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2014年7月11日金曜日

日本の美術界 三岸好太郎 草間彌生 野田弘志


 先日、ボケーッとしながらテレビを見ていると、(いつもボケーッと生きているのだが)、屋根裏部屋から出てきたという絵の鑑定を『なんでも鑑定団』でやっていた。(どうでもいいけれども、あの紳助関連女性がまだアシスタントを続けていて、片方の肩を大きく露出した場違いなドレスで登場していた。)
 三岸好太郎の風景画で、永井龍之介という画商の鑑定では、
<2000万円>
 の価値があるということだった。

 三岸好太郎は札幌の出身で、私の高校の先輩で、札幌には北海道立の三岸好太郎美術館というものもある。一度行って、中に展示されている、恐らく100枚近くの絵を見てきたことがあるけれど、どれもこれも私にはゴミ絵としか思えなかった。
 海を描いた絵が何枚かあるのだけれども、平均的な中学生レベルの稚拙なもの。なぜこんなものを展示しているのかは不明。シューレアリズム云々と喧伝されている絵も、幼稚なもの。特に一階に展示されている人物画は、どれも吐き気がするゴミばかり。
 これが「日本美術界」の一つの現実なのである。
 で、画廊店主が、ゴミ風景画に2000万円の値を付ける、その理由は?
 買う人がいるからである。
 なぜ買う人がいるか?
 「日本の不思議な絵画市場」が存在しているからである。
 どうしてそうした不可思議な絵画市場があるのか?
 永井龍之介のような画商たちが作り出しているからである。
 この駄作が2000万円で取引されるなら、画廊店主の「取り分」も大きくなる。同じような日本人ダメ画家の作品の多くも値が上がり、ますます画家も画廊店主も儲かるようになる。絵を買う人たちの一部は(多くは?)、投資目的で買う。絵を楽しむのではなく、絵で儲けるために買う。かくして、瞳に金のマークを光らせた連中が、ゴミ絵画を手に手に涎を垂らしながら、醜悪なダンスを踊り続けるようになる。
 
 大原美術館の地下にはゴミが集められている。
 現代美術の作品を集めているということだけれども、その最初に草間彌生のゴミが置かれている。
 草間といえば、代々木コリアン放送で流された松任谷由実の番組にも登場していた。
 草間彌生のニューヨーク時代のハプニングショー。これも芸術実践のつもりなのだろうけれども、裸体にシースループラス水玉模様の布をまとい、よくもNHKで流したものだと呆れるシーンもある――もちろん、そういった危ないシーンは写真に撮ってここに紹介するわけにはいかない。
 世界的な芸術家、らしい、今では草間彌生は。
 私には、三岸好太郎と同様、全く意味のない存在である。
 以前、私の知り合いの医者が草間の「青いパンプキン」のリトグラフを持っていると書いた。当時、私はあのリトグラフは50万円くらいなのかな、と思っていたけれども、先日ブンカムラの画廊を見て歩いて、あの絵が少なくとも400万円はするものだと知った。「あんなリトグラフが」400万円もするのなら、三岸のダメ絵(でも油絵は油絵)が2000万円しても、確かにおかしくはない――金銭感覚が、全くおかしくなってしまう、のが、日本の絵画市場の魔力(毒力)なのだろう。
 草間彌生には贋作作品が流通している可能性があるという記事が週刊文春に出ていた。







Somebody would be turned on by a trash and nobody could blame it.

 週刊誌といえば、小沢済州島一郎の支援者から「真実を伝える週刊誌」と評価の高い「週刊ポスト」に、こんな記事が出ていた。



 オルセーに行ったときに、この絵を見たけれども、もちろん、クールベの最高傑作(の一つ)『画家のアトリエ』がそこにあり、この『世界の起源』はじっくりと見ることはなかった。クールベといえば、トルコのハーレムに納めたという二人の女性の裸体画を思い出す。どこの展覧会で見たのかは忘れてしまったけれども、いかにもクールベらしい、森も女も海も、同じタッチと「信念」で描く画家である。
 で、この記事を読んで思い出したのが、ホキ(ゴミ)美術館で賞賛されている画家の野田弘志。
 先日、伊達市が(おそらく)多額の税金で援助している野田グループの展覧会が札幌芸術の森美術館であった。
<存在の美学>である。
 下のパンフレットの女性の顔。このおぞましい顔は、しかし、顔だけではないのである。
 この野田の絵は、全裸の女性を描いており、ウンコ座り(?)をしたような女性が、両手を足首に当て、「軽く」M字開脚し、性器を見せている。陰影を濃くしているので見えにくが、はっきりと性器が描かれている。クールベのような堂々としたものではなく、更に悪いことにはおぞましい表情の女性の顔まで付けている、この「存在の美学」。
 野田弘志の自己陶酔とは別個のところで、私はただただ寒気しか感じなかった。
 芸術家に自己陶酔は必要である。それがなければ創作活動は続けられない。ただ、その芸術家の自己陶酔をどう思うかは、見る者の自由である。私には、これほど醜悪なものを「存在の美学」だと自惚れている画家を見て、驚き呆れるしかないのである。
 まして、この醜悪な作品群を生み出すために、伊達市が(おそらく)莫大な額の税金を浪費していることにも、驚き呆れるのである。
 伊達市の小中学生を引き連れて、この「存在の美学」、軽く開脚・性器露出絵画、を、伊達市が推奨する美学であると胸を張って説明するといい。きっと「反面教師(絵画)」になって、芸術に目覚める生徒も出てくることだろう。あるいは、芸術の持つ狂気に後ずさりする生徒の方が多いかもしれないけれども。
 全国に何千人と、あるいは何万人と、自分の芸術を信じて一生をそれに賭ける芸術家がいる。日本は自由な国家であり、個人の幸福を追求する権利は保証されている、公共の利益を著しく侵す場合を除いては。自分の信じている価値観を追求する自由はだれにでもあり、それは野田弘志の描くものについても当然適用される。
 ただ、野田弘志の絵は、私には醜悪な作品群としか思えないのであり、彼のグループの他の「芸術家」の絵についても同じことが言える。
 もっとも、ホキなんとかという人物のような金持ちの「芸術愛好家たち」は、おそらく、何千万という金を払っても、こうした醜悪な写実絵画を熱心に収集してくれるのだろう。