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2016年7月18日月曜日

天使はなぜ堕落するのか 八木雄二 (2009) その2

P308~
 中世においては、もっとも実在的な存在はもっとも抽象的な存在であり、それが神の存在である。そこから抽象性が下がるにつれて、実在性も減退していく。質料が混じる段階では実在性もそれに応じてあやふやになる。感覚がとらえることができる存在は、この種の存在であり、人間知性が抽象化をほどこすことができる存在も、この種の存在である。
 ただし人間知性は、それ自身のはたらきによって感覚を刺激した存在に抽象化をほどこすことで、自分たちの存在の段階よりも上を目指して「存在」を受け止めることができる。つまり神自身のエッセにいくらか近いエッセ(つまり実在的な存在)を、人間知性は感覚を通してであってもとらえることができる、とかれは考えていた。
 一方でトマスは、アリストテレスにたいして忠実である。けして感覚表象への回帰を忘れない。つねに感覚という抽象の土台に戻って、真偽の判断を行うように主張している。すなわちトマスは、エッセを抽象存在であるとする立場を崩さず、他方で、エッセが現れる真偽の判断において、感覚表象への回帰を主張する。
 いうまでもなく、トマスによれば、エッセはもっとも共通的である。したがって、それはたしかに知性的存在であるだけでなく、感覚存在でもなければならない。とはいえ、存在レベルの上下関係という秩序を考慮しないのでは、神や天使を上位にいただく中世哲学の世界は成り立たない。したがって、トマスもそれを否定することはできない。しかし、アリストテレスを可能な限り取り入れるトマスは、上位の存在に抽象を通じて触れるだけで十分だとはせず、感覚表象への回帰を常に要求したのである。かれがそのようにした理由は、たんなるアリストテレスヘの忠実さなのか、それとも、エッ
セの共通性の強調なのか、わたしには不明である。
 なお、一般的に研究者の間に見られる見解によると、この感覚への回帰を重視するエッセの判断の思想は、感覚に活き活きと現前する今現在の「在る」を、トマスがとらえようとしている証拠であると考えられている。なぜならトマスによれば、エッセは本質にたいして現実態であり、また「存在することの現実態」と呼ばれるからである。トマスのこの言葉は、たしかに、エッセは本質が「存在する」ことにおける活き活きとした現在であり、また、ものが実際に存在している現実を意味している、と解釈できるように見える。
 しかし、トマスにおいては、神(エッセそのもの)は現在のみならず過去も未来も超越している。この時間論では、今現在の瞬間を重視する側面は見られない。それゆえ、トマスにとって、やはりエッセは時間をも超越する抽象存在であることはほぼ間違いない。「現実態」というのも、つねに抽象を通して知性にこそとらえられる「はたらき」であると考えられるべきである。
 トマスによれば、感覚は時間が経過することに本質的に支配されている。他方、知性が本来とらえるものは、時間を超越したものである。したがって感覚が活き活きと捉えているものは、現実態ではなく、むしろ知性にとっては可能態的なものである。そして、知的存在こそが神に近い、とトマス自身は考えていたのであるから、そのトマスによって、「活き活きと」感覚にもっとも近くとらえられる実存が「現実態の現実態」ともいわれるエッセのはたらきだ、ということはありえない。
 トマスのラテン語テキストの頁を繰っていると、「ratio(ラチオ)」ということばに頻繁に出くわす。このことばは、じつは翻訳者を悩ますことばである。というのも、現代の読者は研究者も含めて、新プラトン主義的世界観には不慣れだからである。したがって、どうしてもそれを前提しないことばで訳さなければ読者に読んでもらえない。そのため「概念」とか、「根拠」とか、あるいは、理性的根
拠の意味で「理拠」と訳す。
 しかし、じつのところトマスは、感覚的存在の上に、知的存在の領域を複数見ているのである。そして目に見える世界の存在は、すべてその根拠を、それより上位(ヒ質)の存在のうちにもっている、という新プラトン主義の世界を背景にして考えている。
 たとえば人間は、人間が存在しているよりも上位の存在のうちにその根拠がある。けしてその根拠は、同じ地平のうちで知性のうちに写されて、概念となるものではない。つまりその根拠は、じつは知性内の概念ではない。たしかに知性内の概念は、上位の存在のうちにある根拠をある仕方で写している。なぜなら能動知性のはたらきによって、抽象された形象は、上位の存在のうちにある根拠を反映するからである。つまりラチオの中味の実質は、たしかにわたしたちにとっては概念である。
