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2014年12月26日金曜日

『「奥の細道」をよむ』 長谷川櫂

(P25~)
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

十月八日の吟。その四日後、芭蕉は帰らぬ人となる。

心の「かるみ」

 若いうちは誰でも、人生にはいいことがたくさんあるにちがいないと思っている。人生は幸福の宝箱だと信じている。もしそうでなかったら、生まれてくる意味なんかないじゃないか。
 ところが、長く生きてくると、どうもようすが違うことに気づきはじめる。いつまでも若いわけではなく、徐々に老いが忍び寄る。健康なときばかりではなく、病のときもある。長く生きていれば、家族や友人たちの死にめぐり合う。ときには自分より若い人に死なれることもある。こうして、最後には自分自身の死を迎えるわけだ。
 若いときには、幸福になれると信じていたのに、決してそうではなかった。幸福とは虚妄にすぎないのかもしれない。それどころか、この世に生を享けること自体、最大の苦しみではないのか。そんな疑いが心をよぎることもあるだろう。それを昔の人は生老病死と呼び、人がこの世で享ける苦しみの筆頭に生を置いた。人生とは何と悲惨なものだろうか。
 これは若い人にはいわないほうがいい。しかし、少なくとも五十歳を超えた人は知っていなくてはならないことでもある。芭蕉は五十歳で亡くなった。現代の私たちはその芭蕉の死後の長い歳月を生きてゆかなくてはならないのだ。
 この長く悲惨な人生をどう生きていったらいいのか。大きく分けて二つの道があるだろう。一つの道は嘆くこと。これは和歌、そして、それを引き継いだ短歌的な生き方である。それに対して、もう一つの道は笑うこと。こちらは、俳諧、そして、それを引き継いだ俳句的な生き方である。悲惨な人生をさめざめと嘆くのではなく、笑って悲惨な人生に対すること。
 たしかに人生を幸福なものと思っていれば、ときどき出会う不幸は耐え難いものに思えるだろう。こうなると、次々に降りかかる不幸を嘆くしかない。ところが、はじめから、人生は悲惨なものと覚悟していれば、ときどきめぐってくる幸福がすばらしいものに思える。
 芭蕉が『おくのほそ道』の旅以降に詠んだ句はどれもこうした人生への深い諦念の上に立って詠まれている。あるいは、こうした諦念を下に敷いて読まなければ、その味わいがわからない句である。
(引用終わり)

 たとえば、能。
 いつだったか白洲正子の本を読んでいた時に、能とはすべて幽霊の話である、といったような文章に出くわしたことがある。考え見ればその通りで、全てかどうかは知らないけれども、私の知る限りすべての能の出し物は、霊が現れて何事かを語る物語である。
 日本人は――とは言わない。全ての日本人が「能」に染まっていたわけではないのだから。ただ、ああした能に共感できた日本人は、死後の霊の存在をごく身近なものと感じることができただろう。死とは、超越的な世界への移行ではなく、この世と繋がった霊界への移行であると思えたことだろう。
 西行の歌は、待賢門院璋子との愛欲を断ち切らざるを得ない彼が、仏道に救いを求める心の旅の紀行記録。ただ西行は本当に仏教を、そして神道的霊界の存在も信じていただろう。
 そして芭蕉がくる。芭蕉にはしかし、たとえ墨染めの衣を着たにしても、その俳句からは来世願望は感じられない。今・ここにある美を、昔この世界に存在した美を、味わいつくそうとする。美とは、風景であり、音であり、花鳥風月、要するにこの世界の森羅万象である。それれが与えてくれる「満ち足りた心」を、俳句で掬い取る、掬い取り文字に収めることで「存在させる」。

