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2016年9月27日火曜日

井本絢子 小林麻央







 この前の日曜日の新聞の書評欄には、メイ・サートンの翻訳本に関するものが載っていた。
 アマゾンの利用法を覚えた頃(もう10年近く前になるだろうか)、メイ・サートンの本を何冊か買い、それでもまだたくさん(10冊以上は)販売されていたので、残りは買った本を読んでから注文しようと思った。いくらなんでも、一度に20冊もの洋書を注文するのは重荷である。
 半年くらいたってから、アマゾンのサイトを覗いてみると、「後で買おう」と思って注文していなかった本が、すべて消えていたことに気付いた。
 あの時の「ドジを踏んだ」という感覚は、いまだに忘れられない。
 つまり、本というものは、売りに出ているときに思い切って買わなければ手に入らなくなる、ということを教えてくれたのがメイ・サートン、ということになる。
 今回新訳が出た本も、そのときアマゾンから消えたもの。
 久しぶりにメイ・サートンの本を検索すると、この消えた本も含めて、数冊は再度売りに出ていることを発見した。もちろん、急いで注文した、メイ・サートンの伝記(珍しく彼女の若い頃の写真が表紙に使われている)も含めて。

 彼女の本で最初に読んだのが、
Journal of a solitude (1973)
 である。その、最初のページに、こんな文章がある。

 On my desk, small pink roses. Strange how often the autumn roses look sad, fade quickly, frost-browned at the edges! But these are lovely, bright, singing pink. On the mantel, in the Japanese jar, two sprays of white lilies, recurved, maroon pollen on the stamens, and a branch of peony leaves turned a strange pinkish-brown. It is an elegant bouquet; /shibui/, the Japanese would call it. When I am alone the flowers are really seen; I can pay attention to them. They are felt as presences. Without them I would die. Why do I say that? Partly because they change before my eyes. They live and die in a few days; they keep me closely in touch with process, with growth, and also with dying. I am floated on their moments.
(Words sandwiched between the two signs of /, are printed in Italic in original text.)


 今朝、庭に咲いている秋のバラを見ながら、そんな文章を思い出した。
Strange how often the autumn roses look sad, fade quickly, frost-browned at the edges! But these are lovely, bright, singing pink.
 星の王子さまに出てくるバラとは違って、まったく何の手入れもしないのに、この庭のバラは毎年ちゃんと咲いてくれる、文句も言わない。
 やがて霜にやられて、変色し、萎縮し、枯れて、散ってしまう。
 翌年にはまた新しく花がさくけれども、しかしそれは「違う花」である。
 一回きりの時間を生きて、バラは毎年庭で散ってゆく。
....they change before my eyes. 
 They live and die in a few days; they keep me closely in touch with process, with growth, and also with dying.
 I am floated on their moments.

I am floated on their moments. なんという、深みのある言葉だろう。目の前で咲き誇り、やがて枯れ、消えてゆく花をみて、スンナリと、意気込むこともなく、悟りの境地に至っている。

 実は、登山でも、この I am floated on their moments. という感覚に至ることができるのである。




 塗った眉毛が気持ち悪い・見ただけで吐き気がするこの井本絢子の登山番組など一度も見たことはなかった。ネットや雑誌で時折話題になっているから知っているだけのことだった。
 しかし、
「アイガー北壁」
 と連呼している宣伝(?)を知って、これは是非とも見たいと思った。
 アイガー北壁である。
 つい最近映画にもなった。小説『アイガーサンクション』も思い出した。ヒトラーが登頂成功者に金メダルを与えると宣言し、何人かの登山家が死んだあの北壁である。
 登頂には、何日もかかり、岩に吊るしたテントに寝泊まりする。そのテントの下は1000メートルの絶壁が切り落ちている......なんてことは、しかし、この井本の登山には無かった。
 羊頭狗肉とはこのことである。
 アイガー北壁という宣伝文句はいつの間にか雲散霧消し、要するに、アイガーという山の東稜を・標高差600メートルの岩山を、6時間かけて、エキスパートにしっかりザイルで守られて、登頂した暁にはヘリで下山という、「アイガー北壁登山」とは縁もゆかりもないドタバタエンタメ登山、だったのである。
 まぁ、それはいい。
 素人ができるのはその程度のことだろう、ヘリもエベレストをヘリで降りてきたあの阿呆老人日本人がいるのだから、何も文句は言わない。
 しかし、それにしても、この井本絢子という女の、言葉、仕草、表情、どれをとっても吐き気がするほどの下品さには、見ていてすっかり気分が悪くなった。


 この下品な女をなんとも思わないのだろうか、視聴者は。それほどまでに、視聴者は野卑で卑しい言葉や行動を愛しているのだろうか。井本絢子のやっている登山というものに対しては、
 ”下品登山”と名付けるしかない。三浦雄一郎はサル登山、野口健は若村真由美登山、糸蜘蛛男(竹内岳洋)はアホ登山、そして井本絢子は下品登山である。
 現代日本のテレビで見かけることのできる”下品御三家”、いや”3大下品人間”を挙げるならば、
松山千春
橋下徹
井本絢子
 で決まりだろう。