 しかし、すでに述べてきたように、それ自体は概念ではない。トマスによれば、それは上位、ないし、上質の存在なのである。言い換えると、抽象存在という根拠となる上位物が、感覚には把握されないが、現実に存在するのである。このように考える立場が、そもそもの〈実在論〉である。それゆえ、トマスの文章のうちのラチオを単純に「概念」と訳していくと、文脈がしっくり来なくなる。そして、ついでにいえば、そうであるがゆえに、普遍論争の説明に「概念実在論」という立場を設定して説明するのは、事態を混乱させるだけである。少なくとも近代がいう「概念」というものは、中世の間では、普遍論争の議論のうちに出てこない。
 じっさい、近代では英語の「concept」、ラテン語の「conceptus」は、ふつうに「概念」の意味で使用されるが、中世のトマスではほとんど「赤子を身ごもった」、すなわち「懐胎」の意味でしか使用されていない。したがってトマスにおいては、現代の通常の「概念」という概念が、まったくといってよいほど見受けられないことに注意しなければならない。
 したがってまた、普遍論争を説明するときに、実在論をいろいろに説明するのは混乱を生じやすい。たとえば、言葉のもつ普遍性をそのまま上位の存在に認めるのが、〈極端な実在論〉であるとすると、本来の普遍性は知性のはたらきから来る付随的な性格と認めて、言葉のもつ意味が、普遍性抜きに上位の存在のうちに在ると考えるのが、ふつうの、ないし、〈中庸的実在論〉である。
 しかしこの立場でも、言葉のもつ意味を、かならずしも「概念」と考えているのではない。この通常の〈実在論〉を、近代的な文脈で「概念実在論」であると説明するなら、中世哲学は無用の混乱に陥るだけである。
 たしかに、カンタベリーのアンセルムスの神の存在証明は「概念」から「実在」へ進む証明である。しかしこの場合も、「実在」は感覚的存在ではなく知性的存在である。神はけして感覚的事物が「在る」といわれるのと同じ意味で「在る」ということではない。神が「在る」といわれるのは抽象存在においてであり、それゆえに、アンセルムスにおいても神の「実在」は「エッセ」(esse)と表現さ
れるのである。
 ところで、すでに触れたように、知性は能動知性の特別の力「抽象力」によって、知性的存在を認識する。したがって知性が得る「概念」は、上位に存在する知性的存在の写しであり、いわば「影」のようなものである。すなわち、知性がもつ「概念」は、それが真なるものであるかぎり、上位の存在である知性的根拠の「写し」であり、「意味」である。それゆえアンセルムスの神の存在証明は、この「影」から、その「存在」を証明しているのである。けして作為的概念から存在を証明しているのではない。
 中世哲学の研究はまだまだ謎だらけである。無用の混乱は避けなければならない。
 わたしが理解するかぎり、トマスは存在(エッセ)について、それをあくまでも知的な対象として考えている。そしてトマスは、それとわかるようにはっきりと述べていないが、おそらく、「神のエッセに貫かれた知性が、信仰をもつ知性である」と考えている。
 言い換えると、神について「在る」と判断する知性だけが、信仰をもつ知性であり、そのような知性は、自余のことについても、感覚と知性を通して、神が被造物に与えている存在に導かれ、神の存在に貫かれて、正しく判断することができる、と考えているのである。
 中世に生きたトマスにおいては、知性がとらえる存在は、大筋ではこのような抽象存在である。
 ところが現代人にとっては、抽象存在は疑いようもなく人間知性がつくりだす「概念」でしかないので、トマスのいう「エッセ」も、その抽象性に着目すると、どうしても「概念」にしか見えてこないのである。
 しかしながら、繰り返しになるが、概念的に考えるのは、中世哲学の背景となっている新プラトン主義を考慮に入れない解釈であり、まったくの時代錯誤である。中世人には、目に見えない上位の存在が、形而上学的にたしかに存在していると考えられていた。知性の尊さはそれを捉えることにあると信じていた。
 同様に、トマスのエッセを「概念」であると見なすことも、エッセの実在性を見失う解釈である。それは実在論の立場に立っているトマスを、オッカムと同じ唯名論(普遍的概念はすべて言葉の世界だけのものであって、実在性は主張できないという主張)の立場に立たせる結果になりかねない。
 なぜかといえば、エッセは本質にたいして現実態にあるから、本質は逆にエッセにたいして可能態にある。もしエッセが概念であるとしたら、エッセより可能態にある本質の実在性がますますあやしくなる。このような理解は、トマスにとっては断じて認めがたい。本質にも十分な実在性があり、それゆえに世界の本質について神学者は実在的に論じることができる。




