・ジェントルでいられないのだとしたら、マーロンの言う通り、医者を辞めるべきなのだろう。
 加藤はHLA(組織適合性抗原)の一致するドナーを見つけることができずに、白血病を再発し、抗癌剤の組み合わせを変えて再度寛解に持ち込んだものの、最初の入院から1年後には死亡した。最期のときには ICUで私が長時間心臓マッサージをした。まだ別れたくはなかった。せめて一度でも、互いに微かなものであれ笑顔を交わし合いたいと思った、やがて死んでゆく人間同士として。それができないままに別れるのは悲しい、そう思った。
 心臓マッサージを懸命に続けていた私を見ていたのは、彼の妻だった。遺体を病院の裏門から葬儀会社のワゴン車に納めて去ってゆくときに、見送りに出ていたマーロンに加藤夫人は深々と頭を下げた。それから同じくヒヤマに「お世話になりました」と頭を下げ、私に気づくと、驚いたことに私の前までつかつかと寄ってくると、「先生には本当にお世話になりました」と頭を深く下げたのだった。
 後日、マーロンと話をした。加藤夫人が葬儀などを終えて御礼の挨拶にきたときにこう話したのだという。杉田先生がICUで主人を生き返らせようと本当に一生懸命にやってくれたことに感謝している、と。心臓マッサージやボスミン心注、気管挿管、心臓電気ショック、ありとあらゆる蘇生を試みたが加藤は生き返らなかった。これが癌末期だというのなら私もそれほどまで執拗に蘇生を試みたりはしなかっただろうが、急変した加藤には息を吹き返す可能性が十分にあった。だから必死になって蘇生処置を続けていたのだが、その私の姿を加藤夫人は見て、それまで心にずっと抱いていたわだかまりが消えたのだという。
「加藤さん夫妻には子供がなくてな、仕事だけが主人の生き甲斐だったと言っていたよ」
 マーロンのその言葉に思わず私は呟いた。「僕にも子供はいませんよ」
 するとマーロンは、「俺にだっていないよ、でも愛する奥さんならいるけどな」そう言って、左手の薬指を私の目の前でヒラヒラさせた。
 薬指の金色のリングが眩しいまでに輝いた。

(続く)