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2023年3月10日金曜日

小説 霊園散歩 8





 その夜、ホテルの部屋に戻って寝る前には、いつものように成田はパジャマ姿になってウィスキーのグラスを手にしていた。金色のペンダントをサイドテーブルの上に置き、ベッドの上に成田は座っていた。私もパジャマ代わりの薄手の上下のスエットに着替えて、部屋にあった椅子に座っていた。
 気がついてみると成田が話をして、私は聞き役に回っていた。
 ポーランドからカリーニングラード、そしてバルト3国の沿岸部に住んでいた多くのドイツ系住民は、第二次世界大戦でのソ連の侵攻とナチスの敗退によりその地を追われて難民としてドイツに逃げ込んだ。たとえばドレスデンにも多くの避難民がいたのだが、ドレスデン空爆で一体どれほどのそうした避難民が死んでしまったかの推定は難しい。
 私は成田に応えた。
「今日見物したニダの墓に、たった一日で死んでしまった子供、というか赤ちゃんの墓がありましたよ。1912年。きっとその赤ちゃんのドイツ系の両親もこの土地から追われて避難していったんでしょうね」
「確かなことは」と成田が応えた。「墓を立てて、名前を彫り込み、その前で神に祈っていたであろう一組の男と女がいたということだけだ。その後その二人がどうなったかは誰も知らないだろう」
 ウイスキーを一口飲むと、成田は続けて訊いてきた。
「どうして君は他人の墓なんかに興味があるのかね、医者のくせに?」
「医者が墓に興味を持ってはダメですか? まぁこの場合、僕が医者であることはあまり関係ないんですよ、僕が職業としてサラリーマンをしていたとしても、同じように墓に興味があったと思いますから」
「それでは答えになってないよ」と元高校教師は首を横に振った。
「僕が興味があるのは墓だけではないんですよ、大きな事故で、小さな事故でも、誰かが死んだ場所に立ってみるのが‥‥好きなんです。『好き』と言えば語弊がありますけど」
「たとえばどんな場所なんだい?」
「たとえば、そう、日航機が墜落した御巣鷹山にも登ってきたし、軽井沢のスキーバス事故現場は半年後に見てきました。古いところでは長崎市長が狙撃されて死んだときに長崎の現場まで行って市長が斃れた歩道に立ったこともありますよ。九州は遠過ぎますけれど、北海道の中の事件なら交通事故であれ殺人事件であれ、現場まで行ってそこを見てくることがよくあります」
「どうしてそんなことをするんだい? 君は人が死ぬことが面白いのかい? まるでハイエナのように死臭を嗅いで回っているのかな?」
「関ヶ原の戦場、姉川の戦場、賤ヶ岳の戦場跡なんかにも行ってきましたが、それは死臭の跡を追っていることにはならないでしょう。毎年歴史好きの連中が大挙してそうした戦場跡を観光していますよ。カンボジアの虐殺の場所やヴェトナム戦争戦跡ツアー、フィリピン戦跡ツアーにも行きましたが僕と一緒に行ったツアー客たちもハイエナと呼ばれるべきですか、成田さんの判断基準では?」
 成田は私の質問には答えず、黙ってウィスキーを飲んでいた。私も別に感情的になっていたのではなかった。「ハイエナ」という言葉は多少は不愉快だったが、それに対しては淡々とこう応じた。
「ハイエナは死臭で死にそうな動物や死んだ動物の肉を探すのでしょう。僕はただ人が死んでしまった現場に行って、やがて自分も同じように、飛行機事故や交通事故や戦争で突然死んでしまうかもしれないと思うだけですよ。そういった場所にはとても大きな黒い穴が開いていて、黒くて暗いその穴は底知れず落ちていて、しかしやがていつかは自分も確実にその穴の中に落ちてゆくのを感じ取ることができるんです」
「墓場も同じように黒い大きな穴が開いているのかね?」
「そうですね、墓場と言わずこの世界の至るところに穴が開いていますよ、死へと通じている穴が。墓場は人が実際に死んだ場所ではありませんが、死を想う場所としては最適なものだと思いますよ。僕の好きな画家であるカスパー・フリードリヒは好んで墓場や廃墟の絵を描いています」
「君のその墓場巡りという趣味は奥さんが死んでからのことなのかね?」
「いえ、そのずっと前からのことですね」
「変わった男だね、君も‥‥」そう言って、成田はサイドテーブの上に置いていた金色のペンダントを手に取った。
「ところで、君は交通事故の現場にもよく行くのかね?」
「気になった交通事故の場所には北海道内なら大抵は行ってますね。一番印象に残っているのは旭川の事故ですね。右折で前を何も確認しないで、漫然と先の車に続いて動いた婆さんが、前方からやってきた車の側面に衝突した。婆さんは擦り傷一つ負いはしなかったけれども、側面に衝突された車はそのまま電柱に衝突して載っていた若い兄と妹は死亡、更にはその電柱のそばで横断歩道の信号が変わるのを待っていた高校生の男子一人も死亡したという事故がありましたよ。結局、婆さんは起訴されることすらなかった、3人の若者を自分の不注意な運転で死にいたらしめたというのにね」
「どこにでも下劣なクソ野郎はいるものだよ」
「えっ?」
 成田がそんな品の無い言葉を使うとは思っていなかった。しかもその口調は、『イチたすイチはニだね』という台詞のように何の感情も含まれてはいないものだった。
「そうした下劣なクソ野郎に毎日毎日大勢の人が殺されているというのが現実の世界なんだよ」
 成田はそう続けて言ってから、私にこう訊いてきた。
「君はもうアウシュビッツには行ってきたかね?」
「2年前の3月にポーランドを2週間近く回りました」
「あそこにも大きな黒い穴が開いていたかね?」
「とてつもなく大きな黒い穴が開いていました」と私は答えた。
 成田はそれからは何も言わずウィスキーを飲んでいたけれども、気がつくと小さなイビキをかきながら、いつの間にか眠ってしまっていた。