P342~
 とにかくオリヴィにとって、「神の存在」は、不完全性のない完全な認識根拠であり、それは個別存在ではなく、最高度の「抽象存在」である。したがって、オリヴィが神について語るとき、個別性ではなく、反対に抽象性が、完全性ないし存在上の高位性と緊密に結びついている。それゆえ、抽象性から存在の高位性をはぎとる一面は、オリヴィにおいては限られた一面であって、一般的になっていない。
 神は最高度の抽象存在である、という定義は、神が第一の存在であることからして、中世哲学においては、もっとも重視しなければならない定義である。オリヴィはこの種の認識根拠においては、無は不可能であると主張することによって、アンセルムスの神の存在証明に対して全面的に賛同する。
 オリヴィは、つぎのように神の存在証明を進める。
 まず自明なものを三つあげる。一つは、基礎概念ともいえるもので、それなしにはほかのものが理解できない種類の根拠である。たとえば、「存在」(ens)とか「関係」(habitudo)などである。これはのちにドゥンス・スコトゥスが「端的に単純な概念」と呼んだものである。
 もう一つは、知的な人々が専門知識を構成するために知っている基礎命題である。「点は部分をもたない」とか「精神的なものは場所のうちにない」などである。これはのちにドゥンス・スコトゥスがトマスその他の哲学者とも共同して「自明な命題」と呼ぶものである。
 もう一つは、命題のなかのことばが示す概念が十全に理解されるとき、はじめて認識される命題である。つまりそれ自体としては自明であるが、その自明性を理解するために多くの探求を必要とするものである。「神が存在する」(Deus esse)という命題は、その種のものである、とオリヴィは言う。
 オリヴィはこのように、神の存在がそれ自体では自明でも、神を示す認識根拠は十分に探求しなければ、その自明性がわたしたちには明らかにならないと主張する。つまりすでにアンセルムスの神学について述べたように、神の存在はまず信じられ、その信仰内容が哲学的に吟味されるのである。その吟味のためにオリヴィが指示する認識根拠(ラティオ)が、「最高度に抽象された認識根拠」である。かれはその認識根拠を通じて、神の存在を探求する。なぜなら、最高度に抽象された認識根拠こそ、神について述語される完全性の概念だからである。


P399~

 したがって、トマスにおけるエッセとエッセンティアの類比は、とりあえず次のように考えること
ができる。
 まず感覚的なもの(質料)がある。人間はそれを感覚で認識することができて、それが「在る」と判断することができる。この場合、本質が感覚的であるから、その存在も感覚的である。つまり現実にその対象が存在しているのを見て、あるいは感じて、わたしたちはその存在を判断する。
 つぎに普遍的なもの(形相)がある。人間は普遍的なものを直接とらえることはできないから、感覚からの抽象でその本質を認識する。そして類比にしたがって、その存在も、その本質を含んでいる感覚的な場面から抽象してとらえることができるはずである。
 トマスにおいては、抽象的本質に関する存在であっても、感覚からの抽象であるので、人間の認識能力の範囲内にあり、その[在るか無いか」を、感覚表象への立ち帰りを通して判断することができる、と考えられている。

