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2016年7月18日月曜日

天使はなぜ堕落するのか 八木雄二 (2009) その3

P510~
 トマスの神学で存在の上位を占めるのは、抽象存在であり普遍存在である。ここで繰り返し注意しておかなければならないのは、「抽象存在」はけして概念ではない、ということである。つまり心に懐かれただけの存在ではない。むしろ知性のみが把握できる精神的で優れた存在である。
 もっとも純粋な抽象存在は「エッセ」であるといわれる。感覚を刺激する具体的な事物存在は、その矯小化した姿である。したがって感覚的な存在においては、エッセは、そのもっとも内奥に密かに見いだされるのみである。知性はまさにそれを、抽象を通して精神のうちで現実態にもたらすことができる。それゆえ知性にとってだけは、エッセは、存在することの「現実態」なのである。
 トマスは、このエッセこそ神の存在であると見なす。すべての被造物は、このエッセを分有して(言い換えれば、矯小化して、あるいは、減退させて)存在している。トマスにとって神学は、その神を観想することによって、世界を理解する学問である。なぜなら、世界はエッセを得ることで存在するからである。
 それに対してスコトゥスの神学では、存在における最高存在は無限の神であり、その下位にあるのは有限の被造物である。ここで無限とか有限といわれているのは、「内的固有の様態」といわれる。それは個々の存在がもつ「個体的存在の完全度」における無限であり、有限である。
 スコトゥスにおいて「抽象性」は概念世界のことがらに限定されている。したがって、スコトゥスが言う存在の完全度は、けして抽象性の高さではない。それゆえ、スコトゥスにおいて神はけして抽象存在ではない。
 なおかつ、被造物のなかでの精神的能力の高低は、存在の完全度の高低とはかならずしも一致しない。存在の完全度は個別的であって、種のなかで一定ではないので、存在の完全度の高低は、個々のものが神に近いか遠いかを理解させるのみである(存在の完全度はむしろ個々のものに与えられている神の恩寵の深さである)。それは知性能力の高低とは別の尺度なのである。
 スコトゥスの神学では、意志の主体的な決定力(自由)が最大限度に認められる。知性は対象の状況を理解させるが、行動に結びつく決定、判断をするのは、知性ではなく意志であると見なされる。それゆえ、トマスにおいては神学は観想的な学問、すなわち、安定した恒久的な神の真理を見つめようとする科学であるが、スコトゥスにおいては、人間の誤りうる意志を正しく導くために、神の認識を提供する実践的学問とされている。
 そのためスコトゥスにおいては、自由意志や偶然が強調される。しかもスコトゥスによれば、個別存在は普遍存在が楼小化したものではない。むしろ個別存在こそが真に「一つ」といわれるものである。それに対して抽象的な普遍存在の一性は、実在性として認めるべきであっても、「より小さな」一つ、つまりこちらのほうがむしろ「楼小な一つ」なのである。
 こうしてスコトゥスにおいては、個別存在の完全性は、普遍存在の完全性と比較して、より高いものとなった。言い換えると、抽象や普遍は概念的なものとなり、実在を映すかぎりでの実在とされ、実在性を少なくした。
 認識能力についてもスコトゥスは、個別存在をとらえる「直観」を、「抽象」より完全な認識能力として登場させる。トマスにおいては、「抽象」こそ神という不変の抽象存在をとらえる高度な認識であった。
 これらを対照させて考えてみれば、どれほど大きな視点の違いが両者の間で起こったか、はっきりとわかるだろう。一三世紀の後半から一四世紀のはじめにかけて、哲学は意外に大きな歩幅で進んでいたのである。
 何人の天使が針先で踊れるか
 さて、ここで、おそらく読者にとってもっとも興味深いテーマに入ろう。中世哲学を拓植したことば、「何人の天使が針先で踊れるか、そんなことをスコラ哲学者どもは真剣に議論していた」という近代からの批判である。
 じつをいえば、わたし自身は、この鎔接に最近まで興味をもてなかった。そのいちばん大きな理由は、中世哲学研究の観点では、天使論はあまり問題にされていないからである。
 じっさい中世哲学の研究のなかでもっとも多いトマス神学の研究論文をのぞいてみても、天使論に間しては見るべき論考はほとんどない。トマスの主著『神学大全』を見ても、大した考察は見かけない。したがって、「真剣に議論していた」というのは、どこかの酒場で哲学好きが集まって議論していた情景が、何かの間違いでつくりだしたものだろう、くらいに思っていた。




P518~
 またスコトゥスは、天使については、このほかの問題でもすべて可能性のなかで論じている。つまり現実にこれこれだ、と結論しているのではなく、それも不可能ではない、と結論する。
 こういう結論の出し方は案外スコトゥスの常道で、前に触れた聖母マリアの無原罪説についても、そういう議論をしている。
 しかし、「可能である」という主張は、現実に可能なことであるから、やはり現実化することがらと受け止められる。したがってこの問題でも、スコトゥス自身は学者の本分を守って可能性までしか言わないが、ほかの学者はスコトゥスが現実について主張していることがらとして受け止めた。
 真空中の運動についても同じである。スコトゥス自身はその可能性のみを認めているのであって、それが現実だと言っているのではない。しかしスコトゥス以後は、真空中の運動が現実に可能であると理解された。
 スコトゥスの論述は仮定を含んでいてわかりにくい。したがって、細部については触れることができないが、ここは最初の一群の問題に戻って、天使が針先のような場所に何人いられるか、という問題を見ていこう。
 スコトゥスのテキストを繰ると、編集者の親切な註もあって、天使が針先にどれだけいるかの問題は、ある歴史とからんでいることがはっきりする。そもそもこの問題は、トマスまでは特別に問題になっていなかった。
 トマスは天使の場所論として、「そのはたらき」がある場所に天使はいることを主張しているが、
これは古代の教父(キリスト教会の権威学者)ダマスケヌスの意見から取られたものである。つまりトマスは伝統的な立場を主張しているだけである。
 ところが、トマスが死んだ翌年になって、パリの司教エティエンヌ・タンピエが二I九項目の非難すべき命題を挙げたとき、そのひとつにトマスの命題を挙げたのである。有名なて一七七年の禁令である。タンピエはその命題を根拠にして、はたらきがなければ天使はいない、と結論されるなら、この命題は教会の教えに反する、とした。つまり天使が、はたらきをもたなくとも実体として存在している状態を認めなければ、それはキリスト教会の教えに反する、ということである。
 こうして禁令が出たことで、この問題はトマス以後、にわかに大きな問題になった。この禁令をパリ管区内の問題として処理しようという動きもあったようだが、異端は管区司教の権威だけの問題ではなく、教皇の権威によるものである。そのため「ある大学のうちで厳粛に非難されている」と、スコトゥスが報告している。おそらくパリ大学のことだろう。
 とはいえ、場所の問題は、きわめて複雑怪奇な問題である。アリストテレスは『自然学』第四巻でそれを詳細に論じている。
 アリストテレスによれば、あるものが存在する場所(位置)とは、それがほかのものと接している局面である。アリストテレスの範時論にしたがうと、何かがあるとき、つまり実体があるとき、それにともなって実体は位置をもつ。実体がなければ、つまり何かがなければ、何かのある場所はない。それゆえ、場所は実体に付帯する偶性である。実体が消滅するとき、実体の場所も消滅する。
 しかし実体が動くときも場所は消滅するのか。
 たしかに、実体がある場所から別の場所に移るとき、実体の場所は替わる。最初の場所が消滅して、