ページ

2016年4月12日火曜日

現代アート 三潴末雄 『アートにとって価値とは何か』

『アートにとって価値とは何か』三瀦末雄(2014)

P22
 わたしは、まだ海外のマーケットでも日本国内の権威体制の中でも、正当な位置づけを与えられていない日本人アーティストたちの作品を一堂に集め、一つの大きな塊として世界に知らしめていくことが重要だと思っている。
 そういう試みの一つとして率先して行われたのが、日本屈指の現代アートコレクターである精神科医の高橋龍太郎が2008年に企画(キュレーターは内田真由美、児島やょい)した「ネオテニー・ジャパン―高橋コレクション」展だった。1990年代後半から主だった作家たちの作品を網羅的に蒐集してきた氏が注目する作家を選んだこの展覧会は、明確なテーマ性には乏しかったが、個人のコレクション展とは思えないほど多彩でクオリティの高い作品群が、大きな潮流として呈示される機会になった。
 この展覧会が、鹿児島県の霧島アートの森を皮切りに、全国の地方美術館を巡回したことで、欧米アートのコンテキストに乗った作家や、旧態依然とした日本画の作法に乗った作家しか認めなかった国内の美術館の企画展の風潮に対して、大きな一石が投じられたと思う。

▲:去年の秋、東北を旅行したときに、十和田市の現代美術館で高橋龍太郎コレクション展をやっていたけれども、見なかった。札幌に来たときに見ていて、そのくだらなさに呆れた。それでも後で「感想」を書くために図録だけは買っておいたけれども。
 高橋龍太郎はどこかの私立医大を出た精神科医で、時々、ラジオの人生相談の「回答者」として登場するのだけれども、その話しぶり話しの内容の「投げやりさかげん」にはいつも呆れる。きっと金持ちのボンボンで、人の悩みに寄り添うよりも、現代美術品(という名のゴミ)を集める方が楽しいのだろう、といった印象を与えるような回答である。


P30~
 明治末期から大正にかけて日本に消費社会が登場した際、大衆が初めて体験する近代的な展示空間である百貨店が、芸術文化の啓蒙・浸透に果たした役割には絶大なものがあった。特に1911年に美術部が創設された高島屋では、竹内栖鳳をはじめ近代日本画の先駆的な巨匠たちを取り上げてきた伝統がある。だから日本的なルーツ性を意識したジパング展の作家たちの魅力を伝える企画展には、会場として百貨店が馴染みやすいと考えた。
 加えてコマーシャルギャラリーの主人としては、地方都市ではまだデパート信仰が根強い点にも注目した。東京では、郊外や都心再開発型のショッピングモール等に押されて百貨店の凋落の印象が強いが、地方の富裕層にはデパートの外商の薦めで美術品などを購入する人々がいまだに大勢いる。
 そうした主旨に、高島屋側も理解を示してくれた。ジパング展は3月11日の震災のあと、6月から東京、大阪、京都の3店舗で開催されることになった。
 その際にわたしは高島屋にお願いして、外商のスタッフを集めてもらった。日本と世界の現代アートがどういうものかというレクチャーをするためだった。デパートの外商は日本最強クラスのセールスマンで、例えば顧客の邸宅に上がり、床の間に実際に絵を飾って売るといったような販売能力を持っている。そんな彼らにセールスの言葉を与えて、現代アートをメニューの一つに加えてもらえれば、マーケットの拡大につながるのではないかと思った。実は外商に作品の魅力をインプットするやり方は、日本画家の千住博が三越などで行っていた先行例があったので、それに倣ってみたのだ。
 東京では会期中に外商の人々を50~60名ほど集めて話をしたのだが、その最中にまだ余震で震度4くらいの揺れが来るような時期だったので、どうにも雰囲気は重かったように思う。ただ、そこで外商の人から聞いた話によると、3・11後の5月ごろ、ホテルでリッチな顧客に向けてのフェアを聞催したところ、宝石をはじめいろいろな高額商品が意外と売れたという。逆に震災がショックになって、「お金なんか持っていても仕方がない」という意識につながったのかもしれないと、その人は分析していた。
 ともあれ、こうしてジパング展で3都市のデパートを巡ってみると、面白いことに気づいた。それは、デパートでの美術展では、タダ券で来る人が多いのに対して、現代アート展にはお金を払って来る人が多かったということ。その中でも一番多かったのが、学生料金で入ってくる大学生や高校生だった。しかも、彼らのような若い人々はデパートに来たことがなく、ジパング展が聞かれて初めて日本橋の高島屋に足を踏み入れたというのだ。
 その一方で、デパート側の案内で来たような大人の来場者からの「意外と現代アートも面白いね」という感想もあり、東京での反応は上々だった。