 つまり、わたしたちは人間や馬を認識する。すでに述べたように、トマスによれば、知性はそのとき人間や馬の根拠となる存在を、感覚的存在より上位の存在のうちに捉えている。このとき、感覚に現れている具体的な個別の人間や馬は、「人間」や「馬」の本質を根拠として生じていると考えられる。それゆえトマスによれば、具体的な個別者の存在から、知性は「存在」を受け取り、根拠となる本質の存在を判断できる、ということらしい。

 しかし、ここでトマスの言うことはわかりにくくなる。すでに述べたように、トマスにおいても、新プラトン主義の存在観が背景にあると見なければならない。知性存在は一般に抽象名詞として表現されており、抽象化され、具体性から切断されて理解されているかぎり、本質も「エッセ」といわれる存在も、いずれも具体的な感覚の地平にはない、と見なければならない。これが原則である。
 したがって、抽象化された本質と一致できる存在は、「エッセ」といわれる存在であって、感覚の地平に見いだされる「在るか無いか」ではないはずである。そうであれば、感覚に立ち帰る道は、そ
の存在を見いだす道ではない。  、
 ところがトマスは、感覚に立ち帰ることでそれが見いだされ、判断できる、と言う。百歩譲って、結果があれば原因があると結論できるという理屈を認め、上位の原因存在を、結果としての感覚存在から推断することが、トマスのいう「判断」であると考えても、わかりにくさは残る。そもそもそういうふうにトマスが考えていたとしたら、トマスの説明は不備が多すぎて不器用きわまりない。つまり哲学者としては幼稚だということになる。
 しかし、こんなことを言っていると、「お前はトマスが読者に想定している知性のないやつだ」と言われそうである。ここは適当にオブラートに包んで説明してみることにしよう。
 あえていえば、感覚的なもの(質料)における本質と存在の関係が、普遍的なもの(形相)の本質と存在の関係に類似していると見るのが、トマスの存在の類比である。これを使って、普遍的なものの存在を、感覚的なものの存在から判断するとき、類比による知性の判断、すなわち「在るか無いか」というトマスにおける判断のはたらきがある。
 さらに、いささか驚くべきことに、天使や神のように、その本質理解に際して感覚的なものからの抽象ができないものの場合、トマスによれば、その本質認識は質料性の「否定」や偶然性の「否定」によってしかできないが、にもかかわらず、感覚的なものからの類比を通じて「在るか無いか」の判断ができる、と言うのである。
 トマスはそれについて説明してくれていない。抽象存在のレベルにおいては、認識と判断の関係がどういうものなのか、まったく判然としない。
 わたしたちの通常の事物の理解においては、「在るか無いか」を判断する場合、その主語となる事物について何らかの認識をもたなければならない。主語が特定されない状態では、「在るか無いか」と問われても、「何か在るのか無いのか」疑問が生じるだけである。
 トマスは、明らかに神や天使については、その「何であるか」がとらえきれず、何らかのものを「神」とか「天使」と「わたしたちが名付けている」という事実にしか言及しない。じっさいそれらは否定的にしか認識できないとトマスは言っているのだから、トマスによれば、事実上、神も天使も「無」なのである。ただ「わたしたちが神と呼び、天使と呼ぶもの」が、確定した概念なしに主語に置かれて、「在るか無いか」の判断がトマスにおいて論じられている。