 ラトビアのリガに宿泊したときのことだった。
 私はリガでは、ツアーの仲間たちと一緒に観光することを完全に放棄して、朝から丸一日独りで歩き通した。
 リガはワーグナーが2年を過ごした街だった。ワーグナーが住んだ家も残されており、中には入れなかったものの、それを記したプレートが「ワーグナー通り」の建物の一つに嵌め込まれていた。そこから30分以上も歩き続けて、「角の家」と呼ばれていたKGBのビルに着いた。中は資料館になっていて、拷問虐殺が繰り返された建物の内部を見物することができた。ユダヤ博物館、ラトビア国立美術館、ゲットー・ホロコースト博物館などを巡り、くたくたになって、ダウガバ川の岸辺に立つ4つ星ホテルに戻ってきた。
 成田が部屋に戻ってきたのは、8時を過ぎていた。北緯56度に位置するラトビアの首都は夏至を過ぎてまだ2週間というその時期、8時過ぎでも昼間のように明るかった。
 成田は市内の教会で開かれていたパイプオルガンのコンサートを聴いてきたのだという。偶然そのポスターを街中で見つけ、ツアー観光が終わった後に一人で教会に向かったのだという。そのコンサートがとても素晴らしかったので、聴いたメロディーが自然と鼻歌が出てしまうという。
 それまでの成田との「就寝前会話」によって、私は成田が教会でパイプオルガンを今でも弾いていることを知っていた。彼はカトリック教徒なのである。いや、正確には「カトリック教徒」だった。
 成田が出た私立の中学高校大学はカトリック系であり、彼は母校の高校の社会科の教師をやっていたが、と同時に教会のパイプオルガニストとして長年に渡って演奏を続けていたのだという。カトリックの信仰を失っても、どういうツテがあるのか私は教えてもらわなかったが、教会のパイプオルガンを弾くことは続けているらしかった。
「信仰というものを失った後になってもパイプオルガンは素晴らしいしものだし、バッハも素晴らしいものだよ」と成田は言った。
 パイプオルガニストである成田がとても感動してホテルに戻ってきたのだから、リガの教会で聴いた演奏は本当に素晴らしかったのだろう。
 カトリックの信仰を失ったと聞いたとき、私は思わず反射的に訊いてしまった、「どうしてですか?」と。それに対して成田はしばらく考えたあとこう答えた。
「突然のことではなく、何か事件が起きてそうなったわけでもないんだよ。次第次第に潮が退くように信仰が退いていっていて、ある日気づくと神父の話していることがどれもつまらない戯言のようにしか思えなくなっている自分を発見していた、それだけのことだ」
「ただし」と成田は続けた。「うちの家内は信仰を失っていない、それどころか、年取ってきてますます教会に入れ込むようになってしまった。僕がこうしてバルト3国を歩いているあいだは、家内は教会の神父たちと一緒にイスラエルへと、聖地巡礼ツアーに出かけているんだ」
「成田さんの娘さんはどう言ってるんです?」
 それまでの「就寝前会話」で、成田には一人娘がいて、その娘は京都に嫁いでいることを教えてもらっていた。
 成田は私の質問が不意だったのか、一瞬黙っていたが、
「娘というものは嫁に行ってしまうと実家の両親が何をやっているのかなんてことには興味を持たなくなるものだよ、自分のことに精一杯でね」と答えた。

