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2015年5月24日日曜日

洲之内紀行 大野和士 東京都交響楽団




 大野和士が”円熟のマエストロ”らしい。
 今、NHK教育(Eテレ)で、マーラーの7番が放送されている。
 まるでピントのボけた写真を次々に見せられているような、不快な気分になってくる。
 恐らく、指揮者も楽団員全員も、楽譜を「もっともらしく」音に変えてゆくことにしか興味はないのだろう。
 マーラーの甘美な絶望や希望の断片なりとも表現できていない、小学生の楽団が太鼓を叩いているような演奏。
 もちろん、普段クラシックを聴いている人間は、ベルリンフィルやウィーンフィル、そして指揮者も超一流の人たちのを聴いていいる、何十回、何百回と。そうした音楽に耳が慣れてしまっている人間には、この”円熟のマエストロ”の、統一の取れていない、というより、「何を表現したいのか理解していない」ダラダラと音が続くだけの演奏を耳にしていると、絶望的な気分になる、日本人の限界に。

 一言で言えば、情熱がないのである。
 大野和士の、マーラーには、ケチで軽薄な上っ面飾りしかなく、本質的な情熱がないので、聴いている人を感動させない。
 楽団員がまとまっていないから、シンフォニーになっていない。一つの意思を・一つの流れ・一つの絵になっていないものはシンフォニーとは呼べない。
 まるで、荷馬車が雑音をまき散らしてでもいるように、音楽らしきものが進んでいる。
 これがマーラーの7番、だとしたら、私はもうマーラーを聴きはしない。しかし幸いなことに、本当のマーラーはこんなものではなく、素晴らしい演奏が幾つもあることを知っている。
 下手な役者が何十人も舞台に登場して、天才劇作家の劇のセリフを「棒読み」しているだけの演奏、それが大野和士指揮東京都交響楽団のやっていることである。

 こんな三流の音楽で、この会場に集まった聴衆は満足しているのだとしたら……それとも、
「一生懸命やっているんだからケチをつけるな」
 という愛情を抱けということなのだろうか、日本人的な、論争を好まない「和の精神」で。
 オペラの真似事を日本の二期会という団体がやっているけれども、あれも、一生懸命やっているんだからケチをつけるな、と同じ論調で……。

 ”お仲間”の音楽関係者が互いに褒めあう。
 この大野和士という指揮者は、ヨーロッパ生活が長いようだけれども、一流指揮者が手にするポストを手に入れたことは一度もないようだ。
 それが全てを物語っているようにも思う。
 厳格に評価すれば、決して一流どころの交響楽団から、たとえ客演としてであれ招聘されることはこれからも決してないだろう。

 今やっと終わった。下手なチンドン屋のようなフィナーレだった。鮮やかな色彩が咲き乱れるような祝宴と歓喜で終わるはずのフィナーレが、管楽器の音は割れ(学生交響楽団のように)、鐘(チューブラーベル)は自信なさそうにいじけた音でのたうちまわり……よくこれだけ醜悪なフィナーレで恥ずかしくないものだと、呆れて指揮者の顔を眺めた。

 マーラー殺すに刃物は要らぬ、アホな指揮者が振ればいい。

PS
 今、適当にyoutubeから選んでみた、このパーヴォ・ヤルヴィ、hr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団のこと)の7番5楽章を聴いてみるといい。ついでに楽団員の顔も映っているので、東京都交響楽団の楽団員の顔と比較もできる。
https://www.youtube.com/watch?v=b0TsG3rIOU8
 都響の楽団員の顔は、「自分のパートさえ間違えなく演奏できればそれでいい」と頬に書いてある。
 hr交響楽団員の顔は、一つの世界をみんなの奏でる音によってここに創造しよう、という強い意欲と真摯な意志に満ちている。
 もちろん、個々人の演奏レベルも都響とhrではかなり違うが(後者が格段に優れているのは論を俟たない)、演奏レベルが低くても、一つの世界をそこに生み出そうという熱意があれば、それなりの感動を生み出すことができる、聴衆の中に。
 その、一つの素晴らしい世界の建設指揮を執るのが、指揮者である。
 つまり、指揮者が愚かだと、どんなに素晴らしい交響楽団であれ(hr)、最初からあまりたいしたことはない交響楽団であれ(都響)、結果は同じ――萎びて臭気を放つ醜悪な世界しか生み出すことはできない、ということ。
 そうしたダメな演奏の実例が、大野和士指揮東京都交響楽団のマーラーだった。