 しかし見方を変えれば、トマスの考えは、アンセルムスの神学伝統に忠実だと言うことができる。

 アンセルムスは、信仰の権威を括弧に入れて、信仰内容の真理性を哲学的吟味にかけることを宣言した。この場合、アンセルムスは信仰の真理性を否定しているのではない。ただ真理であることの根拠を信仰に求めるのを一時棚上げし、信仰内容となるものについて、それがなぜ真理であると言えるのか哲学的吟味を行い、真理であることを信仰の権威なしに、可能な限り合理的に証明しようと努力したのである。それが「神学」と呼ばれるものである。したがって、それは同時に信仰についての哲学である。中世哲学が神学であると同時に哲学であるのは、そういう理由による。
 ところで、キリスト教信仰のはじめに来るのが、「神が存在する」である。すでに述べたように、人間の側からの追求の結果として神が見いだされるのではない。神のほうから神の存在が追ってくるのが、キリスト教における「信仰の要求」なのである。これを諾するとき、人はキリスト教信仰をも
つことになる。        ゾ
 したがって人間は、神がどのようなものかがわかったうえで信仰をもつのではない。わからないままに信仰をもち、そのあとになって、神の存在について思考するのである。
 トマス・アクィナスは、キリスト教信仰がもつこの順序を忠実になぞる。それが何であるかわからないままに「神が存在する」という判断が成立する。そしてこの判断が間違いではないことを証明するために、トマスは五つの「神の存在証明」を提示する。すなわち、トマスの、感覚されるもの(運動)にもとづく神の存在証明は、その五つの証明のうちで第一の証明であるが、まさに主語について語らないままで、存在の判断ができることの証明になっている。


P419
 このプラトンの考え方は、その後、キリスト教思想と合致した。すなわちキリスト教徒にとって、父なる神の時代は旧訳の時代であり、はるかな過去の時代であった。
→ 誤植 旧訳→旧約


P447~

 すでに触れたことを繰り返すが、スコトゥスはトマスの神概念「存在そのもの」についても、それはそれでよいとしても、「無限の」を付け加えたほうがよりよい、という言い方をする。すなわち、個別的指標となる完全性の度合いを付言することを勧めている。
 こうしてスコトゥスは、神を哲学的に叙述する際、哲学史上はじめて、「唯一の抽象」存在である
ことをやめて、「唯一の個」の存在とした。これは中世後期にあらわれた重大な変化だった。
 それまで神に至る道筋は、知性の抽象作用の限界を追究することであった。知性によってしかとらえることのできない抽象の道筋こそが、より高度の存在をたどる道筋であり、神はその究極にあるはずのものであった。そのような想定が、新プラトン主義が想定している存在の秩序と重なっていた。
 新プラトン主義において、存在は高まるにつれて抽象的で普遍的な存在となり、他方、低きに進めば個別者に分かれて、はては善美な形相を失った無秩序な多数のもの(個別者)が見いだされる。この秩序において最高の存在は善にして一であり、その意味で-つまり普遍性、抽象性の意味で神はもっとも単純にして完全なものでなければならなかった。
 それがスコトゥスにおいて、神は被造物と同様に、個的存在となったのである。
 たしかにスコトゥスにおいても、神は単純にして完全でなければならない。しかし、それは多数の普遍的完全性を述語できることと矛盾することではなかった。なぜなら、スコトゥスにおいて完全性は、個別性や普遍性とは無関係の別の性格として理解されたので、端的に完全でありながら、普遍的ではなく個的存在であることが、何ら矛盾なく受け止められるようになったからである。それゆえスコトゥスにおいて、神は明確に個的存在であることが宣言されえた。
 これは中世後期に重大な変化があったことを意味している。なぜならこの変化は、見方を変えれば、知性が見いだす抽象性や普遍性が、感覚がとらえる個別性と比較して、絶対的な優位性を失ったことを意味するからである。
 なぜといって、最高の存在である神が抽象的存在でないとなれば、完全性の秩序は普遍性とは別のことがらということになるからである。存在の秩序において最高のものであっても、完全性の秩序と普遍性の秩序が別であるなら、存在のどの秩序においても、それらは別であろう。
 そうであるならば、論理の地平でより抽象的であることは、より普遍的であったとしても、価値の基準でより優れているとかより完全であるとかいうことはできない。ところでアリストテレスによれば、科学の対象は普遍的対象である。それゆえ科学の対象は、価値の意味、すなわち、完全性の意味を必然的にもつことはもはやない、と考えられる。つまり科学は何か優れた存在を追究しているのではなく、むしろ価値に対しては中立的に、あくまでも普遍的な真理を追究している、ということになる。
 したがってスコトゥスの哲学は、学問ないし科学が追究する普遍的対象は、「完全性」と呼ばれる存在価値に対して中立であることを明確にしはじめたといえる。
 アリストテレス以来、あるいはプラトン以来、哲学において「普遍性」の秩序は「完全性」の秩序と重なっていた。哲学を含む科学が普遍性を追究するとき、それは即、完全性の追究であることが保証されていたのである。哲学者は普遍的善を追究し、普遍的一を追究し、普遍的存在を追究した。それは即、最高善の追究であり、最高に完全な神の存在の追究そのものであった。
 たしかにスコトゥスにおいても、普遍的善の追究や、普遍的一の研究は神の存在を追究することになりえる。しかしスコトゥスにおいて、神自体は個なのである。スコトゥスはこうして、普遍の追究が完全性の追究であるという素朴な信頼に、くさびを入れた哲学者となった。


