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2014年4月4日金曜日

団体孤人旅行

3月31日 札幌出発 羽田経由 門司港レトロ
4月1日 下関から山口・瑠璃光寺五重塔 津和野 萩 萩美術館
4月2日 萩から金子みすず記念館 秋吉台 秋芳洞
      岩国錦帯橋 岩国美術館 広島 ホテルで友人と会う
4月3日 宮島 ロープウェイ 広島空港羽田経由札幌

 ということで、4月2日の夕方、広島の地下街を歩いていたら、風に吹かれてパンフレット・広報誌が足元に流れてきた。手に取ってみると、日本消化器病学会の広報誌で、開くとこんな感じ。





 そういえば、三浦雄一郎の呆れたエベレスト登山(6500mからヘリで下山)について書いたエントリーの閲覧者の数は比較的多い。NHKその他の日本のアホマスコミは、三浦雄一郎に「逆らえない」(何しろサントリーの広告塔の一人・セサミン)ようだけれども、矢張り呆れている人は多いのだろう。
 随分前、NHKラジオを聴いていたら、確か朝の番組だったと思うけれども、三浦雄一郎の次男の三浦豪太(順天堂大学医学部がこの男に医学博士号を与えている)が出ていて、「エベレストの頂上で、オヤジ(父)は30分間、酸素マスクを外していた。そのために体力が落ちてしまった……」つまりは、酸素を30分も吸わないという愚かしい「冒険」をしたために、結果的に安全に下山できなくなってしまったことを「白状していた」に等しい。そのあけすけさ(能天気さ、とも言う)には驚いた。
 高度8000メートルで酸素マスクをあの老人が半時間も外していたとしたら、下山の途中で歩けなくなることくらい、少しでもDeath Zoneでの登山を知っている者なら誰でも予想できると思うのだが……無酸素登頂をやれるような体力はこの老人には全く無かったのだから。
 この無謀な老人登山家は、それでもスポンサーを集めてまた愚かな「冒険」とやらに挑むのだろう。




● 以下は読売新聞からの引用
不整脈(1)旧制中学入試で知った異常
 世界最高齢でのエベレスト(8848メートル)登頂は、持病の不整脈との闘いでもあった。昨年5月、80歳での偉業の直前に2回の手術を受けた。心臓に爆弾を抱えながら、人類初の夢と命を懸けた挑戦だった。
 今や世界最強の高齢者だが、幼少期は病弱で、肺の病気で半年近く小学校に通えなかった。「肺活量は今も同年齢の人より少ないくらいです」。旧制中学の入学試験で縄跳びした後、医師から「心臓がおかしい」と指摘された。不整脈を意識した初めだ。
 山岳スキーヤーの父の影響で、プロスキーヤーとなる。急斜面を直滑降で滑る世界最速記録を樹立。エベレストの8000メートル地点からなど、世界7大陸最高峰からの滑降を成功させた。
 だが、50歳代で目標を失った。トレーニングから遠ざかり、暴飲暴食の毎日。メタボになり、心臓発作も起きた。65歳で医師から「余命3年」の“脅し宣告”まで受けた。
 一方で父は88歳でヨーロッパ・アルプスを滑降し、子供たちもスキーヤーとして五輪出場などで頑張っていた。「俺は世界の冒険家なのに何をしているのか」。一念発起し、70歳でのエベレスト登頂を決意した。
 だが、札幌の自宅近くの藻岩山(531メートル)で、息が切れて登頂を断念。鍛え直すため、両足首に1~5キロの重りを巻き、10~25キロの荷物を背負って歩いた。
◇         ◇         ◇
 冒険家 三浦雄一郎(みうら ゆういちろう)さん(81)
(2014年3月13日 読売新聞)


不整脈(2)引退勧められ 手術を決断
 2003年のエベレスト初挑戦では、標高4000メートルで不整脈を発症した。一時は人事不省に陥ったが、「現地で診てくれた米人医師から『エベレストを滑ったミウラなら大丈夫』と励まされて、暗示をかけられたように、なんとか登頂できました」。
 だが、山頂は曇り、何も見えなかった。晴れ渡る光景を見るため、5年後、75歳での再登頂を決めた。
 しかし、帰国後に不整脈が悪化。心臓専門医を訪ね回ったが、「手術しても治らない」と引退を勧める意見ばかり。納得できず、渡米した。心臓手術の実績を持つ日本の医師を紹介され、本格的な治療に入った。
 脚の付け根から太い血管を通じて心臓にカテーテルを入れ、高周波電流を流して異常な部分を焼き切る「カテーテルアブレーション」だ。「2度の手術で心臓の155か所に“焼き”を入れたので、体力が70歳の時より向上しました」
 エベレスト再挑戦では、インターネットを駆使した遠隔診断が行われた。同行した次男の元五輪モーグル選手で医学博士の豪太さん(44)が、30分~1時間ごとに心電計で父の様子を見ていた。心電図、心拍数、血圧のデータを日本の医師団に送信し、診断を仰いだ。
 今度のエベレスト山頂は快晴で、ヒマラヤの山々がすべて見えた。念願は果たしたが、その直後に、80歳の挑戦を決めていた。
(2014年3月20日 読売新聞)