 で、この下品登山を見ながら、私は小林麻央のことを考えていた。
 この下品女の登山を視聴者が見るのは(視聴率17パーセント以上だったという)、何度も画面にエゲツなく出てきた文字が教えるように、
「死」
 がちらついているからである。一歩間違えば、死ぬ。その「他人の死」を見るという興味本位から、「他人の死を見られるかもしれない」という興味本位から、見る。たとえそれがこれほど魅力のない女性でも、1000メートルの崖を落ちたりしたら、あるいは、スイス人ガイドが命がけでそれを助けたりしたら、「みもの」だから、である。
 ローマ時代にコロセウムでグラディエーターたちが殺し合うところを興味本位で見ていたローマ人観衆と何ら変わりはしない。
 もちろん、下品女は死んだりしない。
 死ぬような事故をおこせば、この番組は終わりである。だから、「鉄壁の安全対策」を取っている。間違ったって(!)死なないように、ザイルでしっかり守られて、何人ものその道のプロが控えている。NHKバカ登山・100名山一筆書きに登場したサル・田中ヨウキに、10名くらいのスタッフや登山のプロがついていたのと全く同じである。

 要するに、
「死」
 を見世物にしているのである。「死ぬかもしれない危険な登山」を見て、ハラハラドキドキを売り物にしている。こんな下品な登山に強力しているその道のプロ登山家たちも、下品登山家の「称号」を受けるに十分に値する。
 下品登山家・貫田宗男
 下品登山家・中島建郎
 下品登山家・田村真司
 下品登山家医者・武藤文隆
 というように。

 死ぬかもしれないという危険な道を、両側が数千メートルどころか、永遠の深みに切れ落ちている危険な細い道を、懸命に歩いているのが、小林麻央である。
 二人の幼い子供の母親で、34歳で、骨にまで転移した乳癌と命がけで戦っている。
 かたや、テレビ画面で
「命を遊び道具にして・死ぬかもしんねぇーと喚きながら視聴率を稼ぐ」
 のが、下品女、30歳の井本絢子である。
 もちろん、こんなものは「登山」ではない。ただのエンタメであり、森三中の連中が、顔を歪めて涙を鼻水を流してバンジージャンプや大砲から打ち出されて湖に落ちるのと、何ら差異は無い。いや、森三中の連中がやっていることは単にお笑いで済ませることができるけれども、下品女のやっていることは「死ぬ死ぬ死ぬ」と煽っているだけに、低劣である。
 これほど命を大切にしない番組を放送して、命を「見世物」にして(要するに)人気を得よう・金を儲けようとしている連中は、低劣、としか呼びようがない。

 プロデューサーは、石崎史郎という肥満した陰湿そうな男である。
 石×、という名前。
 済州島小沢一郎の子分である「石」川知裕、や、内田裕也の家をレポートしていた「まいう」の「石」塚英彦、や、旧しばき隊幹部・現全国大学生協幹部の「石」野雅之、と雰囲気がそっくりなのは、私の個人的感想だけど。

 昔、グランドジョラスだかマッターホルンだったかの北壁を登った日本人登山家がいて、もちろん、何日もかかって登ったのだけれども、壁にテントを吊るして登っていたその数日間、毎日、その登山家の奥さんがヘリコプターでやってきて、「あなたー、がんばってー」というような応援をしていたという。地元の人たちは、この日本人夫婦の「バカぶり」に心底呆れ果てたという話を聞いたことがある。
 東稜から登ってヘリで降りるのは「普通にやっていること」というような話が出ているけれども(どこの誰が流しているのか不明)、普通の登山家がそんなことをやったりしたならそこで「登山家としては終わり」である。もちろん、エンタメドタバタ登山家の井本絢子がそうやって降りるのはいいけれども、日本山岳会のホープ、とか宣伝している男やその仲間までヘリで降りているというのだから、軽蔑するしかない。
 いや、こんなドタバタ登山をやっている日本人に対して、スイス人は心底呆れ果て、日本人全般に対して軽蔑を覚えたのではないだろうか。
Is it another wonderful way to defame Japan and Japanese by Korean-controlled-Japanese-TV ? (I am not taking of a specific person nor a particular company, from my viewpoint, almost all Japanese-TV companies are ruled by Korean and/or their henchmen. )


 小林麻央だけではなく、日本全国のあらゆるところに、癌や病気やその他、命を脅かすいろいろな不幸な出来事と戦っている人がいる。
 「真っ当な登山家」が真摯に命を懸けて登山する姿は崇高ですらある。
 しかし、下品女と下品プロデューサーたちが何の考えもなしに、ただただ視聴率欲しさで、他人を巻き込んで(ガイドもひやひやだっただろう、たとえたっぷりと報酬を約束されていたとしても)、命を弄ぶ見世物をテレビ番組にしている。
 ずっと、この番組を見ながら、死の恐怖と戦って、抗がん剤治療を受けている小林麻央のことを考えていた。
 死ぬかもしんねぇーと喚き続けていた井本絢子と、精一杯取り乱す姿を見せることなく・周囲に感謝しながら・死を見つめながら闘病生活を続けている小林麻央とでは、雲泥の差、バラの香水と豊洲の地下水ほどの差がある。


 昔、普通の医者をやっていたころ、私は乳癌の患者を何人か担当した。
 内科医は普通、乳癌患者の治療を担当したりはしない。
 しかし、自家骨髄移植併用超大量化学療法、という厚生省班会議のプロジェクトに「相棒(といっても彼の方が3年先輩で血液病治療の指導医)」が参加していたので、乳癌患者、骨や肝臓や肺に転移した彼女たちの治療に私も携わっていたのである。
 本当に、彼女たちは、両側が死へと切れ落ちている険しい道を、歯を食いしばりながら歩いていた。超大量化学療法に骨髄移植である、本当に苦しい治療だったのである。しかし、生きるために、癌患者の彼女たちは必死で毎日闘っていた。
 そうした女性癌患者たちの姿を思い出すので、この無思慮で下品な女性とスタッフたちが命を弄び死の危険を煽って視聴率を稼いでいるクズ番組には、吐き気しか覚えないのである。
 と、これは個人の感想です。


PS.  I am floated on their moments. これについては、また別のエントリーに記す予定。