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2016年1月16日土曜日

人間のクズ・日高晤郎 西村チンチン由紀江




 上の2枚の画像は西村由紀江のアルバム「ビオトープ」から。

 こちらの続き。
 http://restfultime.blogspot.jp/2015/12/blog-post_43.html

 人間のクズ・日高晤郎と一緒になって、朝からチンチンが役に立つだの立たないだのの猥談をやっていた西村由紀江の声を聞きながら、やっと私が理解したことがある。
 それは、西村由紀江の曲がつまらないのは、こうした人間(人間性)が曲を作っているのだから、当然なのだ、ということである。

 たとえば、西村チンチン由紀江のピアノ曲と中村由利子のそれとを比較して聴いてみるといい。
 中村由利子の曲は、すべてとは言わないまでも殆どが、それを聴く者を瞬時に、別の世界に引き込んでくれる・別の世界を見せてくれる。
 まるで傷口を癒す不思議な軟膏のように、疲れて傷んだ心を優しく包み込んでくれる。
 それが音楽の力の一つである。
 朝の澄んだ空気に包まれた広大な草原に立たされたり、風が流れ続ける緑の岬の突端に立ち銀色の光を反射する青い海を眺めさせられたり、ヨーロッパの古い街並の中で石畳の上に立たされたり、男と女の別れを目撃させられたり、風に飛ばされて地上を俯瞰させられたり、滅びてゆく人間の運命の哀しさを教えられたりする、中村由利子の曲に耳を傾けていれば。
 中村由利子の曲には、そうした別世界に人を誘い、癒し、勇気づけ、新しく生きる力を与える力がある、多くのクラシックの偉大な作曲家が持っている力とそれは同じものである。
 彼女は、確かな世界を創り上げ、それを提供してくれている。

 ところが……。
 西村由紀江の曲は、それらしい、気まぐれな、短いメロディーが現れるだけで、終わっているのである。西村チンチン由紀江には、人を癒す・勇気づける・哀しみを受け入れさせて新たに歩む力を与えるようなことはできない。何故か?
 人間が幼いからである。
 人間のクズ・日高晤郎と朝からラジオ番組で、チンチンがどうのこうのとお喋りできるほどに、バカ、なのだから、仕方がない。
 そういえば……と、思い出したのが、「ビオトープ」の中に収められていた手の写真である。



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