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2016年10月7日金曜日

老いと孤独 Mary Morrison Henri Nouwen



メアリー・C・モリソンの死亡記事
http://www.timesrecordnews.com/obituaries/mary-c-morrison-ep-433666890-338772581.html


 昨日、部屋の片づけをしていたら、段ボール箱の中から上記の本が出てきた。
 1300円の本を、何年か前、古本屋で半額の650円で買ったらしい、ことは判ったが、読んだのか記憶にない。記憶にないということは読んでいないのだろう、ということで、いつものように、片づけはそこでストップ。座り込んでこの本を読んでいるうちに、眠たくなって.....という、いつものパターン。
 こうして、部屋の片づけというものは永遠に終わらない、というより、死ぬまで終わらないのだろう。
 モリソンは2008年に97歳で死んでいる。
 こうした人の本を読んでいて、いつも思うのは、背景に「信仰・キリスト教」がある、ということ。
 では信仰を持たない人、神を信じない人にはこれらの「言葉」は、役に立つ・有効なのだろうか、ということ。
 今、これを、アーノンクールが指揮しているブルックナー7番を聞きながら打っている。
 アーノンクールもブルックナーも、知る限りは、コチコチの・敬虔な(過ぎる?)キリスト教徒である。しかし、彼らの音楽は神を信じなくとも味わうことはできる。キリスト教絵画を観ても、宗教を超えた何かを(祈りや絶望や希望といったきわめて人間的なものを)感じ取ることができるのと同じことである。
 しかし、モリソンやその他の信仰者の「人生論」は、そうはいかない。

 モリソンは、老い、と、死、の向こうにafterlifeがあると信じている。それを信じることができるならば、老いと死の意味も孤独の意味も「独特のものとなる」。


 でも、あまり先走らないで、この本の中で唯一参考になると思った部分を写し取っておく。

P90~
孤独
 老いた者にとって最大の苦悩は「孤独」かもしれない。子どもたちが成人して家を離れたとき、友が遠くに越して行ったとき、あるいは、長年連れ添ったパートナーがこの世を去ったときに訪れる孤独。
 とりわけ、人生の伴侶を失うことはつらい。人生が断ち切られたとさえ感じるだろう。いや、その通りなのだ。久しく慣れ親しんできた人生が一変するのだから。

 突然の孤独に見舞われて、自分を見失い、どこか知らない場所に放り出されてしまったような気がするだろう。「今朝はいかがですか?」という昔ながらのニューイングランド風の挨拶にも、「自分でもわからないの。いま考えているところよ」と答えてしまうように。
 ほんとうに「自分でもわからない」。何から手をつけていいのやら、さっぱり見当がつかない。
 しかしながら、ここにもやはり、老いの授かりものがあり、わたしたちが受け取るのを、じっと待っている。
 伴侶を奪われ、心に深い傷を負った者には、アンリ・ヌーウェンが語ったように「寂しさから解放され、真の孤独にいたる」ためのきっかけが与えられる。
 長い人生を通じて、わたしたちがひとりきりになる時間、つまり自分自身になる時間はほとんどない。あらゆる制約がはずされたとき、自分の生活リズムがどのようなものになるのか、確かめてみるチャンスなどないのがふつうだろう。
 部屋の中であろうと、屋外であろうと、まったく自分ひとりになったとき、自分が何を考え、どのように感じ、いかに振る舞うのか? それを知る時間は、これまで少しもなかった。
 寂しさと悲しみと苦痛に包まれたとき、他人に気をつかういままでの生活から離れて、自分のことに取り組む契機が訪れる。
 このとき、心のまん中にぽっかりとあいた空洞から目を転じて、掘り起こされるのを待っている「わたし自身」という財宝に思いをはせることもできる。
 ひとり住まいを愛するようにさえなるかもしれない。自らを友とし、自分の思考と感情の中に新たな交わりを求める――それだけの時間はたっぷりあるのだから。

 人生の晩年には、孤独こそが、親友であり、久しくつき合えるほんとうの友なのかもしれない。
 「わたし自身」の核心を見つめ、そこに見出したものを慈しむ絶好の機会が与えられたことに、やがて深く感謝することになるだろう。
(引用終わり)


 上に登場しているアンリ・ヌーウェン(Henri Nouwen)というカトリックの神父・神学者の著作には興味を引かれたので、アマゾンで2冊注文した。
.......「寂しさから解放され、真の孤独にいたる」ためのきっかけが与えられる。
 寂しさから解放されて真の孤独、とは、いったいどういうことなのだろうか。
 そもそも、寂しさから解放されるのだろうか。