「また、何でワーグナーの住居なんかに行ったのかね?」
 という成田の質問に対しては、私は長年のファンであることを話した。成田は吐き捨てるように、
「ワーグナーはつまらん男だよ」と応じた。
「でも、ブルックナーの才能を楽譜を一目見てすぐに見抜いたのはワーグナーですよ」と私は成田の痛いところを突いた。成田も私も大のブルックナーファンであることはそれまでの夜の会話で確認していたのである。成田は不愉快そうな表情を浮かべたが、私には何も応えずにウィスキーを一口飲んだ。

 翌日はエストニアに入り、サーレマー島にフェリーで渡った。途中のムフ島でムフ野外博物館に寄り、サーレマー島では数千年前に隕石が衝突してできた「カーリークレーター」などを見物してから島の中心都市であるクレッサーレのホテルに入った。ホテルで夕食を食べ終わった後は自由時間で、しかもまだ外は十分に明るかった。私はホテルから2キロほどの東の場所に大きな墓地があることを知り、そこに歩いて行った。治安の良い住宅街が続き、その住宅街が尽きると森になり、やがてその森の中に広大な墓地が現れた。
 ビリニュスの墓地には彫刻が多かった。しかもドイツに見られるような「嘆きの乙女」や「キリスト磔刑像」といった型にはまった陳腐なものではなく、個性を競ったような不思議な彫刻が多かった。ここエストニアでは、墓地の最大の特徴といえば、とにかく「ベンチ」だらけであるということだった。墓石があり、そしてその脇には多くの場合、洒落たベンチが、金属製や石製のベンチが置かれているのである。私がクレッサーレのその墓地に行ったときにも、一人の灰色の服を着た老人がベンチに座り、じっと目の前の墓石を眺めていた。まるで自身も石にでもなってしまったかのように、微動だにせず、墓石を眺めていた。心の中で何を呟いていたのかは私には分らなかったけれど、恐らくは先に逝ったのであろう妻に話しかけていたのだろう。
 ホテルに戻る頃にはさすがに暗くなってきていた。計2時間ほどの外出を終えてホテルの部屋に戻ると、いつものようにベッドに腰掛けて成田がウィスキーを飲んでいた。
 私がこの街の墓地を見物してきたというと、彼は珍しく笑顔を作り、こう訊ねてきた。
「君は墓地散歩や死亡事故現場巡り以外に、尋常の人間が持っているような、というか、マトモな人間が持っているような趣味というものを持っていないのかね?」
 珍しく機嫌のいい成田を怒らせる気は、私にはなかった。尋常ではない、マトモでもない、北海道の墓地散歩愛好家はソファーに腰を下ろしながら陽気にこう応えた。
「ありますよ、とても尋常でとてもマトモな趣味がね」
「ほう?」
「登山ですよ、日本人の登山人口は1千万人を超えると言われていますからね、10人に1人の趣味、とても尋常でマトモな趣味です」
 そして私はホロ酔い加減の成田を前にして、3年前に奥穂高岳に登ってきたときのことを話した。


10
 バルト旅行の3年前の7月、独りで車を運転して本州を旅行した。札幌を発って小樽からフェリーで新潟に渡り、そこから高速で松本まで行ってホテルに泊まり、翌朝には沢渡の駐車場に車を預けてバスに乗り込んだ。上高地に降り立つやいなや直ぐに涸れ沢目指して歩き出し、午後3時過ぎには涸れ沢ヒュッテに到着した。ここで一泊してから翌日は奥穂高岳に登山をする、という計画をしていたのだけれども、運悪く強い勢力の台風が近づいてきていた。次第に風が強くなり、大雨も降り出していた。
 涸沢ヒュッテで迎えた翌朝は、全く身動きが取れないほどの雨嵐となっていた。それでも午後になって風雨が多少弱まったので、ほんの少し登ったところにある涸沢小屋に移動した。停滞を余儀なくされるのなら、この機会に涸沢の二つの山小屋の両方に泊まってみるのも一興だろうと思ったのである。