 さまざまの事おもひ出す桜かな


http://4travel.jp/travelogue/10152941


作製途中



P194~
易流行から「かるみ」ヘ
『おくのほそ道』一巻はこうして終わる。ここで忘れてならないのは、芭蕉の「かるみ」という考え方が、この『おくのほそ道』第四部、市振の関から大垣までの間に芽生えたことである。これは偶然ではない。
 芭蕉はこの第四部で人の世のさまざまな別れと遭遇する。別れとは何かといえば、人生の究極の姿だろう。一口に別れといっても、日常的なしばしの別れから決定的な生き別れ、死に分かれまでいくつもの形がある。しかし、こうしたいくつもの別れはすべて人生の小さな一こまの、あるいは、大きな時代の帰結なのだ。
 人生には悲しい別れの一方で喜ばしい出会いがあるが、すべての出会いは別れで終わる。どんなに仲むつまじい親子も夫婦も友人も、やがて別れの日がくる。たとえ喧嘩別れをしなくても、いつの日か、白ずくめの死が二人の間にまるで媒酌人のように腰をおろしているだろう。まさしく会うは別れの初め。それに対して、別れは出会い、つまり再会で終わるとはかぎらない。別れはしばしば永遠につづく。人生は結局、別れ、この一事に尽きるのだ。
 さまざまな悲しい別れの降りかかってくる人生を人はどのようにすれば耐えることができるか。芭蕉が『おくのほそ道』の第四部で直面したのはまさにこの大問題だった。そのとき、芭蕉の胸に芽ばえたのが「かるみ」にほかならない。
『おくのほそ道』第三部で芭蕉は太陽が輝き、月が照り、星たちのまたたく宇宙の世界を通ってきた。そこで生れたのが不易流行の考え方である。この宇宙は一見、変転極まりない流行の世界に見えながら、実は何一つ失われることのない不易の世界である。流行こそ不易であり、不易こそ流行。
 この宇宙の姿を人の世に重ねたとき、見えてきたもの、それが「かるみ」だった。人生はたしかに悲惨な別れの連続だが、それは流行する宇宙の影のようなものである。そうであるなら、流行する宇宙が不易の宇宙であるように、悲しみに満ちた悲惨な人生もこの不易の宇宙に包まれているだろう。
 そう気づいたとき、芭蕉は愛する人々との別れを、散る花を惜しみ、欠けてゆく月を愛でるように耐えることができたのではなかったか。これこそが「かるみ」だった。
 このように「かるみ」は不易流行と密接なかかわりがある。そして、不易流行がそうだったように、「かるみ」もまた俳句論である前に人生観だった。この「かるみ」という人生観が『おくのほそ道』以降、芭蕉晩年の俳句に抜き差しならぬ影響を及ぼしてゆくことになる。


『俳句的生活』長谷川櫂(中公新書・2004)

