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2015年3月11日水曜日

なぜ「アート鑑賞」なんてものをするのだろう

『アート鑑賞、超入門!』藤田令伊・集英社新書・2015

P92~

 アートを知性的に見るというと、多くの人は次のような見方をイメージされるのではないでしょうか。

 本作は、ラファエロが一五〇四年から○八年にかけてフィレンツェの芸術環境、とりわけレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を強く受けて描いた聖母子像の一つである。ここで用いられている様式にはレオナルドのスフマートと共通するものがある。また、理想化された造形はウルビーノにおける修業時代にラファエロがピエロ・デッラ・フランチェスカから学んだことをうかがわせる。


 これは、いわゆる美術史的な見方です。私たちが本やテレビ、美術館のガイドなどでもっともよく見たり聞いたりする種類のものといっていいでしょう。今日、美術解説の主流になっているのがこうした惰報です。

 このような解説にふれると、きっと「なるほど」と思うことでしょう。そして、こういう見方が知性的な見方だと思うかもしれません。私自身かつてそうでした。美術史を一生懸命勉強して知識を詰め込み、知性的な見方が長けてきたと思っていた時期がありました。しかし、ある体験によって、それは錯覚だと気がつきました。
 仏像の展覧会で一人の老女が一体の仏像の前でうずくまっているところに出くわした時のことです。最初、体の具合が悪いのかと思い、近寄っていったら、老女は泣いていたのです。時々仏像を見上げては両手を合わせ、また泣くことを繰り返しています。人目も憚らず、一人の老女がひたすらに仏像に取りすがるようにして静かに嗚咽しているのです。
 私はその光景に釘づけになりました。いったい、どういう事情で彼女が泣いていたのかは知るよしもありません。しかし、私は老女の姿に打ちのめされました。
 あなたは何かの作品に取りすがって泣いたことがあるでしょうか。泣くほど一つの作品に没入したことがあるでしょうか。私はありません。老女と同じくらいひたむきに何かの作品と向き合ったことが私にはないのです。老女と仏像のあいだには何人たりとも介入できない強い絆が結ばれているように見えました。
 思わず、私は「負けた」と感じました。アート鑑賞に勝ったも負けたもないのですが、それでも「負けた」と思わずにはいられなかったのです。
 そして、自分が何か根本的な勘違いをしていたのではないか、という気持ちに襲われました。それまでは美術についてのいろいろな知識を身につければ鑑賞力も向上するとばかり思っていました。けれども、老女の姿を見てその考えに疑問が生じました。様式や時代背景を知っていればそれで見る眼が向上するのだろうか? 「アートを見る」ことと「アートに詳しい」ことはまったく別のことではないのか? そもそも「鑑賞」って何だろう? と原点を問い直さずにはいられませんでした。
 おそらく、老女が仏像に関して知っていたことは大学教授や評論家はもちろん、ひょっとしたら私よりも少なかったかもしれません。でも、この老女ほど深く仏像と向き合っていた人はほかには誰もいなかったに違いありません。老女は「鑑賞」の一つの究極のあり方を見せていたように私には思われました。
 この体験をきっかけに、私は知識の多寡と鑑賞の質は必ずしも比例するものではないと気づきました。さらに知識を豊富に持って見ることが知性的見方とイコールではないということにも思いいたりました。
 先はどのラファエロについての解説のような見方は、知性的見方というよりは知識的見方とでもいうようなものです。アートについていろいろなことを知っていたとしても、それだけでは知性的な見方をしているとは限りません。ほんとうに知性的な見方とは、自分の頭で作品や作家について考え、自分の考えで何かを見出す見方です。ラファエロの例でいえば、解説にとどまっているだけでは知識的見方にすぎず、情報や知識をもとにして自分で何かを考え見出して、初めて知性的見方といえるわけです。知性的見方と知識的見方は似て非なるものなのです。