 涸沢ヒュッテから涸沢小屋に移り、夕食を終えた手持ちぶたさの時間を持て余した私は小さな和室で時間を潰すことにした。
 6畳ほどの小さな和室には座卓が置かれ、その周囲の棚には山岳雑誌などが並べられていた。一人、若い、30歳ほどの男性が先客として本を読んでいた。私もそこらにある雑誌を一冊手に取り、座卓の近くに腰をおろすと写真を眺めたりしていた。しばらくして私がこの若者に「明日は奥穂に登るんですか?」という質問をし、彼が「いえ、北穂です」と答えたことから始まって、その後は二人で登山の話をあれこれと始めたのだった。
 若者は東京出身で研究職に就き、今は名古屋で単身で暮らしているという。休みを利用して、ほんの4年ほど前から山に登るようになったのだという。どこの登山クラブにも属さず、誰に教えてもらったわけでもなく、ただ登山書と登攀技術を説明するDVDだけで、かなり危険な部類に入る山にも挑戦してきたのだった。槍や劔(つるぎ)にも登ったことがあり、私と話をした翌朝は北穂高岳に登る予定だと話した。北穂高岳には以前も登ったことがあり、そこにある山荘のとある部屋からの眺めがとても素晴らしかったので、もう一度登るのだと楽しそうに話していた。
「4年前からって、どうして突然、山に登るようになったの?」
 そう尋ねると彼はほんの一瞬答をためらっていたようだったが、すぐにこう話してくれた。
「父が山をやっていましてね。父はもうずっと昔に死んでしまっているんですけど、何故なんでしょうね、この歳になってみて初めて、父と同じように山に登ってみたいと思うようになったんですよ。と言っても、父は山で死んだわけでなくて病気で死亡したんですけどね、ずいぶん昔に。父の山道具は全て処分されてしまっていて、残っているのは古い写真だけなんですけれど、ここら辺りの奥穂や槍や常念や蝶が岳のですね。そんな写真の中で愉快そうに笑っている父の姿を見ているうちに、ふと、自分も山に登ってみようかなと思うようになったんですよ。僕は仕事が忙しいので、いつも独りで見よう見まねで登っているだけなんですけど、これはこれで案外楽しいものなんだなーって思っています」
 もちろん、私は彼の父親が何歳で死んだのだとか、病気はなんだったのか、などというような野暮な質問はしなかった。彼と私は互いに名乗りもせぬままに、これまでに登った幾つかの山の話をした。北海道の山、日高や知床の山には彼はまだ行ったことはなく、興味深そうに私の話を聴いてくれた。私は自分の心を占めていた心配事、つまりは翌日の奥穂高岳登山について彼に訊ねた。
「素人に毛の生えたような中高年登山者が単独で明日、奥穂に登るつもりなんですけれども、特に注意をしなければならない危険な場所ってどこなんでしょうかね?」
 2回奥穂高岳に登ったという彼は、頭の中でルートをなぞるように思い返しているようだったが、やがてこう答えてくれた。
「ここからザイテングラートを越えて穂高岳山荘までは慎重に進めば問題はないと思います。滑落しないように慎重に進んでください。ただ、奥穂高山荘から先はいきなり直登の崖になります。ところどころに梯子や鎖場はありますけれど、ここだけは特に慎重に登ってください。ここを越えれば、後はただのハイキングのようなものですから」
 ちょっと言葉を休んでから、彼はこう続けた。
「脅かすつもりじゃありませんが、毎年のようにそこで死者が出ています。何年か前には8歳の孫と62歳のおじいちゃんが滑落して2人とも死んでいます。ほんの軽い落石で子供が手を離してしまい、落ちてゆく孫を追いかけるようにおじいちゃんも落ちてしまったという悲惨な事故だったようです。僕はその日居合わせたという人から偶然いろいろ聞いたんですけどね。ともかくあそこから落ちたらまず助かりはしませんから、穂高岳山荘の上の崖だけは十分注意して登ってください」