P2554~
 昭和三十四年(一九五九年)春、虚子が鎌倉の自宅で残り少ない日々を送っていたころ、七十二歳の谷崎潤一郎は相模湾を一望する熱海伊豆山の家で前年十一月に起こった脳溢血以来の右手の麻痺に悩まされていた。このとき、すでに谷崎は十一年前に『細雪』を書き上げ、五年前に『源氏物語』の二度目の現代語訳も終え、三年前には『鍵』を発表して、今や堂々たる老大家だった。
 谷崎を襲った脳溢血はこれが初めてではなかった。昭和二十七年(一九五二年)四月、東京行きの電車が新橋に到着する間際、棚の荷物を降ろそうとして「左の脚より右の脚の方が少し長くなった気持」に急に襲われたことがあった。そのあと、右足の不自由、記憶の空白、激しい眩量などの症状がしばらく続いたが、治療の末、一年後にはどうにか快復した。
 昭和三十三年十一月の脳溢血は虎ノ門の定宿福田家に滞在中に起こった。十日ほどそこで安静にしてから熱海の家に帰ったが、依然、右手が麻輝したままだったので自分で筆をとって書くことを諦め、これ以降、口述筆記を頼むことになる。それから二年後の昭和三十五年十月、今度は狭心症の発作に襲われてしばらく東大病院に入院し、暮れに退院する。
 その翌年八月、谷崎は『瘋癲老人日記』の口述をはじめた。この小説はその年の『中央公論』十一月号から翌年五月号まで七回にわたって連載された。物語は谷崎の分身らしい卯木沓助という七十七歳の老人がカタカナで書く日記という形で進められる。谷崎自身が語ったという言葉を借りれば「いい年をして息子の妻にうつつを抜かし、変てこな夢物語を日記に書く狒爺」の話である。これを読んだ谷崎の昔からの読者は五年前の『鍵』に次いで性懲りもなく老大家がつづる痴話に半ばあきれつつも魅了されたにちがいない。
 『瘋癲老人日記』の主人公の卯木は男性としてはすでに「不能ニナツタ老人」である。高血圧症で体じゅう相当ガタがきていて死の瀬戸際にいながら息子の妻である颯子に気がある。
「不能ニナツテモ或ル種ノ性生活ハアルノダ」。颯子はマチスの絵のモデルの女のように健康で野蛮な色気の持ち主であり、卯木老人は結婚前はダンサーだったとかいう颯子の「綺麗ナ足」にことのほか惚れこんでいる。
 その颯子は颯子で自分に対する老人の執心を知っていて、夫の従弟との仲を見せつけたり、シャワーを浴びながら老人に足にキスさせたり、挙句の果てにはネッキングをさせてあげた代わりに百万円の猫眼石の指輪を買わせたりしてこの「可哀想ナ老人」をいたぶりながら狂喜させる一方で、颯子自身も老人との悪ふざけを楽しんでいる。
 墓所を探すために親子と看護婦に付き添われて京都に滞在しているとき、卯木老人はこの颯子への、ことに「柳鰈ノヤウニ華奢デ細長イ」足への執着が高じて颯子の足の裏をかたどった仏足石を彫って自分の墓石にしようと思い立つ。颯子の仏足石の下に葬られたい。もしそれが実現すれば老人は飽くことのない願望どおり死後永遠に颯子の足に踏みつけられることになる。「泣キナガラ予ハ『痛イ、痛イ』ト叫ビ、『痛イケレド楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテヰタ時ヨリ遥カニ楽シイ』ト叫ビ、『モツト踏ンデクレ、モツト踏ンデクレ』ト叫ブ」。
 この罰当たりな妄想に駆られた老人はただちに計画を実行に移す。京都ホテルの一室で颯子と二人きりになると、朱を染みこませた紅絹のタンポで颯子の両足の裏を叩いて色紙を踏ませ、夢にまでみた親子の足の拓本をとることにまんまと成功する。
 この卯木老人は谷崎自身の容赦なき戯画である。谷崎はここで性的な能力を失ってもなお若い女性を愛し、死を恐れつつ死に赴こうとしている「可哀想ナ老人」である自分を笑っている。この小説が老人の性と死という下手をすれば陰惨な話とならざるをえない重い問題を扱っているのにもかかわらず、さながら原色があふれ大胆に構成されたマチスの絵が動き出したかのようにむしろ洒落た明るい印象を与えるのはこの徹底した笑いの力によるのだろう。
 谷崎は長い人生の果てに老いて死と直面したとき、死の恐怖を跳ねのけようとするかのように、あるいは死と和解を図ろうとするかのように笑いの世界へと転じた。『瘋癲老人日記』は谷崎の俳諧なのである。当時、谷崎は七十五歳であったから、この物語は自分自身の二年後の近未来の話として書いたことになる。


P231~
 子規が滑稽家としての面目を遺憾なく発揮したのはその臨終の場面だった。
 子規は明治三十五年九月十九日未明になくなる。その前日十八日の朝、碧梧桐は容態悪化の知らせを受けて子規の根岸の家に駆けつけた。午前十一時ごろ、子規は寝たまま画板を妹の律に支えさせ、自分は左手でその下を持ち、板に貼った唐紙に絶筆となる糸瓜(へちま)の三句を墨で書いた。その場に居合わせて絶筆の介添え役を果たすことになった碧梧桐の回想「君が絶筆」によると、子規はまずいきなり紙の真ん中に、

  糸瓜咲いて

と書きつけたが、「咲いて」の三字がかすれて書きにくそうだったので碧梧桐が墨をついで筆を渡すと、子規は少し下げて、

痰のつまりし

まで書いた。碧梧桐は「次は何と出るかと、暗に好奇心に駈られて板面を注視して居る」。すると、子規は同じくらいの高さに、

仏かな

と書いたので、碧梧桐は「覚えず胸を刺されるやうに感じた」。ここで子規は投げるように筆を置いた。咳をして痰をとる。やがてふたたび画板を引き寄せて筆をとると、「糸瓜咲い
て」の句の左に、

