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2016年3月27日日曜日

いろいろな人生 三陸 小名浜





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戦後如鳩は福島県いわき市の小名浜で、日本古来の神道を背景にキリスト教と仏教を習合した代表作を生み出します。不漁に悩む地元漁師の依頼により描かれた《魚籃観音像》は、鰯の稚魚が入った器を手にした魚籃観音が小名浜港上空に飛来した様が描かれ、画面左側に天使とマリア、右側には菩薩と天女が配置されています。完成したこの絵を人々はトラックの荷台にのせて町を練り歩き、以後港では大漁が続いたと言われています。(引用終わり)

 小名浜は以前から一度行ってみたいと思っていて、まだ果たせないでいる。

 牧島如鳩の魚籃観音像を観て、この小名浜港の空の上に忽然として現れた(?)観音様を観て、この絵をトラックに載せて街を練り歩いた漁師たちのいるその漁港町を是非とも見たいと思っている。


再起
東日本大震災5年/4 港町食堂、貫く味 「信じてくれる人のため」
毎日新聞2016年3月7日 西部朝刊

 「『良い時代になったね』と、つらい日々を振り返る日が来ると信じています」。福島県最大の港町、いわき市小名浜の海産物販売所を兼ねた食堂「さすいち」のおかみ、小野嘉子(よしこ)さん(43)が語る。東日本大震災前に比べて店は小さくなったが、自分が進むべき道が見えてきた。

 東京電力福島第1原発事故で漁を自粛し、週1回程度の試験操業が細々と続く小名浜港。定食の煮魚をおいしそうにほおばる客に嘉子さんが笑顔を向けた。ただ、店は空席が目立つ。

 さすいちは、魚の行商をしていた父輝男さん(73)が約40年かけて育て上げた。地元産にこだわり、震災10年前に食堂を併設。嘉子さんが子供のころから親しんだ「祖母の味」を取り入れ、客は多い日に1000人を超えた。

 2011年3月11日。いわき市内の外出先にいた嘉子さんは慌てて店に戻った。従業員は家に帰し、両親と店から海を眺めた。排水溝のマンホールがボン、ボンと吹き飛び、黒い水がわき上がったかと思うと、足元に来た。嘉子さんたちは車で高台に逃れた。

 150席の店舗は1階部分が津波で抜かれ、ヘドロで埋まった。「それだけならまだ前向きになれたと思う」。原発事故の影響は大きかった。高濃度の放射性物質が海に流れ、県内の漁業は操業自粛に追い込まれた。それでも輝男さんはあきらめなかった。県外産の鮮魚を買って干ものにし、「さすいちの味を忘れないで」と無償で配り歩いた。

 その姿に嘉子さんの腹も固まった。店舗の図面を独学で引き、再建を計画。国と県の補助金も活用したが、資材高騰で震災前と同規模にはできず、販売所は5分の1、食堂は半分にした。こだわったのは食堂のレイアウト。「自分がどこにいても、料理を楽しむ客の表情が見えるようにした」。開店は13年9月10日。震災前に82歳で他界した祖母の誕生日を選んだ。しかし、客足は戻らず、福島産の魚かどうか確認する客も後を絶たない。「福島の海は汚染されている」と言われるたびに家族の悪口を言われているようでつらいのに、「県外産です。大丈夫ですよ」と答える皮肉。

 自信を失いかけたときだった。初老の男性が定食を黙々と食べた後、料金を払い立ち去った。いても立ってもいられなかった。「お口に、合いましたか?」。息せき切って追いかけてきた嘉子さんに、男性は一瞬ぎょっとした様子を見せ、笑顔で言った。「うまいもん食わせっから、ここさ来てんじゃねえか」

 冷え切った心に温かい水がゆっくりと流れ込んできた。「自分は何を不安がっていたのか。父がさばく魚や祖母の味を愛し、信じてくれる人たちのためじゃないか」

 父が包丁を握る手に、これまでと違う場所にタコができるようになった。体を思うように動かせなくなっているためだ。「父が元気な間に、小名浜の魚を存分にさばける日はきっと来る。それまでにもっと店をもり立てないと」

 午前7時の開店前、嘉子さんが竹ざおにのれんを渡す。更地が目立つ港の向こうで海が光った。【栗田慎一】=

小名浜 さすいち http://tabelog.com/fukushima/A0704/A070401/7000971/



東日本大震災5年/1 夫といた場所が古里 娘2人と不安乗り越え
毎日新聞2016年3月3日 東京朝刊
 東日本大震災の津波で夫の真也(しんや)さん(当時39歳)を失った村上和恵さん(37)は今、夫が放射線技師をしていた岩手県立高田病院(陸前高田市)で働く。事務職員に1人空きがあることを知ったのは3年前だった。

 「何もそこじゃなくても」。周囲が反対する中、迷わず応募し採用された。病院は4キロほど離れた仮施設に移っていたが、「夫のいた職場に身を置いてみたくなった」。多くの同僚が口には出さないが夫のことを記憶し、津波で共につらい思いをしたことが、むしろ気持ちを落ち着かせてくれている。名誉院長の石木幹人さん(68)は「いろいろ気を使うところもあるのではと心配したが、しっかり働いている。本当に頭が下がる」と話す。

 夫婦の出会いは共通の知人の紹介。「七つ年上だったからか、とても優しかった」。2006年に結婚、岩手県大船渡市で暮らし始めた。1年後に長女千佳さん(8)、09年に次女奈央さん(6)が誕生。「2人がもう少し大きくなったら、家族旅行に行きたいね」。子育てに追われるばかりで、思い出作りさえできないうちに、あの日が来てしまった。