 翌朝。
 若者は疾うに北穂高岳に向けて出発していたのだろう、顔を見ることはなかった。私は札幌から持参してきたヘルメットをしっかりとかぶり、朝5時過ぎには登山を開始した。
 毎年何人もの死者が出ているというザイテングラートの岩場は慎重に登った。しかし、登山素人の私には、そこがどうして危険地帯だといわれているのか全く理解できなかった。今から振り返ってみれば、私が登った日は安全な条件に恵まれていたのである。台風一過で雨も風もなく、空はすぐに陽をいっぱいに含んではるかな高みまで青く輝き、これ以上は考えられないほどの登山日和となっていたのだから。何より視界を遮るものがなく、岩も濡れて滑るようなこともなく、条件に恵まれていれば能天気な中高年単独登山者が苦労することも無く登れる場所だった。しかし逆に、雨や風や霧や視界不良や疲労があれば、滑落して命を落とす危険な場所だった。
 やがて私は穂高岳山荘前の広場に辿りつき、そこで小休止を取り、山荘の売店で記念のTシャツを買ってから山荘直上の崖に取り付いた。
 この崖は高さが50メートルあるということを後で知ったけれども、たとえ100メートルあったとしても私は躊躇うことなく登り始めただろう。
 どこかで、頭の隅のどこかで、ここで死ねるのならそれもいい、と私が考えていたことは間違いない。死んでもいいと思えれば、死の恐怖感も消える。何の目標も目的も夢も無かった私には、「登山中の事故死」というのは「大手を振って」安らかな眠りを得ることのできるチャンスでもあった。
 教科書通りに3点確保で岩壁にへばりつき、絶壁に固定された鉄の梯子を登り、ところどころに垂れている鉄鎖を握りしめて登攀し続けた。ビルで言えば20階ほどの高さがあるその崖を、私は二度か三度だけ振り返るだけで登り切った。一度も、その崖のはるか下に存在している赤い穂高山荘の赤い屋根に気付くことはなかった。
 崖を登り切り、2、3箇所の短い直登部分を過ぎてしまえば、後はハイキングにも近いなだらかな岩場だった。さすがに頂上に近い稜線に出ると、身体を持っていかれそうになるような強風に時々襲われることもあったが、私は無事に単独で奥穂高岳頂上に到着した。
 空は蒼くドームのように広がり、雲一つ無かった。
 下界に目をやれば前々日そこを発った上高地の幾つかの建物も見ることができた。
 驚くべきことなのだろうが、この登山シーズン中の快晴の日に、奥穂高岳頂上に存在しているのは、私一人切りであった。いつもなら頂上周辺には何十人という登山者がいるに違いなかったというのに。台風が全てをお膳立てしてくれた。
 誰もいない、そして誰も登ってこない快晴の奥穂高岳山頂を一人で独占して愉しんだ。

 頂上からの下山を開始すると、さすがに疲労を覚えた。疲れ切っていたからだろう、ダラダラと「穂高岳山荘の崖」を降りていった。これが案外安全な下山に寄与していたのかもしれない。この崖を降りる頃になると、さすがに何人かの登山者も登ってきていた。道を譲って待っているときに、はるか下を眺めた。本当に、まるで直下に赤い口を開いているかのように、地獄の火炎のように赤く輝いているのが、穂高岳山荘の屋根だった。この50メートルの崖のどこかから落下したならば、一度か二度岩にぶち当たってバウンドし、あの赤い屋根の上に真っ逆さまに落ちてゆくだろうし、絶命することは必定だった。
 立ち止まって赤い屋根を見下ろしたその時になって、やっと、私は前夜の若者が話してくれた孫と祖父のことを思い出した。恐らくは落石に驚いて孫は岩から、あるいは梯子や鎖から手を離してしまったのだろう。そして、落下してゆくその愛する孫を追いかけて、祖父もまた手を離したのだろう、孫を助けようとして。
 ここから落ちたら確実に死ねるんだ‥‥そんなことをボーっと思いながら赤い屋根を見下ろしていると、下から女性の声がして現実に引き戻された。
「すいませーん、先に降りてくださーい。私たちゆっくり登るんでー」
 カラフルな登山服を着た40歳くらいの女性3人グループが私を見上げていた。
 すると58歳の初老男である私は、電流を流された電車のように突然シャキッとなり、慎重に、しかし老人臭さを感じさせないようにできるだけ優雅に見えるように梯子を降りたのだった。