P480
 歌唱の世界にもそうしたことがある。だれも近づかないほど、うらさびれた風情の年寄りを見ていたら、その口から魂をゆさぶる歌があふれ出てくる。そんなとき、聞く者はいきなり自分の体のなかの脊髄をつかまれるような衝撃におそわれて動けなくなる。
▲:脊髄をつかまれるような衝撃、という表現。そんな妙な表現をラフカディオ・ハーンはしているのだろうか? 『心』のうちの「門つけ」



P496~
 スコトゥスは神の存在証明において、原因は時間系列にそってはたらくものもあるが、同時性において、上から下まで、一瞬のうちにはたらく原因の系列もあって、これを縦の原因関連と見る。そして、時同系列にそってつぎつぎと原因が影響を与えて事象が生じていく側面は、横の原因関連と見て、明確に二つを区別している。
 ところで神の存在証明は、縦の原因関連を遡及することによって行われる。つまり横の原因関連は第一原因にかならずしも到達できないと見なされ、学問的には捨てられるのである。それゆえ、二種類の原因関連が認められていても、スコトゥスは、縦の関連、言い換えれば、複数の原因が上下の秩序をもちながら、同時的にはたらく原因を重視している。
 しかしこのことは、スコトゥスが瞬間のみを時間の実在であると見なしていたことと密接な関連がある。スコトゥスは、アヴィセンナやトマスのように、過去から未来まで、すべての時間が神の前に現前している、とは考えない。神が実在であるのなら、神もまた実在する時間とともに今、現にある、と考えるのである。
 こういうと、神が特定の時間内の存在であるかのように思われがちであるが、すでに述べたように、スコトゥスにおいては、時間は空間のような〈制限〉ではない。「今」のみが「生きた実在の時間」であり、それが残した過去という「あと」や、未来という「予想」は、実在ではなく、あくまでも知性が対象化した「仮想」にすぎない、という見方である。
 これはいうまでもなく、アウグスティヌスの時間論にその元がある。スコトゥスは面白いたとえを語っている。大地のうえに杭を立てて縄で円を描く場面を想像するように言ってから、つぎのような説明をする。
 杭に結んだ縄を張って、その先につけた棒で円を描くとする。縄を張った棒が地面を引っ掻いた跡は、円を描いていく。しかし、それはあくまでも「跡」であって、今現在の瞬間にあるものは、中心の杭と、縄によってそこから一定の距離をたもっている棒だけである。
 もし現にあるものが棒のある一点だけではなく、棒が描く円の全体が中心の杭に現前している、と見れば、過去から未来までの全時間が神に現前している、と考えられる。これはトマスやアヴィセンナの見方であった。スコトゥスはこのような立場を捨てたのである。
 真に実在しているのは、中心の杭に対してある棒のように、今現在のみである。この見方は、かれが「瞬間的同時性」を真の実在と見なして、過去となった世界や、未来にやってくるであろう世界を実在とはみなさない考えをもったことを意味している。
 じつは、これはきわめて重大な変化である。すでに述べたように、スコトゥス以前には、すでに起きたことは、もはや誰にも変更を加えることができず、事態が決定して変わることがないことから、確実な真理とみなされた。言い換えれば、必然的真理とみなされた。ところで、古代哲学の代表であるプラトンのイデア(イデアは真理の姿・形である)は必然的真理である。それゆえ、イデアについて語る場合、時制としてはつねに過去形で表現されてきたのである。
 さて、周知のように、現代では真理はいつも現在形で表現される。この変化は、おそらくスコトゥスがもたらしたものである。
 スコトゥスは、神を含めてすべては「現在に実在する」という世界観を明確に唱えた。そうなれば、真理は過去に属するのではなく、やはり現在に属するものであることになるからだ。このことはおそらく、原因の関連についても、縦の系列重視と密接に関係している。なぜなら、現在の瞬同性においてとらえられる原因の関連は縦の関連しかないからである。