▲:現代美術のギャラリストの実践営業ノウハウの一端。くだらない作品を量産する千住博がこの手を使っていたということ。


P46~
 ただ、いわゆる古典に対する向き合い方として、日本画家の加山又造が、今の若い作家たちにも通じる非常に示唆的な言葉を残している。すなわち、「伝統とは継承するものではなく、自由に対象化するものだ。だからこそ作家は古典の持っている前衛性なり精神性を現代に蘇らせることができるのだ」と。
 これはちょうど、会田誠がよく口にする「困ったときの古典頼み」という言葉にも通じているように思う。彼はあくまで自分の表現のための見立てとして古典の形式を借りてくるだけだと言うのだが、加山の言葉にあるように、これによって何かが蘇っているはずである。
 こうした日本のアートのコアにあるのは、「はじめに言葉ありき」で始まる一神教の世界とは違って、自然界の微妙で曖昧な変化に感性を研ぎ澄ませるアニミズム的な感覚だから、本質的に言語化には適さない部分を持っている。だが、海外のアートシーンでは、必ず作品の解釈や位置づけについて言葉で疑問が寄せられ、なぜそうなっているのかを明確に答えていかなければならない。
 もちろん、これまで浅田彰や東浩紀といった批評や哲学の畑から人材が登場し、岡崎乾二郎や村上隆らについて、それぞれのやり方で理論化してきた系譜もある。しかし、そういう動きが美術の内側からは一向に出てきていないということは、寂しいかぎりだ。
 わたしはギャラリストとして、感覚的に気づいたことしか言えないが、こうした日本アートに通底する原理のようなものを、若い世代の思想家なり美学者なりに、ぜひ英語圈にも通じる言葉で言語化してほしいと切に願っている。

現代アートの支援体制をいかにつくるか
 だから、わたし自身としては、現代アートが他の文化ジャンルや日本社会との関係の中で、そういう本来あるべき価値の破壊的創造の役割を果たしていけるよう、パブリックな支援体制を築いていくべきだと考えている。
 海外のアートマーケットとの圧倒的な質的・量的な差がある中で、現状のように個々のギャラリーが細々と作品を売っていくだけでは、一向に状況は変わらない。そこで、役人と折衝できる現代美術の公的な協会のような組織があれば、効果的な支援の受け皿になりえるはずだ。
 例えば、海外の大規模アートフェアに15軒ほどのギャラリーが出ていくようなケースで、それぞれのギャラリーの立場では支援できなくとも、協会がまとめるプロジェクトという枠組みになれば、クールジャパン予算の一部を充てるということもできるようになるだろう。
 とにかくアートの世界は、何か当たるかわからないポップカルチャーの世界に比べて、海外での権威の序列や評価のコンテキストがはっきりしているので、文化政策としての投資効果は得やすいはずだ。
 また、消費税がアップしたが、手をこまねいて放置しておけば、単価の高いアートの世界は大打撃を被ることになるだろう。ただでさえ小さいマーケット規模が、さらに萎縮して、ますます国際競争力が落ちて、日本のアート界は厳しくなる。この活性化を求め、相続や贈与に関する税制改革の面などでも、すでにあれこれの働きかけが始まっているが、協会組織を形成して、より効果的なロビイングができる体制をつくりたいものだ。