11
 話を聴き終えると、成田はウィスキーを一口飲んでから私に訊いてきた。
「君は本当にその崖から身を投げて死んでしまいたいと思っていたのかね?」
 私は一呼吸置いてから答えた。
「その時、本当には何を考えていたのか、自分でも分からないですね。ただ、死んでもいい、と思っていたことは確かでしょう。あんな20階建てのビルのような崖を這いつくばって登ってゆくなんて、今でも思いますけどマトモな精神状態の人間にはできない||」
「登山好きはみんなマトモではないからね」と成田は笑いを含んだ半畳を入れた。
「‥‥ただその時、降りる時になって、不思議と、8歳の孫と62歳の老人のあの2人ことを考えていたのは確かですね。特に落下してゆく孫を追いかけて、自ら落ちていったその老人のことを、ですね」
 成田はウィスキーボトルからコップに新たにウィスキーを注いで、何も答えないで黙ってしまった。私はその時に思い出した別の話、これも山岳遭難、これも「自ら死を選んだ男」の話をした。

 2011年の3月には東日本大震災が起こり、東北地方の太平洋沿岸では死者行方不明者が2万に迫る大惨事となった。その年の8月、穂高岳山荘の赤い屋根の上に落下して、8歳と62歳の孫と祖父とが死亡した。そして翌年2012年の夏には妻の理絵の癌が見つかり、末期癌であったためにその翌年である2013年1月の初めに彼女は息を引き取った。
 そしてその翌月の2月には、穂高山系ではこんな遭難事故が起きていた。私はそれをネットのニュースで読んだ。
 岐阜県高山市の西穂高岳独標で山岳遭難の男女が発見され、岐阜県警は2人の死亡を確認した。男性は静岡市在住の県立こども病院の医師でHさん、63歳。女性は妻で58歳。二人の死因は凍死だった。岐阜県警によると夫妻は日帰りの予定で入山し、西穂高岳独標登頂後に悪天候のため道に迷い、妻が尾根から200メートル滑落したのだという。夫は妻からから約50メートル離れて倒れて見つかったという。身体の一部が雪に埋まり、心配停止の状態だったという。
 私はその遭難事件の概要を話してから成田に言った。
「奥さんが雪の沢の下にどんどん滑落していったのを見て、夫は『自分一人では助けられない』と頭ではしっかりと理解していたはずです。夫婦とももかなりの山の経験があったはずで、そうでなければ冬季にあの場所に行くはずはないですから。僕は夏に新穂高ロープウェイを使って少し独標の方に登ってみましたが、冬にはベテランの登山者でなければとても登攀は不可能なことぐらい理解できました。
 2人の遺体が50メートルも離れていたことを考えると、雪が深くて、夫は妻にそれ以上近づくこともできなかったのでしょう。雪が飛ばされている尾根を歩くことはそれほど難しくはありません。でも新雪が何メートルと積っている谷すじを進むのは、よほどの体力と装備がなければ無理です。
 雪の谷底に滑落した場合は、2次遭難を恐れて一緒に登山していた仲間ですら「諦める」ことが多いのです。実際の話を登山仲間から聞かされたこともあります。2次遭難になることを、自分も恐らく助からないことを、この夫はちゃんと理解していたと思います。
 でも、奥さんを見捨ててゆけるでしょうか?
 妻をその場で「諦める」ことができたでしょうか?
 一緒に助からない・一緒に凍死することになると解っていても、この夫は妻のもとへと、雪に埋もれても死に物狂いで助けに向かったのでしょう。

 あるいは……と私は続けた。
 一人だけで山荘に戻り、救助を求めるよりも、妻のいる雪の谷すじに降りてゆき、自分もまた死ぬことの方を、彼は自覚しながら・頷きながら選んだのかもしれません。
 妻と一緒に死ぬことのできたこの夫は、自分が死ぬことを理解していながら妻の落ちていった谷へと、自ら望んで降りていったような気して私にはならないんですよ。
 不謹慎な言い方かもしれないんですけど、この夫が羨ましくてならないんですよ、僕は。ともかく、奥さんと一緒に死ぬことができたんですからね。少なくとも、奥さんを喪って突き落とされることになる絶望の谷でもがき苦しむことを彼は免れることができたわけですから。自分の人生に意味を与えてくれた存在、毎朝起きることに意味を与えてくれた存在を喪って、どうやって生きていけるというんでしょうかね。