不整脈(3)本番2か月前に収まる
 エベレスト再登頂成功の翌2009年、札幌のスキー場で滑降中に転倒し、骨盤、大腿だいたい骨、肋骨ろっこつを折った。全治6か月。76歳での大けがで、寝たきりとなることも予想された。
 「それでも、夢をあきらめる気はなかった。治ると信じていましたから」。重い荷物を背負って歩いていたおかげで、筋肉も付き、骨密度は20歳代の水準にまで上がっていたので、折れた骨が付くのが早かった。
 本番の前年の12年秋、予備遠征中のヒマラヤ5300メートルでまた不整脈発作が起きた。直ちに帰国し、2度のカテーテルアブレーション手術を受けた。不整脈が出なくなったのは、本番出発のわずか2か月前だった。
 13年3月末にネパール入りした三浦隊は、ゆっくりと進んだ。通常1日の行程に2日かけ、移動は原則午前中だけ。80歳らしい「年寄り半日仕事」だ。無理をせずに体を慣らしていった。紅一点の心臓専門医も加わった。
 ベースキャンプ(5350メートル)で右目がよく見えなくなった。白内障で、帰国して手術するまで、左目だけが頼りだった。
 8000メートル以上は空気中の酸素濃度が地上の3分の1の「デスゾーン」(死の領域)。「登頂前日の朝と夕、わざわざ持ってきた茶器でお茶会を開き、心を落ち着かせた」。夕食は手巻きずし。極限の地でも、日本人の流儀を貫いていた。
(2014年3月27日 読売新聞)

不整脈(4)若い年齢の体力にはなれる
 2013年5月23日、最終キャンプ(8500メートル)を午前2時に出発。7時間かけて3度目のエベレスト登頂に成功した。父の体調管理で寄り添ってきた次男の豪太さん(44)も一緒だ。
 快晴で気温氷点下20度。8848メートルの地球の頂点から「疲れたけれど、80歳でもまだまだいける。皆さん、ありがとう」と発信した。
 山頂は20分以内にと言われていたが、撮影のため酸素マスクをはずして50分、滞在した。「このすばらしい風景を見るのは最後と思うと、去りがたかった」
 だが、これが吹雪の中での下山に影響し、まともに歩けないほど疲れた。「生きて帰るんだ」と気力だけは衰えなかった。医師らの待つ6500メートルのキャンプにたどり着いたのは翌日の午後11時半。2日間で実に30時間も歩き、生還した。
 「エベレストの目標がなければ、とっくにメタボで死んでいたと思う。若くはなれないが、若い年齢の体力にはなれる。もう年だから、心臓病だからとあきらめず、小さな可能性を積み重ね、80歳でも登れると確信していました」
 次の目標は、85歳でヒマラヤ山脈のチョ・オユー(8201メートル、世界第6位)に登り、山頂からのスキー滑走。年齢を超えた、終わりなき挑戦が続く。(文・斉藤勝久、写真・沼田光太郎)
(2014年4月3日 読売新聞)
▲:6500mから5300mまで、アイスフォールという危険地帯を避けるためにヘリコプターを使ったことは一切触れず、「美談」だけにしてしまう読売新聞は、三浦雄一郎と同様の恥知らずということになる。




 今回の旅行は、うつ病を発症してしまった友人に関係している。
 2月中頃からだったろうか、関西に住む彼から頻繁に電話が来るようになり、「会いたい」という。会ってみても私は精神科医ではないし、何の助けにもならない。電話で話しているのですら彼にとって有益かどうかは不明だと思っていた。しかし、抗うつ薬がかなり奏功し、状態も良くなってきていて、まぁ、ひとつ、お互い会って近況(?)を語り合おう、ということになった。「病気」の彼は北海道に来ることはできないというので、自然、私が行かざるを得ない。
「おまえに会うためだけに本州まで行くのは気乗りしない」
 と電話で言うと、こう返事が返ってきた。
「おまえ(私のこと)、まだ萩・津和野と秋吉台には一度も行ったことはなくて、いつか是非とも行ってみたい、って話してたじゃないか。ついでに広島に回るツアーもある。広島までなら、大阪から新幹線でたった90分だ。」

 驚いたことに彼はネットで、札幌発(新千歳発)の萩・津和野ツアーを幾つか調べてきた。メールであれこれツアーの情報を送ってくるようになり、あまりに「しつこい」し、それに、確かに一度も行ったことがない萩・津和野・秋吉台の魅力に引かれて、4日間も年休を使うこの団体旅行に参加したのだった。

 萩・津和野・秋吉台を個人で旅行しようとすると大変な労力がいる、ついでに費用も。
 団体旅行にくっついてゆく(個人で、というより「孤人で」)ほうが、断然に楽なのである。
 広島で夜に会うのなら、彼の方は翌日だけの・1日だけの年休で済むという。もう、また、バリバリ彼は働いているのである。
 ということで、私は4月2日に広島に泊まり、その宿泊しているホテルに彼が夫人と共にタクシーでやってきて、小一時間ばかり話をした。
 旅行の目的は観光半分・面談(漫談?)半分、といったものだった。