▲:加山又造の「長いだけの例の作品」(出来は三流でもともかく長い)を彷彿させるのが、村上隆の五百羅漢。



P92~
 このようにコレクターから出発して現代アートの世界に踏み込んでいく中で、わたしに様々な指南をしてくれたのが、同志社出身の作家である黒田アキと、彼の学生時代からの友人であるギャラリストの神野公男だった。
 同志社は関西ブント系が強かった大学なので、黒田や神野とは、その方面のネットワークを通じて知り合った。
 黒田アキは、70年代のはじめにパリに渡り、フランスきっての現代美術の名門ギャラリーであるマーグ・ギャラリーの契約作家としてデビュー。当地での初めての個展では「東洋のマチス」と呼ばれるほどの評価を獲得し、日本人の現代作家としては希有な活躍を見せていく。
 黒田のコレクターでもあった神野公男は、名古屋の現代美術シーンの草創期を彩ったギャラリーたかぎに勤めていて、のちの92年に自身のギャラリーHAMを開廊。草間彌生の展覧会などを開催し、90年代に彼女が再評価されていく流れの端緒をつくった一人にもなっている。
 この両者から、コレクションにあたってのギャラリーの紹介やマーケットヘのアクセス方法など、多くの人脈やノウハウを得ることができたのは大きかった。
 黒田が渡仏する前は、ちょうどステーション70がライブスペースの実験からPR誌の制作に移行する時期だったので、彼にデザィナーをやらないかと声をかけたこともあった。もしわたしが、もうすこし強引に引っ張っていたら、今頃は作家ではなく、電通あたりの重鎮アートディレクターになっていたかもしれないと思う。
 そして彼が「東洋のマチス」と称えられる作家になったことは、のちにわたしが自分自身のアートヘの問題意識を深めていく上で、とても重要な示唆を与えてくれた。当時はそれが褒め言葉だと思っていたのだが、別のところで述べたように、実は違った意味で用いられた言葉であった。そこから、わたしは欧米作家の基準を踏まえないアートの在り方を目指したいという思いを抱くようになる。
 その思いを強く自覚するのはもうすこし先のことだが、わたしはいよいよ自分のギャラリーを立ち上げるべく、友人に事務所の経営を委託して、86年に40歳で英国にホームステイした。ギャラリストになる上では、やはり英語力が必要だと思ったからだ。
 そこでなんとか“親父イングリッシュ”を身につけながら、メイヤー・ローワン・ギャラリーというロンドンの画廊と仲良くなって、英国の現代アートについて学んだ。画廊主のアレックス・グレゴリー=フード翁は貴族の末裔で、週末になるといつもわたしをホームステイ先に車で迎えに末て、彼のロックスレイにあるお城のような館に連れていってくれた。

▲:三潴は成城大学の学生運動で活躍。ブントなのだろう。同志社のブントとも繋がる。
 同志社で学生運動といえば、佐藤優。ブントだったのだろうか。この男が外務省に潜り込めたのも、東大ブントの活動家・加藤紘一がいたからか? というより、外務省が新左翼の拠点になっていたのだろう。なにしろ、外務省の「親分」は、アメリカ民主党・国務省なのだから。かつての左翼ヒラリー・クリントンが、金融資本の絶大なバックアップを受けてアメリカ大統領になりそうなのも、左翼というものが実は金融資本の手先である、ということを知れば、理解できる。
 佐藤優が、三井の岩波書店に盤踞している事情も理解できる。