P504~

 いうまでもなく天使には身体性はない。それゆえ天使には感覚的欲求もないと見なされる。したがって、天使においては意志の欲求は完全に知的なものである。とすれば、天使においては、ただ知性によって知られた対象に応じて、意志の欲求があるのでなければならない。
 とはいえ、すでにアンセルムスを説明する際に述べたように、ストア哲学がもっている心身一元論はアニミズムの一種である。霊的なはたらきも身体性なしには考えられない。したがって、奇妙に聞こえるかもしれないが、スコトゥスも天使を純粋精神の概念でとらえているのではない。天使には感覚的欲求はないが、天使の霊性ないし知性は、それがどういうものであるかは別として、「天使的な身体性」を帯びていると考えられている。
 さて、天使においても人間においても、神を認識することは至福の認識である。至福の認識には至福の愛が起こる。そして本来的には、神は神自身のために愛されなくてはならない。それゆえ、天使の堕落があったとすれば、それは天使が神を誤って愛したことによらなければならない。そして誤りは「節度を超えて」欲求する、ということにあった、といわれる。
 このような天使の堕落の理解は、そもそもアウグスティヌスが示しているし、アンセルムスやトマ
スにおいても基本的に同じである。
 スコトゥスは、意志であれ、感覚の欲求であれ、まずは自分への愛がある、と考えている。そして自分への愛が節度を超えて、自分のために神を愛するという誤りに陥るとき、天使は堕落して悪魔となったと理解する。
 当時の哲学の専門用語を使ってこのあたりを整理しよう。
 スコトゥスは、アンセルムスにしたがって、「肉欲」の愛と「友愛」の愛を区別する。友愛の愛は、対象をそれ自身のために愛する(対象を目的化する)愛であるが、肉欲の愛は、ついつい自分のために対象を愛する(対象を手段に使う)ことになりがちな愛である。わたしたちは自分のもつ愛がどちらの愛であるか明確には認識しないままに、一方と他方を混同して、節度を超えた欲求によって罪を犯す、と考えられる。
 つまりアンセルムスによれば、自分のもつ欲求が友愛に基づく愛か肉欲の愛か、どちらの欲求であるか、心の目にあざやかに区別することができるのであれば、わたしたちは誤ることはないはずであるが、人間的事実としては、いずれもが欲求であることに変わりがないために、どうしても誤りが生じやすい。
 じっさい、わたしたちはひとたび欲求をもつと、自分の欲求に目を奪われて、肝心の対象を見誤ることがよくある。ことに身体をもち感覚的欲求をもつ人間は、その感覚的欲求のために非常に肉欲に引きずられやすいので、対象を節度をもった愛で愛することができない、とスコトゥスは言う。節度をもつことは神からの恩寵を得てようやく可能になるのだ、と。
 かれの真剣な論考を読んでいると、スコトゥスが肉欲的な愛で野卑な生活に陥ってしまっている人たちの間で、懸命に信仰を説こうとしている姿が目に浮かんでくる。信仰によって得られる神の恩寵の助けなしには、人間は何であれ、節度をもって愛することができない、という確信がかれの論考からにじみ出ているのである。
 スコトゥスが天使の堕落に関連して論じている考察から見えてくるのは、以上のようなことである。アンセルムスから引き継いだかれのアニミスティックな精神論は、アニミスティックであるゆえに人間臭いものであり、近代哲学における道徳論にも影響を与えていると考えることができる。