 そこで私は話を終わりにした。
 サーレマー島の豪華なホテルの一室。
 薄暗い部屋で、ベッドに座っている成田の顔の表情は分からなかったが、声だけははっきりと聞こえた。その成田は、しばらく黙ってウィスキーを飲んでいたが、やがて一言呟いた。
「‥‥なんてバカなことを言ってるんだろうかね、君は‥‥」
 教師がバカな生徒を呆れるような口調だった。私には成田に怒りとか反感とかを抱く感情は既に無かった。確かに、自分の言っていたことが「バカなこと」のようにも思えていたからである。
「君はコリント書の中のパウロの言葉を知っているかね? 信仰、希望、愛。この中で最も重要なのは、愛だとパウロは言っている‥‥」
 既に信仰を喪ったと話していた成田からキリスト教の説教を受けるとは笑止千万、と私は心の中で呟いた。
「そう、信仰? そんなものはもう僕はとっくに失ってしまっている。希望? そんなものはもう僕にはないよ。しかしそれでも、愛、は残っている。そして愛なくしては、人間というのはこの苦しみに満ちたクソったれた世界の中で生きてゆくことはできないんだと思う。そうじゃないかね?」

 愛が無ければ生きてはいけない‥‥そのあまりに陳腐な説教の内容に、その表面的にはあまりに俗っぽい「説教」に、私は何も言い返す気にはなれなかった。奥さんとはもう殆ど話をしない仲になっている、寝る部屋も別々で食事も殆ど一緒に取ることはないと成田は話していた。信仰も失い来世の希望も神への「愛」も無い。恐らくは京都に嫁に行った娘とはかろうじて接点はあるのだろうけれども、その娘も母親同様熱熱なカトリックの信者だとしたら、父と娘の関係はどうなっているのか分からない。
 成田はそんな私の頭の中の雑念にはお構いなく続けて言った。
「愛する者が死んでしまったら死ぬよりほかに仕方がない、というようなことを詩人の誰かが言っていた。ところが世界というものは、歴史というものは、そして人間社会というものは、愛する者を失っても生きてきた人たちの努力で成り立ってきたんじゃないかね? 愛する者を失って、その度に近親者が何もできなくなっていたら、まして死んでいたら、人間社会というものは崩壊するよ。愛する者を失ってもそれでも生きていく人たちがいたからこそ、こうやって快適なホテルでウィスキーを飲み、飛行機やバスで世界旅行もできるし、平和な社会を維持できているんじゃないかね?」
 成田は首からいつもの金色のペンダントを取り外してベッドサイドのテーブルの上に置いた。
「なるほど、孫を追って死へと落ちていったおじいちゃんや妻を追って死へと降りていった夫がいたことは事実だし、誰もその行為を責めたりはしない。でも君がそうした行為をさも美しい行為であるかのように、羨ましい行為であるかのように喋るのは実に不愉快だよ。なぜなら、君は奥さんが死んだ後も、ちゃんとこうして生きているじゃないか」
「ボロボロ、ヨレヨレで生きていますよ、目的もなく」
「おいおい、自己憐憫はやめたまえ、とても見苦しいことだよ。愛があるから人はなんとか生きていけるんだよ」
 私は成田の言っていることの脈絡を掴むことができなかった。
「‥‥僕も、ですか?」
「君の頭の中で君の亡くなった奥さんは生きている。死んではいない。だから、君は生き続けることができているんだよ」
 私はますます、成田が何を言っているのか理解できなくなった。
「思い出は死なない‥‥少なくとも君が死ぬその日まではね。だから、人は生きていける」
「思い出を愛して生きていけとでも? 過去を愛着して生きていけとでも?」
「思い出をじゃない、思い出の中の人を愛して生きていけるのさ。思い出の中に愛する人を持たない哀れな連中もいるのだろうけれども、そうした連中の場合がどうなのかは僕は知らない。下劣なクソ野郎がいるのと同様に愛も知らずに生きている灰色の連中もいる。しかし少なくとも君には、思い出の中に愛する人がいる。だから生きていける、それに君は気付いていないんだよ!」
 成田は珍しく大きな声を上げた。
 どうしてそんなに感情が昂ぶっているのか、その時の私には解りはしなかった。
「‥‥でも、君もいつかはそれに気づくよ」
 成田は打って変わって囁くような声でそう言うと、ウィスキーを飲み干し、そして壁のほうに身体を向けるとそのまま眠ってしまった。
 私は部屋の明かりを完全に消して、成田の隣のベッドで横になった。
 成田の言っていたことは全く分からないままだった。
 日中歩き回った疲れからなのだろう、そのまま直ぐに私は暗闇に吸い込まれるように眠りに落ちていった。