 15メートルを超す津波が陸前高田市の市街地を襲い、海から1・3キロ離れた病院でも最上階の4階の窓を突き破った。患者15人が亡くなり、真也さんは行方不明に。他に病院スタッフ5人が犠牲になった。残された母子3人は、陸前高田市の和恵さんの実家で避難生活を始めた。

 「上流の橋のたもとから、まとまって遺体が出てきたらしい」。約2カ月後、情報を聞いて安置所へ行くと、10人分ほどのひつぎが並んでいた。その一つに貼られた写真に、足が止まった。放射線技師の制服と見覚えのある靴下やベルトだった。

 他のひつぎには遺体発見時の顔写真が貼ってあったが、夫は損傷がひどいため、なかった。たとえどんな状態でも、蓋(ふた)を開けて最後の別れを告げたかった。しかし、警察官に「見せられません」と制止された。「だからなのか、今も夢のような感じで実感がない。夫の死も、震災も」

 「お父さんはいつか帰ってくるの?」。長女が保育園のころ、そう尋ねてきた。「変にごまかしたら後で困るだけ」と、本当のことを話した。それもあってか、保育園で友達に「お父さんいないんでしょ」と聞かれ、「うん、津波に流されて死んだんだよ」と答えた。しかし、友達には悲しみが伝わらない。以来、同じ質問には「いない」としか答えなくなった。

 被災から1年以上実家に身を寄せた後、大船渡市の仮設住宅に移った。父親(66)にとどまるよう再三説得されたが「自分が嫁いだ場所なのだから」と決断した。「子どもたちがいつか古里を出ても、戻ってこられる場所を作りたい」。昨秋、夫が残してくれた資金で高台に土地を購入し、家を建てることにした。「全く別の場所で暮らす選択もあっただろうか」。先の見えない再出発に今でも不安になることがあるが「自分を信じるしかない」と言い聞かせる。

 震災から5年。短かった結婚生活と同じだけの歳月が過ぎた。住まいも職場も流され、夫の形見は何も残っていない。唯一残ったのは、もらった結婚指輪だけ。その指輪は震災からまもなく5年になるのを区切りに外し、財布にしまった。「ちょっとよそ見をしただけで、子どもはすぐに大きくなる。感傷に浸っている余裕はない。一人でも生きていける強い子に育てたい」

 3月中に着工する2階建ての新居は、家族の顔がよく見えるように吹き抜けをつくり、間仕切りの少ない設計にしてもらった。夏に完成し、新しい生活が始まる。【道永竜命】


東日本大震災5年/2 父・妹の命、語り継ぐ 自らを奮い立たせて
毎日新聞2016年3月4日 東京朝刊
 ぬくもりある板塀の店内には大漁旗が掲げられ、ホタテなどの地元海産物や野菜料理のメニューを手書きした札が並ぶ。東日本大震災後、宮城県南三陸町の自宅近くにつくった郷土料理店「松野や」。経営する松野三枝子さん(62)は津波で74人が犠牲になった旧公立志津川病院に、がんの治療で入院していた。今、店を切り盛りしながら観光客らに被災体験を話している。

 「同じ病院に父も自転車転倒時の足のけがで入院していました。『津波だ! 上の階に上がれ』。看護師に手を引かれ屋上に出た瞬間、ドンというごう音とともに黒い濁流が流れ込んできました。多くの人の手が水面下に沈むのを目にしました」

 2月25日、松野さんは料理店で、修学旅行で訪れた台湾の女子高校生4人を前に話した。「大変な思いをしたのですね」。真剣に耳を傾けた生徒たちは松野さんと一人一人抱き合って別れた。

 南三陸を地震が襲った時、松野さんは4階建ての病院で入浴中だった。看護師に手を引かれ、外階段から屋上に逃れた。父の阿部正さんは当時88歳。別棟に入院していた。津波の高さは16メートルを超え、入院患者約110人のうち70人と職員4人が命を落とした。

 この中に父がいるとは思わなかった。親戚に「一緒にいたお父さんは?」と聞かれ、初めて不在に気付き、その後、遺体が発見された。

 松野さんにとって、津波で家族を失うのはこれが2度目。小学校1年生だった1960年のチリ地震津波で、3歳の妹を亡くした。この時、松野さんは父に「早く逃げろ」と言われ、家族ばらばらに避難した。

 「私は、妹を失い、お父さんも助けることができなかった」。1人で逃げたと自らを責め、体重は10キロ近く落ちた。

 震災の約1カ月半後、商工業の再興を期して町内で開かれた「福興市」。小中学校の上級生で幼なじみの佐藤仁町長(64)に声をかけられた。「生き残ったんだから、惨状を全国に伝えてくれ」。町長は震災時、防災対策庁舎にいた54人の一人。町長ら11人は生き延びたが、部下ら43人が犠牲になった。負い目を感じながら、自らを奮い立たせているように見えた。「沈んでいる場合ではない」と思った。

 農家に嫁いだ松野さん。がんは胃から肺に転移したが、抗がん剤で増殖を抑えることができると、自分が作った野菜を食べてもらいたいとの意欲がわいた。「観光客が訪れれば、復興の一助になる」と、2年前に店をオープンさせた。語り部として講演会などに招かれ、同じがん患者の相談にも乗る。夫の仁一さん(67)は「完全に病気が治ったわけではない。頑張りすぎるな」と気遣う。


 解体された病院の跡地周辺は震災復興祈念公園として整備されるが、父を失った場所には近づきたくない。今でも毎朝、父を忘れないよう仏壇に声をかける。「今日も頑張るよ」と。

南三陸町 松野や
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