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2015年9月30日水曜日

オホーツク紀行

 9月28日の月曜日に最後の夏休み休暇を取って、土曜日曜月曜と3日間、オホーツク方面をドライブしてきた。

 26日 土曜日 置戸でプチ美術館を観て、北見に住む登山の師匠の家に寄り(夫婦揃って元気で、その日は、北見工大の学生となっている孫が遊びに来ていた)、紋別まで北上して市立博物館を見物。オオカミの剥製の大きいことに驚く。広域紋別病院見学。海を見下ろす墓地を散歩。紋別セントラルホテル泊まり。翌日のここの朝食はとても良かった。

 私は滅多に宿泊施設を誉めたり推薦したりしないけれども、この紋別セントラルホテルは他人に勧めることができる。

 ホテルを出発して稚内へ向かう。途中、紋別市内の渚滑という町の遺跡による予定だった。一万年に渡って続いていたという集落の跡がある。

 ホテルを出てほどなくして、〈潮見〉という区域に入った。ナビの地図に目をやると、
〈潮見小学校〉
 という建物が近くにある。この小学校に、3年生4年生の2年間、私は通った。運送会社勤めの父の転勤でオホーツク沿岸の町を、ほぼ2年毎に私の家族は引っ越していた。もっとも、私が中学に入るとすぐに札幌に移り住み、それから5年後に父は肝臓癌で他界してしまうことになっていた。
 街並みは変わっていたが、道の走っている「位置」に変わりはない。。ここでこの角度でカーブして、ここは浜からこの程度離れている、そういった道の流れている位置は、50年前と同じである。
(.....この下に、オフクロが働いていた加工場があった)

 運送会社で事務員として働く父の稼ぎだけでは家計は苦しかったのだろう、母はいつも何かしらのパートで働いていた。紋別に移ってきてからも、すぐに、近所の水産加工場で働くようになった。

 私の記憶では.....加工場の仕事は、扱う魚が季節ごとに変わるため、暇な時期と忙しい時期があった。忙しくなると、夜7時8時まで働いてくることも珍しくなかった。
 運送会社の社宅、二軒長屋が幾つも並ぶその社宅の一つを出て、国道を渡り、浜に向かって坂を降りてゆくとすぐにその加工場があった。
 母の帰りが遅くなった時、寂しさからなのか、何度か私は加工場に行き母の存在を確かめ、母の顔を見て安心して戻った。確か小学3年、9歳くらいのことだったと思う。
 最後に加工場に遊びに行った日のこと、夜のことは、ところどころ覚えている。
 働いている女たちの手元しか明るくはなかった。裸電球が天井から吊るされ、その円錐形の光の下で、老いた女、中年の女、そして私の母のように30過ぎくらいの若い女たちが、干物を束にする作業をしていた、ように思う。〈ように思う〉というのも、はっきりとした記憶はないからである。スルメを10枚ずつの束にしていたようにも思うし、タラの干物を束にしていたようにも思う。数人の女たちが、大きな台の上に、それこそ山と積まれたその干物を、一枚一枚丁寧に重ね、紐で括っていた、そんな作業だったと思う。
 紋別でスルメはないかもしれないが、他所から運ばれてきた海産物を加工することは珍しくなかったので、なんとも言えない。スルメにしろタラにしろ、乾燥したものだった。乾燥したものでなかったならば、私もバカな考えは起こさなかったかもしれない。
 いずれも近所の女たちで、いずれも似たように貧しい家からやってきてその作業をしている。話も合うのだろう、女たちは笑いながらあれこれ世間話をしていた。そんな場所に9歳くらいの男の子である私がやってきたので、誰もが優しい声を掛けてくれた。
「あんたんとこのボクかい、めんこいね」といった感じで。
 薄暗いというより、裸電球が照らしている女たちの手元以外は、全く暗い闇と言ってもよかった。台の上には、山のような、大量の、スルメだかタラの干物だかが積み上げられていた。その干物の一枚くらい失敬しても構わないだろうと9歳の私が思ったとしても不思議ではない。
 タラにしろスルメにしろ、美味しいのは知っていた。火で炙るとそれが生み出す食欲をそそる匂いを想い、きっと私は鼻をひくつかせたりしていたのだろう。
 私は暗いその加工場の台の上から、一枚のスルメだかタラを手に取り、そっと自分の背中に、セーターか何かの中に隠したのである。そして、
「ぼく、もう帰る」
 と言って、加工場を後にした。
 9歳の私の計画では





All those moments will be lost......in time.....like tears in rain


 27日 日曜日 宗谷丘陵を見物。公園。稚内の墓地散歩。友人と飲む。テレビで稚内の連合関係者が猥褻事件で逮捕されていることを知る。夜のテレビで犬の番組を見る。


 28日 月曜日。稚内市立病院から始まって、南下してゆくついでに各地の病院見学。


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