P198~

 批判精神が不合理に気づかせてくれる
 批判精神も大切です。二〇一四年の横浜トリエンナーレは「華氏451の芸術一世界の中心には忘却の海がある」というテーマで開催されました。「華氏451」とは、一九五三年にレイ・ブラッドベリが発表したSF小説『華氏451度』から採られています。
『華氏451度』の世界では、人々は「考える」ことが許されません。人々は享楽的で表面的な快楽のみに身を置くことを強いられますが、それでいながら、人々は自分の置かれた境遇が不幸とも不自由とも感じておらず、むしろ、それが幸福だとさえ思っています。四方の壁がテレビになっている「テレビ室」で面白く刺激的なプログラムにばかり酔い、耳には「海の貝」というツールをはめ、心地よい音楽と物語を絶え間なく聞き続けています。人々はただ「愉しむ」だけの生き方に溺れているのです。その一方で、空には爆撃機が飛び交い、いまや戦端が開かれんとしている、という場面立てになっています。
 『華氏451度』はそのようなディストピアを半世紀前に描いていますが、ブラッドベリが予言した世界は現実のものとなりつつあるように見えます。テレビはまさに壁掛け可能の薄型大画面となり、両面を流れる番組はいまやバラエティが中心です。みんな耳にはスマホのイヤホンを着けて音楽やゲームに四六時中興じています。その陰では、武器輸出三原則が骨抜きにされ、特定秘密保護法が進められ、集団的自衛権がオーソライズされようとしています。「酷似」といってもいいくらいで、ブラッドベリの慧眼を讃えるべきか、予言の恐ろしさに身を震わせるべきか、考えさせられます。
 『華氏451度』のストーリーは、人々が快楽にふけっているあいだについに世界戦争が勃発し、一瞬にして文明が滅ぶという結末になっています。現代のわれわれも『華氏451度』の人々と変わるところがなければ、とんでもない未来が待ち受けているかもしれません。
 横浜トリエンナーレというアートの祭典で、このようなテーマが取り上げられたのは、アートには『華氏451度』の世界に対抗できる力があると信じられているからでしょう。第六章で批判精神について述べましたが、世の中の不合理に「おかしい、変だぞ」と気づかせてくれるのは批判精神です。私たちはアート鑑賞によって批判精神を鍛えることができます。権力を持つ者に対しても批判精神を働かすことができるようになります。それまでは見過ごしていた世の中のおかしいことにも気がつきます。アート鑑賞で培った批判精神が社会の健全さを保つ力にもなるのです。

(中略)

 アート鑑賞をあくまでも愉しみとするのも、もちろん悪いことではありませんが、同時に、アート鑑賞は人間的成長をもたらすものとして位置づけることも可能であり、そこからもたらされるものを社会に還元するという発想もありなのです。アート鑑賞には単なる趣味を超えたポテンシャルが秘められています。主体的な見方を培い、批判精神を高め、合理的な思考力を磨くことができます。自分という人間がどういう人間なのかを見つめ直すこともできます。必ずそうでなければならないとまではいいませんが、きっと、ごく自然にアート鑑賞力と世の中を見る力は比例的に向上するのだと思います。
 アート鑑賞は、愉しみながら、人間的に成長することができる稀有なものといっても過言ではないかもしれません。そのことに気づくと、こんな。おいしいもの〃を使わない手はないように思えてきます。アート鑑賞を通じて、それぞれの人が、それぞれの愉しみ方で、それぞれの成長を果たしていくことができれば、きっと一人ひとりの人生も、世の中全体も、あらまほしき方向へと変わっていくのだと思います。
(引用終わり)
▲:誤解の無いように最初に書いておくと、この藤田令伊という男性の「アート鑑賞論」には、「馬鹿じゃないの」という感想しかない。


 アート鑑賞。
 まぁ、美術館を見て歩くこと、もその一つの様式。
 自分がどうして美術館を見て歩くのが好きなのか、別に「アート鑑賞」であると思いながら美術館巡りをしたことはなくて……でも、どうしてそんなことが好きなのかと問われると、うまく答えることはできない。
 で、上に挙げた新書、ちょうどモナ・リザについて著者が「私はいつもこの絵が薄気味悪いと感じています」云々と書いてあったので、私と「同類」の人なのかもしれないと思って買い、読んでみたのである。
 モナ・リザをルーブルで実際に見る前から、私はこの絵を・絵の女性を、「カエル女」と呼んでいた。だって、ガマガエルかトノサマガエルのどちらかに近いかは判らないけれども、カエルそっくりの顔で、楳図かずお先生が『カエル女の呪い』という漫画を描いたとしたら、間違いなくそのモデルになりそうだと思っていたし、今も思っている。
 逆に、何年か前に兵庫県立美術館でアール・ブリュット展を観たとき、出品されていたヘンリー・ダーガーの作品を見たときは、感動で長時間見とれていた。その展覧会にダーガーが出品されているとは知らなかったのだけれども、アウトサイダーアートには素晴らしいものがあることを以前から私に教えてくれていたのがダーガーだった。
 ダヴィンチよりもダーガーを「買う」私は、普通に考えれば「異常」なのだろうけれども、そもそも「アート鑑賞」とは個人の好みである。他人がどれほど勧めようが、自分が面白くないと思えば、拒絶すればいいだけの話である。

 で、話をもとに戻すと、どうして「アート鑑賞」なんかをするのだろう?
 というのも、私の周りには(誰の周りもそうだと思うけれども)、美術館になんかこの10年、一度も行ったことが無い、という人が大勢いるからである。それどころか、中学の学校行事の美術鑑賞以来、その後の人生で一度も美術館にもデパートの展覧会にも行ったことが無い、という人は、ザラ、である。

作製途中