P101~
 銀座には、東京画廊や南天子画廊をはじめとして、その系譜を踏んだ佐谷画廊や西村画廊があり、さらにその周辺にたくさんの小さな貸しギャラリーがあった。銀座に来るアートファンたちには、その小さなスペースをグルグル回っていくという文化が確立されていた。そうした中、現代アートでデビューするなら、その銀座のローカルな世界に適応しなければ、という空気が東京には存在していた。
 そういうシーンが、わたしには不毛に感じられてならなかった。それぞれの個々のギャラリーでデビューする作家や展覧会の企画が、必ずしも不毛だと言いたいのではない。そうではなく、銀座に象徴されるマーケット全体の釣堀みたいな構造では、世界に向けてオリジナリティのある作家を輩出できるようになっていないのではないかということだ。
 バブルに至る美術シーン全体を見渡せば、80年代の好況期までに、最初に一県一美術館運動のようなかたちで、ほとんどの都道府県に近代美術館が生まれ、さらに県庁所在地には市の美術館ができるという、文化を標榜したハコモノ公共事業の流れがあった。そうなると各美術館には作品購入予算がつくので、そこに銀座あたりのギャラリーを中心に、みんなが群がり、白分たちの作家を売り込むという構造があったのだ。こういう公共事業予算頼みの擬似マーケットの中で「○○先生は○○美術館がコレクションしたよ」という話が公然と銀座のギャラリーでは語られていて、その評価軸で値付けがなされるという、マーケットとして非常に歪んだ形態になっていた。
 もっとひどい状態になると、美術館の公共工事で、ハコモノを建てると、判で押したようにその予算のうちの1%程度は野外彫刻のようなモニュメントに充てられた。それに過剰適応してパブリックアート専門の作家が生まれるようになる。そんな擬似マーケットが、バブル期にはまかり通っていたのだ。これでは世界のマーケットで評価される作家が育つはずがない。
 実際、2000年代になってから、バブル期に高い値段で日本の現代アート作品を買っていた医者の方が亡くなり、その相続時にコレクションを売りたいという相談を受けた。しかし、蒐集された作家たちは、ほとんどが学校の先生になっていたりして現役感を失い、作品はオークションに出しても値段がつかないようなものぼかりだった。まさに、バブル時代のつわものどもが夢の跡、といった無残な有り様だった。
 その一方では、先述のセゾンを中心とした流通・広告資本と密接に結びついた、もっとカジュアルな民間メセナによるアートマーケットの世界が、新興勢力として勃興していた。PRの世界からアート入りしたわたし自身の出自も、こちらに近いと言えば近いだろう。しかし、セゾン文化圏の欧米に対するコンプレックスが丸出しになった雰囲気には、どうにも肌にあわないものがあった。
 そうなると、銀座的で官におもねる擬似マーケットではない、池袋や渋谷で展開されたセゾン的な大企業主導のコンプレックス・マーケットでもない、わが道をゆくしかなかった。既存の国内マーケットには背を向けることになるが、簡単には売れなくとも、とにかくわたし自身が面白いと思える作家や作品ありき、で勝負したかった。そんな思いで、わたしは青山でギャラリーを開いたのである。

青山ギャラリー時代の苦戦
 ミヅマギャラリーの開廊は、まさにバブル崩壊の直後にあたり、アートをめぐる環境はますますひどい状態に陥っていた。金融政策の失敗で大手の証券会社や銀行がバタバタ潰れる中で、本当に作品が売れない時代になっていったのだ。当時のアート関係者なら誰もが経験している苦労だが、わたしもまたPR関係の仕事の上がりを注ぎ込むなどして、カネの回らない時代のギャラリーを必死に支える日々が続いた。
 青山という立地は、今でこそいかにもバブリーな高級物件というイメージだが、バブル崩壊後の骨董通りには、真新しいビルが建ち並んでいるものの、1階のテナントはほとんどがガラ空きで、見るも無残な状況だった。