 翌日はエストニアの首都タリンへと向かった。
 途中、歴代のロシア皇帝やチャイコフスキーの保養地として有名なハープサルを見物し、午後にタリンに到着する。5年に一度タリンで開催されている「歌と踊りの祭典」のプログラムの一つである「踊りの祭典」を、カレフ・スタジアムで見物した。
 タリンでは港の直ぐ近くに建つホテルに3泊した。その最初の夜にも、私は成田としばらく話をした。
「明日の予定はどうするんだね? 午前中は自由時間だけど」
 そう成田に訊かれて、私は既に添乗員に翌日は完全に自由行動をさせてもらう許可を取っていることを話した。その日に踊りの祭典をやっていたスタジアムの横に広い墓地があり、そこを見学してからタリン市内の美術館や博物館を一人で歩き回る計画を既に立てていたのである。
「やれやれ、また墓場かね、飽きないね」
「成田さんはどんな予定なんですか?」
「僕は午前中は旧市街地を歩くよ。ここはヨーロッパでも有数の美しい旧市街を楽しめるところなんだよ。ヘルシンキ、サンクト・ペテルブルク、ストックホルムとの海上交通による物資の流れも昔から盛んだった。午前中は街を一人で散歩して、午後からは添乗員さんがレストランに連れて行ってくれるし、昨日スタジアムで踊っていた人たちがあのまま民族衣装で参加するパレードも見物できる」
「唯一惜しいと思うのは、昼食と夕食を諦めることですよ。僕は店でサンドイッチでも買って済ませます。これがイスラエルやトルコやエジプトならばレストランでの食事を喜んで諦めるんですけどね。あのあたりはピタパンにどこも同じような詰め物ばかり詰めて食べるだけですから」
「エジプトは良かったかね、僕はまだ行ったことがないけどね」
「王家の谷で入った地下墓地は最高でしたよ、あんなに美しくて感動的な墓所というものは他にありません。ツタンカーメンの墓を含めて3つ入りましたけど、実際にあそこに行くまではどれほど凄いところなのかということをまるで理解していませんでした」
「おやおや、どこに行っても君という男は墓にのめり込む男なんだね」
 と成田は笑いながら、胸に掛けていた黄金色のペンダントをサイドテーブルの上に置いた。

 タリンでの2泊目の夜についても、そして『歌の祭典』を観たあとの3泊目の夜についても、成田と何かを話したという記憶はない。2人とも良い意味で疲れ切って、興奮した日中の時間の結果としての心地良い疲れから、おやすみの挨拶もそこそこに眠りに落ちてしまった。成田が酒を飲んでいたのかすら私は知らない。
 最終日は早朝に起きて、タリンの国際空港からワルシャワに飛び、そしてポーランド航空に乗り換えて成田空港に戻ってきた。元社会科教師の成田とは飛行機の席が離れていたので、フライト中は一度も話をしなかったし、日本に到着してからも成田と別れの挨拶すらできなかったのである。住所や電話番号の交換すらしなかった。
 その成田が私の住所を聞き出したのは、後で彼から聞いた話によると、私の卒業大学の事務からだったという。ホテルでの夜毎の会話の中で、私は何かの流れで卒業大学名を彼に教えていた。成田は大学医学部の事務に電話をかけた。そうした個人情報は普通は教えないものだが、ここで「高校教師」という成田のいつもの切り札がとても役に立ったのだという。もちろん、どんな嘘八百を並べ立てたのかまでは話しはしてくれなかったが、成田はまんまと医学部事務の女性に名簿を調べさせ、住所を聞き出すことに成功したのだった。

 こうして、成田と3年振りに会うために、私は新千歳空港に彼を迎えに行ったのだった。