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2014年9月19日金曜日

東北登山旅行 南三陸町


以下はウィキより引用。
防災庁舎の悲劇[編集]
2011年(平成23年)3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。当初の6mという津波予想のため、庁舎に留まり避難しなかったのが、犠牲者を大きくする一因となった。2階に危機管理課があり、町災害対策本部が置かれた。本庁舎では津波来襲の15時25分頃まで、防災無線放送で繰り返し住民に避難を呼びかけ続けた(本庁舎から発信された約30分間の防災無線の放送音声は、すべて録音されている。)
最期まで防災無線で避難を呼びかけ続けた危機管理課の女性職員は犠牲になり、背後から「上へ上がって 未希ちゃん 上がって」という呼びかけを最後に放送が途切れている[5]。
職員約30人は屋上に避難したが、屋上の床上約2メートルの高さまで津波が押し寄せ、度重なる津波によって庁舎は骨組みだけとなった。アンテナにしがみつくなどして波に耐えた佐藤仁町長ら11名は生還したものの、庁舎に詰めていた他の職員や住民は津波で流され犠牲になった。
(引用終わり)

(ホテルでの夕食・朝の日の出・バスの中で話をするSさん・300人以上の人と犬2匹の命を救った高野会館)

 札幌を発つ前から予約していたホテルは南三陸町のホテル観洋だけだった。
 5月に東北を旅行したときにも泊まりたかったのだけれども、独りで泊まるというプランが、ヤフートラベルサイトからは見つからなかった。今回泊まってみると、独りで宿泊している老人も見かけた。つまり、ネットからではなくホテルに直接電話して予約すれば単独宿泊もできたわけである。もっとも、温泉旅館やホテルの多くは、単独宿泊お断りである。とにもかくにも、Nと二人で旅行することで、やっとこのホテルに宿泊することができた。

 気仙沼から戻ってホテルにチェックイン。

 部屋は11階の最上階にあって、もちろん見晴らしは抜群。目の前には養殖筏がたくさん浮かんでいる入り江が見える。風呂に入り、ホテルの広さに驚き、夕食をレストランでとる。大きなアワビが出て、踊り焼きで(人間とは残酷なものである)食べる。美味しい。ふと、アワビ詐欺の八雲町のことを思い出す。このホテルで出たアワビが韓国産か否かは知らないけれども、養殖物(Nが断定)であるにもかかわらず、大きくて美味しかった。

 翌朝、8時45分から、実際の被災者であるホテル従業員が「語り部」として案内してくれるバスツアーに参加した。1時間ほどのもの。これは宿泊者しか参加できない――ので、このホテルに是非とも泊まってみたかった、というか、「泊まる必要があった」のである。

 バスは2台も出ていた。どちらもほぼ満員。つまり、80人から90人ほどの参加者がいたということになる。
 私のバスでは、冠婚葬祭部門を担当していたSさんという、60歳前後の男性が「語り部」となって話を聞かせてくれた。
 最初にバスは南に向かう。そこには小学校跡がある。戸倉小学校の跡である。折立小学校、と言っていたかもしれない。何しろメモも録音も取っていないので、細かいことは忘れてしまっている。
 ただ、その海辺の小学校の先生生徒何十人かは、誰一人命を失うことも怪我をすることもなく、高台の神社に逃げて無事だった。忘れてならないことは、311の地震の前に、何度か、それなりに大きい地震が起きていて、津波警報も出ていたということ。そして、311の直前に、この小学校では、それまで避難場所と定めていた「校舎の3階だか屋上だか」では、大津波の場合危険だという判断を下し、避難先を学校近くの高台にある神社に変更したばかりだった。
 Sさんは大川小学校の例を挙げて、「大川小学校は海から5キロほど離れているのに対してこの小学校は海のすぐ前です。ということで、先生方の意識が異なっていたのでしょう。あちらは大勢の子供さんたちが亡くなりましたが、こちらでは一人の被害者も出さずに済みました」と話していた。

 バスは方向転換し、ホテルも前を再び通って南三陸町の市街へ、今は殆ど更地となったかつての市街の廃墟へと向かう。

 最初に高野会館という、今は廃墟になってしまった建物についての説明を受ける。
 津波が襲ってきた日、この4階建の鉄筋コンクリートの建物の中では、高齢者芸能発表会なるものが開かれていた。発表会が終わり、皆が帰ろうとしたときに、玄関に「立ちふさがって」阻止したのが支配人だったという。つまり、津波が来るから建物から出ないで、3階、4階に避難しなければならない、と。
 結局3階どころか4階も津波が押し寄せ、全員屋上に避難した。そうすることによって、中にいた人は一人も死なずに(更には2匹の犬の命も助かった)、無事に生存することができたのだという。
 この高野会館を所有運営しているのも、ホテル観洋なのだという。経営者はこの建物を保存したいという思いがあるらしいが、その維持には莫大な費用がかかり、民間会社がそれをするのは可能かどうか、まだ結論が出ていないということだった。

南三陸町を襲った大津波の証言

http://memory.ever.jp/tsunami/shogen_minami-sanriku.html

 高野会館の横にあるのが、公立志津川病院。3階建。この病院では、つまり、全部が津波に呑み込まれ、入院患者の半分が死亡したという。
 それから、有名な防災庁舎にバスは進んだ。ここで起きたことは、以下の写真を見ればもう何も説明は要らない。
http://memory.ever.jp/tsunami/images/bosai-tyosya_tsunam.pdf

 Sさんの話。彼はその日も自家用車でホテルに来て働いていた。津波の前には、ホテルの前に広がる入り江の「底が見えた」ほどに、海水が引いたという。つまり、大津波が来ることは予想できたのだろう。津波は高台に建つホテルの一番下の階にあった大浴場を破壊したけれども、被害はそれだけだった。ホテルには大勢の被災者たちがやってきた。その世話にSさんは当たる。
 しかし、Sさんの家は流され、家に戻ってみると「コンクリートの土台しか残っていなかった」という。「私に残ったものは、車と、その日に来ていた一着のスーツだけでした」
 Sさんは家族のことは一切話さなかった。
 一切話さないということが、全てを物語っていた。
 仮に、ある日突然、それまで大切にしてきた全てを失ったら、人はどうなるだろう? 一生懸命働いて建てた家、そしてそれとは比較にならないほど大切な妻や子供たちを失ったとしたら?

「この津波では」とSさんは話していた。「家に残っている家族を助けるために家に戻って、そのために死んでしまった人が大勢いるんです。くれぐれもそのようなことが無いように、みなさんにも考えていただきたいと思います。津波が来たら、まず自分自身の命を守ることです」
 家族を助けるために家に戻って命を落としたのが、Sさんの家族のことなのかどうかは不明である。いつもは気安く話しかけ質問をするNですら、Sさんの哀しみが結晶化したような顔を前にして、何も訊けなかったと漏らしていた。

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