▲:実は、現代アートという名の日本のゴミが、「公共事業」によって、つまりは「税金」によって続いているのだという事実。その最も顕著な例が、青森県立美術館。


P145~
アートとマーケットを結ぶギャラリストの課題
 このように、わたしは四半世紀のギャラリスト稼業を通じて、市場の欲望と作家の表現との間に常に発生する本質的な緊張関係を媒介してゆく仕事を続けてきた。
 敗戦で日本人の圧倒的多数が貧しかったときは、市場や国家の存在そのものを悪玉視して、反体制のスタンスをとりさえすれば、それがカウンターカルチャーとしての前衛芸術の大きな価値基準になりえた。しかし高度成長が達成され、マルクス主義の限界も明らかになって誰もが市場経済の恩恵を否定できなくなると、アートがアートとしての独自の価値を確立するのは難しくなる。
 ただし、いくら経済的に豊かになっても、西欧が世界中に輸出した文明そのものに内在する矛盾や、人間が生きるかぎりどうしても起こる社会との鮭鮪が尽きることはない。そういう、かえって見えづらくなった問題なり違和感なりを、消費社会のただ中で挟り出して表現するのが、現代アートというジャンルのそもそもの存在意義なのだろう。
 ますます世界を覆いつつあるグローバル資本主義の最先端で、巨万の富を左右する富豪たちが、食うや食わすの生活を送る作家たちの作品を目の飛び出るような金額で取り引きするのは、単なる金融的な財としてだけでなく、彼らの表現を通じてマーケットの論理に使役される自分たちの精神のバランスをとろうとしているからなのかもしれない。
 とはいえ、消費社会の在り方を相対化するはずの現代アート作品そのものも、需要と供給をめぐる市場原理に従う一商品に過ぎないという宿命からは逃れられない。とりわけ00年代以降の欧米のアートマーケットでは、成功する作家のほとんどは、作品の量を供給できる工房型の作家になっている。ダミアン・ハーストにせよ、ジェフ・クーンズにせよ、村上隆にせよ、同じ作家の作品が世界各地で大量に売られるようになることで認知度が高まり、さらに需要を喚起していく流れが顕著になってきた。
 これはある部分ではルネサンス期のような工房型の芸術制作のスタイルに回帰していると言えるのかもしれないが、ミヅマ所属のアーティストたちのような職人芸を駆使したスタンドアローン型の作家にとっては、マーケットで生き残りづらい厳しい時代環境だ。それぞれの作家の創作スタイルと市場の趨勢のギャップをいかに埋めるかは、我々ギャラリストの永遠の課題として、ますます大きくなっている。
 もう一方の課題として、ネットを中心としたオープンな情報メディア環境の変化を、いかにうまく活用できるかということも現在のギャラリストの死活問題だ。
 例えばアソディ・ウォーホルとジャスパー・ジョーンズを比べたとき、彼らがアートの歴史に登場した時点ではさほど遜色がなかったのに、現代のネット社会で名前を検索すると、圧倒的にウォーホルの方が大きな存在になってしまっている。この情報量の優位がアーティストの価値に直結してしまう時代環境の中では、従来のアートマネージメントの考え方も大きく変わらざるをえない。
 日本の美術館のコモンセンスとしては、図録をつくる出版社の意向や著作権の問題などもあって作品の写真は撮ってはいけないのが一般的だ。しかし、現在アメリカの多くの美術館やルーブル美術館のような大美術館では、撮影やネットヘのアップが解禁されている。大量のイメージが流通することが、かえって展覧会や作家のPR効果としてプラスになると考えられるようになったためだ。
 12~13年の森美術館での会田誠展の際には、撮影の問題をどうするかで大いに悩んだ。そのとき、チームラボの猪子寿之は「絶対撮らせるべきだ。これからはとにかくネットのソーシャルメディアで情報がたくさん共有される奴が残る」と、はっきり言っていた。
 確かに、ネットでのオープン化は大きな意味では積極的に進めるべき趨勢だ。しかし、ウォーホルやルーブル美術館の展示のような評価の確立した作家や作品ならともかく、現在進行形で無名の作家を売り出していく場合は、すべてをネットで情報提供するだけでは足りない。実際の作品に触れさせる導線になるようなかたちで、情報を上手に出す必要がある。ツイッターやフェイスブックなどで数多くの話題として登場させるような戦略的な機微が重要だ。
 会田誠展では、ひとまずは『考えない人』の作品だけ、撮影OKにするということを森美術館と協議して決めた。



