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2016年4月24日日曜日

週末は函館に行ってきた







 この週末は函館に行ってきた。
 先週から、函館美術館で始まった「ひろしま美術館展」を観るのがメインの目的。
 登山仲間のNとも会って食事をしたけれども、何しろ痛風からの病み上がりの身なので(私が)、夜の酒盛り、はできず、昼食に寿司を食べただけ。夏の北アルプス登山の計画を2人であれこれ話し合う。
 ホテルは湯の川の大森浜に向き合うところを取り、夜はひとりで函館山に行く。まだ夜間の自家用車の交通規制はなく、車で山頂まで行くことができた。

 大昔、NHKの深夜放送で、『人生読本』というのをやっていた。そのタイトルが変わり……何て変わったのか忘れたけれども、深夜(というか早朝)の4時5分頃から45分頃まで、毎日誰かが何かの話をしていた。最初の頃は、宗教者の”説教”が多くて、僧侶や牧師なんかが話すことが常だったのだけれども、そのうちいろいろな人が話をするようになり(医者とかテレビディレクターとか)、しまいには「どうでもいい会社の社長とか労働組合幹部とか有象無象の阿呆たち」が話をするようになって、もうその頃には興味はなくなってしまった。(今も続いているけれども、「有象無象がつまらない話」をする時間になっているようである。)
 興味を持った最初のうちは、朝起きて、カセットテープに録音した。90分テープに録音すると、1本で2日分録音することができた。そうやって録音したテープは200本を軽く超えていたと思う。
 そのテープを10本くらい、いつも車に積んでおく。当時はほとんど毎週末に登山に出ていた。登山口に車を駐めて、夜の9時頃から朝の4時か5時頃まで車の中で寝る。当時乗っていたプレサージュは後部座席がフルフラットになり、快適に眠ることができた。そして寝るときにはいつも、そのカセットテープの中の1本を流して、それに耳を傾けるうちに眠ってしまうのである。カセットテープは自動反転するので、寝ているあいだじゅう、ずっと、誰かの声が車の声がしている、ということになる。
 まぁ、話の内容よりも、今思えば、「人の声」が安心感を与えてくれたから、ヒグマとキツネ以外はいないような山奥の真っ暗闇の中でどうにか眠ることができたのだろう。もっとも、アルコールの力があったからこそ、スヤスヤと眠れていたのかもしれないけれども。

 人の声が聴きたいのなら、生放送しているラジオを聴けばいいと思うかもしれないけれども、北海道の山の登山口では、たいていのところで、民放はもちろんのことNHK第一の電波ですらキャッチすることはできないことが殆どである。聴けたとしても雑音で聴いていられない。ラジオを聴きながら眠ることができないので、最初からそうやって録音しておいたテープを車に常に積んでおいて、子守歌代わりに耳にしていたのである。
 そして、そのテープの中に、
「函館大火を語る会」だか、「函館大火を記憶する会」だか、何かそのような名前の組織の人が登場してきて、函館大火について語っていたものがあった。

 もちろん(といっては失礼になるかもしれないが)、私は函館大火に興味があったわけではない。
 恐らく、そのカセットテープに録音された別の話が気に入っていたのだと思う。かといって、函館大火の裏に録音されていたお気に入りの話が何だったのか、今となってはさっぱり思い出せない。ただ、何の話だったにせよ、寝入るときはテープを巻き戻して、そのお気に入りの話に耳を傾けながら寝る。もちろん、途中でぐっすり眠りこんでしまう。しかし、「テープ演奏」はエンドレスである。夜中に反転して、函館大火の話が流れる。そしてふと、うつらうつらした意識の中で、夜中、陰に籠った声が車中に流れる……大勢の人が逃げまどい、炎に包まれ、死んでいった函館大火の物語である。
 函館大火の悲惨な物語を、だから、最初から真剣に聴いたという記憶は、ない。
 意識が中途半端な状態の眠りの中で、大勢の人が焼け死んだ話を耳にしたかすかな記憶がある、といっただけのことである。
 ただ、大森浜で大勢の人が死んだということだけは、耳の底にどうにか残っていた。

 便利な時代である。
 今では、ウィキで函館大火について、簡単な情報は得ることができる。
 以下にウィキより引用する。

函館は江戸時代から栄えた港町であったが、しばしば大火に襲われ、市内の至る場所が火災の被害に遭っており、中でも1934年(昭和9年)3月21日の火災は最大規模となった。
当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風に見舞われていた。早春の日が落ちて間もない18時53分頃、市域のほぼ南端に位置する住吉町で1軒の木造住宅が強風によって半壊し、室内に吹き込んだ風で囲炉裏の火が吹き散らされ、瞬く間に燃え広がった。さらに強風による電線の短絡も重なり、木造家屋が密集する市街地20箇所以上で次々と延焼したため、手が付けられない状態となった。時間の経過とともに風向きは南から南西、そしへ西風へと時計回りに変っていったため火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の3分の1が焼失する規模となった。死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして、あるいは市域東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって逃げ場を失い溺死した者(917名)、また溺死しないまでも凍死した者(217名)もいた。
(引用終わり)


 大森浜は長く続く。函館山の麓にある立待岬から市街地の東側の浜を走り、亀田川河口を過ぎ、湯の川温泉の浜辺まである。迫りくる火の手から逃れようと亀田川を渡ろうとして80年前以上に1100人余りが溺死あるいは凍死した浜は、ホテルから随分と離れてはいる。とはいっても、ほんの4キロほどの距離でしかなく、見通せる場所にある。
 阿鼻叫喚の生き地獄が、確かに、82年と1か月前に、そこにあったのだ。
 1134人が大森浜で死んだ。焼け死んだ人を加えると、総計で2166人が死に、重症者も2300人を超えたという。
 1923年の関東大震災による10万5000人の死者という途方もない数の犠牲者の数の陰に隠れてしまっているけれども、2000人を超える人の命が、たった一軒の家の囲炉裏の火が燃え移ったことで失われてしまったという恐ろしさは、地震被害以上に悲劇的ですらある。

 石川啄木が函館に住んだのは、1907年の夏、4か月ほどである。109年前のこと。
 それからわずか5年後の1912年に、啄木は死んでいる。


しらなみの寄せて騒げる 函館の大森浜に 思ひしことども (啄木)




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