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

と書いて筆を置くと、またしばらく休んで今度は右の余白に、

  をととひのへちまの水も取らざりき

と書いた。子規は第を置くことさえ大儀そうに持ったままでいる。穂先がシーツに落ちて墨の痕がついた。この三句をしたためてから十四時間後に子規はなくなる。明治の文人らしい壮絶な最期だった。
 この絶第三句も従来は悲劇的側面のみが強調されてきたきらいがある。しかし、よくよく眺めると、どれもおかしな句である。とくに最初の「糸瓜咲いて」の句は糸瓜の花かげで今にも絶命しょうとしている自分を「痰のつまりし仏」などと笑っている。そこには病苦にあえぐ自分自身をただの物体であるかのように冷静に眺め、しかもそれを戯画にしておかしがる筋金入りの滑稽の精神が存在している。
 二句目、三句目にある「糸瓜の水」とは糸瓜の蔓を切って根につながっている方の切り口を一升瓶などに挿しこんでおくと一夜にして水が溜まる。この糸瓜の揚げる水が「糸瓜の水」であり、古来、痰切りの薬とされてきた。「痰一斗」も「をととひの」の句も妙薬の糸瓜の水も甲斐なく、こうして自分はあっけなく死んでゆくといっている。この二句にも糸瓜の水さながらにさらりとした滑稽の精神が働いている。
 それまでは身辺のものに向けられていた子規の旺盛な滑稽の精神はいよいよ自分が臨終を迎えたとき、子規自身に向けられることになった。そうして詠まれた絶筆三句は子規という滑稽家の最後の燃焼だった。臨終の子規にとって人生は一幕の笑劇にほかならなかった。


P243~
 元禄七年(一六九四年)夏、『別座鋪』に次いで『炭俵』が出版されたとき、芭蕉はすでに江戸を離れ、最後の旅の途上にあった。この二つの選集は芭蕉が訪れた上方での評判も上々だった。九月、芭蕉は大坂に入るとさっそく江戸の杉風に手紙をしたためて「上方筋、別座敷・炭俵ニて色めきわたり侯。両集共手柄を見せ侯」と『別座鋪』『炭俵』の評判を伝えている。杉風は江戸における芭蕉の後援者であり、『別座鋪』の編者子珊の後ろ盾だった人である。
 ところが、こともあろうにその『別座鋪』をめぐって江戸の門弟の間でもめごとが起こる。杉風と並ぶ芭蕉の高弟であった嵐雪がこの選集に異議を唱え、これ以後、江戸の蕉門は杉風と嵐雪の二つの派に分裂することになる。『別座鋪』の成功が皮肉にも門弟同士の仲を裂いたことになる。
 一方、大坂では門弟の洒堂と之道が勢力を張り合って仲違いしていた。芭蕉が体調が思わしくないのに無理して上方へ向かったのは一つにはこの二人の仲裁をしなければならなかったからである。
 この最後の旅の最中にさらに悲しいできごとが芭蕉の身に起こっていた。芭蕉が江戸をたつと間もなく、深川の芭蕉庵に残してきた寿貞尼が身まかった。

  数ならぬ身となおもひそ玉祭り   芭  蕉

 旅先の芭蕉が寿貞尼の死の知らせを聞いて詠んだ追悼の一句である。「玉祭り」とは魂祭り、お盆のことである。こうした門人同士の争いや愛する人との死別に次々と見舞われるなか、元禄七年十月十二日夕方、芭蕉はこの世を去る。
 かつて子珊に俳諧とは何かと問われて芭蕉は「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽きなり」と語ったという。芭蕉が晩年に唱えた「かるみ」とはこうした人の世の争いや悲しみの渦中から生まれ、そこで育まれたものだった。いいかえると、人の世にあふれる争いや悲しみを笑いへと軽々と転じてゆくことこそが「かるみ」だった。それをさらりと「かるみ」といった。私が「かるみ」は単に言葉や表現上の問題ではなく、人の心の持ちようであり生き方の問題であるというのはこのことである。
 芭蕉のみならず人生は辛酸に満ちている。楽しいことうれしいこともあるにはあるだろうが、秤にかければ苦しみと悲しみの方が重い。この悲惨な人生を前にして歌人であればただ泣けばいい。しかし、俳人は苦しみや悲しみを笑いに転じる。人の世に満ちる悲惨の数々を最後まで見届ける。これが俳諧の精神であり、「かるみ」だった。芭蕉の死とはそういう死であった。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る    芭蕉

 最後に遺されたこの句に悲愴ばかりを見てはいけない。「夢は枯野をかけ廻る」とは辛酸に満ちた人の世を死してなお見届けるという俳諧の精神そのものだろう。

 芭蕉の死から三百年後、病苦にあえぐ子規は「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」と書いた。子規を支えたこの「平気で生きて居る事」という悟りは実は晩年の芭蕉が唱えた「かるみ」のことだった。子規自身は気がついていたかどうか。それは「俳句分類」という作業を通じて江戸俳諧から子規へとたしかに受け継がれたものだった。