P160~
 日本が東日本大震災の大災害にみまわれたあと、村上が工房的な集団制作の極致としてつくり上げた『五百羅漢図』(2007―2012年)もまた圧巻だ。あの大作が生み出された埼玉県三芳の工房には、美大生など多くのスタッフが投入され、いろいろな技術世界が結び合わされている。
 例えば技法面では、日本画出身の者たちには線を描かせ、洋画出身の者たちには塗りをやらせた。これは、岡倉天心が黒田清輝と戦い、その後断絶してしまった日本画と洋画を再統合しようという大胆な試みである。また、シルクスクリーンの技術も、非常に高いレベルに引き上げている。
 その上で、狩野一信の『五百羅漢図』をモチーフにしていながら、漫画的、アニメーション的なキャラクター表現を総動員している。とりわけ明治以降の日本の美術史に対して我々が持っていたトラウマのようなものを、もののみごとに昇華していると思う。
 制作過程は、村上隆による非常にストイックな指導のもとで行われたため、参加したスタッフが作品完成後に、みんな辞めてしまうほど厳しかったとも聞く。これには賛否両論あるだろうが、それほどの強い姿勢で臨んだ結果、確かに現代の宗教画と呼ぶにふさわしい鬼気迫る迫力が備わっているのは間違いない。カタールで展示された本作品を見たわたしは、「凄い、凄い、凄い」と、思わずツイッターで連投した。
 村上作品の表層だけを眺めて、好き嫌いを語るだけの批評に意味はない。バックグラウソドも踏まえた上で、なぜ世界が村上を認めたのか、その文脈を理解しなければならない。欧米には「何かアートであるか」を決定する厳しいアートワールドが存在するのだ。その中を生き抜き、評価されている村上の存在を無視し、村八分にする日本の美術村は了見が狭いとしか言いようがない。
 フランスのエマニュエル・ペロタンは、わたしに「村上隆の美術館をつくるのは、お前たち日本人の仕事だ」と話した。本当にその通りだと思っている。

会田誠の挑発と混沌
 村上隆の数年後に登場し、日本は敗戦国という出発点から徹底的に戦後日本の在り方をモチーフにしてきた作家として、二卵性双生児のような関係にあるのが会田誠だろう。
 二人は1990年代から大きく動き出した日本の現代アートを象徴する存在で、西洋美術の
文脈が支配する世界マーケットに対して、伝統と現代をハイブリッドさせた日本的な濃密さで勝負を挑むという点では共通しているが、その制作スタイルや戦い方は対極と言ってもいい。
 二人が同じく琳派なり、アニメ的なサブカルチャーなりの表現にインスパイアされ、自作に活かすとしても、まったく異なるアプローチになる。村上であれば、歴史的に評価されている表現様式を押さえて、それを海外の批評的な文脈の解読に巧みに乗るようなかたちにソフィスティケートするだろう。そして表層上はクールだったりカワイかったりするものに偽装しながら、本質的な毒を垣間見せるようなスタイルになる。
 これに対して会田の場合は、見る者の生理感覚に向けて、もっと直接的な表現をする。例えば『地獄草紙』の炎を使って、ニューヨークを爆撃で燃やしてしまうのだ。アメリカ文化やグローバリゼーションヘの批評が、さらにあからさまになる。会田は、人々が触れてほしくない、忌み嫌うようなものを確信的に露出して、ミクロな不快の回路を通して政治的な大きな問題につなげる作家であると自分を規定しているようだ。



P169~
 03年のオープン時の展覧会「ハピネス」で18禁部屋をつくったり、春画を並べたりしたこともある森美術館だからこそ可能だった展覧会と言えるだろう。そして過去のケースと同様、会田作品に対して女性団体などから抗議を受けたことが大きく報道された。しかし森美術館は、一切動じることなく会期をまっとうした。これは、私立美術館の強みであろうか。
 森美術館での個展の際、シンポジウムで前館長のデヴィッド・エリオットやバークレイ美術館ディレクターのローレンス・リンダーが、会田作品のコンセプチュアルな視点を解説した。欧米人の側からの目線に耐えられる強度の文脈が会田作品には存在するのだ。15年前から会田作品を愛し支持し、伝説化されたキュレーターのディエゴ・コルテスが森美術館の個展を見にきた。わたしは「会田作品のどこが好きなのか?」と訊ねた。ディエゴは「コンセプチュアルアートで会田ほど質的レベルが高い作品は世界にはほとんどない。絵や造形物をつくるのが苦手な連中がコンセプチュアルアートに走るのが世界の傾向だが、会田はハイレベルな絵画の表現技術と知性溢れるコンセプチュアルな思想が合体した希有な作家だ」と絶賛した。
 こうして、国内の大きな美術館での個展をやりきるという一つのハードルを突破したことで、会田は次のステージにさしかかった。月並みな認識ながら、これからはどういうかたちで彼が自分の文脈をインターナショナル化していくのかが、課題になっていくことだろう。



P258~
現代アートの底にある原初的な価値とは何か
 20世紀のアメリカを中心にしたモダュズムの形態とは違う、一見雑多でヴァナキュラーだが、奥底には現代的な普遍性を抱えた表現が、日本だけではなく21世紀の非西欧圈のアートでは同時多発的に開花してきているように思う。
 こうした認識は、今に始まるものではない。1980年代はじめにニューヨークのMOMAで開催された「プリミティビズムとモダニズム」という展覧会では、西洋のモダニズムのアートやデザインと、アフリカなどの先住民族たちのプリミティブアートを対置して、驚くほど両者が共通したものであることが、はっきりと示されている。と言うよりピカソやエルンスト、ミロらが、いかにプリミティブアートにインスパイアされた作品を制作していたかが一目瞭然なのだ。この展覧会のカタログを開くと、もはや素材が木でできているか鉄でできているかくらいの違いしか感じられない。フォルムがそっくりなのだ。このことには、わたしも非常にショックを受けた。哲学的な言葉で表現すればディファレンス(差異)こそ創作の原点なのかもしれない。
 この展覧会に対しては、当時「プリミティブな民芸品などの中から、モダンアートに似たものを集めてきただけではないか。その選定の視線自体が、そもそも西洋中心の植民地主義的なものだ」という批判もあったが、そうではないと思う。結局のところ、現代アートというのは人類史的な長い目で見れば、ルネサンスや近代写実主義などを経て形成されていった西欧の芸術が、一周まわってローマ帝国期にキリスト教化される以前の、ギリシャやケルトの神話的世界やアフリカの部族の自然への畏怖から造形された世界に回帰しようとしているだけのムーブメントなのではないか。
 実際、アフリカなどの非西欧のプリミティブアートだけでなく、シュルレアリスム期のジャコメッティの作品などは、古代イタリアのエトルリア文明の人形にそっくりだし、わたしがギリシャに旅したときにミコノス島の美術館で見た古代に描かれたイルカの絵も、現代のデザイナーたちが描くものとまったく変わらないことに驚かされた。
 つまりは、一神教的な価値観の肥大化や近代の合理主義の果てに自由な発想のできなくなった現代人が、はるかに想像力が豊かで著作権もない古代人の発想を拝借して、それを今風にアレンジしたりテクノロジーで素材を置き換えたりしているだけとも言えるだろう。
 一神教の原点である旧約聖書の中には、万物の創造主は神だと書いてある。つまり、人間というのは本質的に創造をすることができない。我々が芸術表現において創造だと信じている行為は、もとをただせば自然界にあったもの、神がつくったものとされるものを集めてリミックスして組み合わせ、他の何かに見立てながら最初とは違う状態にすることに過ぎない。しかし、リミックスにリミックスを重ねて、もとのものがわからないくらいに、人につくられたものが増えていくうち、そのことが忘れられてしまったのだ。
 とりわけ、教会が神の代理人を僣称するようになったり、その権威を覆して人間が誰もが神の代わりをしてもよいことになったりしたので、近代には「アーティストによるオリジナルな創造」という幻想が崇拝されるようになったというわけだ。
 その点、プリミティブアートをつくった古代人たちは、あれだけ豊かな見立ての発想力を持っていながら、何かをつくることが、あくまで自然に与えられたものの姿を変えるだけだと知っていた。だから人間のつくったものを特別視せず、そもそも自分たち自身が自然の一部であることを実感していたから、その無意識の構造の自然な流動に従うことで、ああいう造形を生み出すことができたのだろう。
 西洋文明はそうした無意識を抑圧して、言葉による理性をひたすら研ぎ澄ましながら自然を対象化し、自分の外にあるものとして合理主義的に空間を捉える写実表現のような技法を生み出してきた。そういうルールやコンテキストを徹底していく中で、今度はその意識による作為的な迫り方のまま、プリミティブな構造に無理矢理近づこうとしている。そう思うと、皮肉というか、なんだか迂遠な話だ。
 それが現代アートの本質だとするならば、むしろニューギュアの先住民たちの仮面を集めた方がいいのではないか、という気分にもなってくる。

21世紀のコンテキストをつくる日本アートの役割
 おそらく日本のアートの役割は、そうした人類芸術全体の多様性と普遍性の根源的な捉え直しの中で、非西洋のアニミズム的・多神教的な文化圏がゆるやかに共有してきた原理を明確化し、一神数的な原理に偏りすぎている西洋近現代文明の在り方を、真に中立的なものへと拡張していくことにあるのだと思う。
 幸いにして日本は、ユーラシア大陸東端の島国だったという地理的条件のおかげで、太古から中国、ョーロでハ、そしてアメリカと、世界史を牽引してきた巨大文明のどことも、つかず離れずの絶妙な距離感を築きながら、縄文以前からの“土人”としてのプリミティブな感性を、自分たちの表現の地層の底にかろうじて保持し続けることができた。
 その文明史的にも希有な立ち位置を感謝とともに自覚し、21世紀序盤の時点で何とか先進資本主義国の一角に残れている影響力を駆使しながら、いよいよわたしたちは上述の世界史的役割を果たしていくべき端緒についたのではないだろうか。
 西洋近代の列強の暴力的なプレッシャーが強すぎた明治維新以後の時代には、その役割に薄薄は気づきながらも、植民地競争で呑み込まれないように、文化よりも軍事力や経済力優先で自分たちを性急に西洋化するしかなかった。そして第二次世界大戦時には、西洋列強と同様、自分たちの一方的な防衛上の都合で朝鮮や中国などアジア諸国を侵略しておきながら、大東亜共栄圏なり八紘一宇なりといった後づけの世界観でアジアにおける日本の指導的役割を主張する、という過ちを犯してしまった。
 そのため、GHQの占領政策の影響もあって、アート関係者も含む戦後目本の進歩的なインテリ層の大方は、西洋に拮抗する日本の世界史的な役割をすこしでも肯定的に示そうとすると、ほとんど「羹に懲りて膾を吹く」かのように、やれ「内なるオリエンタリズム」だの「J回帰」だの「悪い場所」だのと、過剰な警戒を示すのが習い性になっている。長い日本文化史の中でも例外的な、極端な失敗の時代のトラウマと戦勝国へのコンプレックスにとらわれて、批評家たちは前向きな世界観を一切示せなくなってしまった。
 けれども、そうした外野の釘刺しのかいもあって、アーティストたちの側は、天皇をまるで一神教の絶対神のように変質させた皇国史観のような、根本部分を間違えた物語化に陥ることなく、八百万の神々への信仰を育んだ風土や伝統を、素のままに受け止めて現代的表現に活かすことができている。岡本太郎や村上隆や山口晃が見せてくれたのは、プリミティブアート的な感性をそのまま洗練・多様化させていった文化として日本美術の本質を捉え直していった、戦後のトラウマからの再生の系譜なのだ。
 桂離宮は、決してブルーノ・タウトが発見したのではなく、日本人が固有の美意識で構築していったものであり、足利将軍たちが贅の極みを尽くした東山文化も同様だ。琳派や浮世絵から漫画やアニメなどのポップカルチャーに至るまで、日本で培われてきたコンテキストには、もともと欧米に負けない歴史的蓄積と幅の広さがある。だから日本でつくられた作品が、世界性を持つのは当然だ。
 確かに現代アートの世界で、圧倒的に大きなマーケットを握るのは欧米である。したがって、向こうのコンテキストに乗ることはとても重要である。その一方で、欧米のコンテキストに突き刺さるだけではなく、我々が持っている、日本白身に突き刺さるヴァナキュラーな固有のコンテキスト自体を世界化していくことが、長期的にはもっと重要だ。そのことをわきまえず、ただ日本のアートは世界に通用しない、と十年一日のように嘆くのは笑止だ。
 アートは自由で、もっと多様性があっていいはずだ。ドメスティックとか、ローカルとか、ヴァナキュラーと言われているものが、もっと世界性を獲得しても不思議ではない。そういう多様な文化的表現ができる作家たちが、たまたまミヅマギャラリーに集まり、そして国内外で高く評価されるようになってきた。

▲:長々引用したのは、大昔の学生左翼活動家のイカれた理論のまま、現代美術を語っている滑稽さを学ぶため。こんな底の浅い文明文化の理解で……いや、こんな底の浅い理解だからこそ、あんなゴミを売り込む「理論的武装」ができる、ということなのだろう。