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2013年5月8日水曜日

ノーベル賞乞食・村上春樹


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5つ星のうち 1.0 孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説 2013/5/3By ドリー
 
 満を持して、村上春樹を読んでみました。めちゃ売れてるって評判だし、本屋でも下品なぐらい平積みされてるし、アイフォーンの新作かってぐらいの長蛇の列がテレビで流れていたので、あんまりウザイから読んでみたのです。

 読んでみてすぐに王様のブランチで本仮屋ユイカとかが「うーん・・・なんか難しいとこもあったんですけど・・・最後にすごい村上さんから明るい励ましのメッセージをもらったようで元気になりました!」ってぶりっ子然な感じでなんの生産性もないコメントをしているのがなんとなく目に浮かび・・・。その脇で谷原章介が「うんうんそこが村上作品の魅力だよねー」とスカした感じで頷いてる光景が脳裏によぎりました・・・。王様のブランチで褒められている小説はたいがいろくでもないという相場は決まっております。だから変な期待を持たずに読み終えることができました。あらかじめ言っておくと、ボクは村上作品のいい読者ではありません。ノルウェイの森も途中やめにしてるし、アウターダークも途中退場、まともに読んでるのは象の消滅っていう短編集と風の歌を聞けぐらいで、1973年のピンボールなんか朝おきたらベッドの中にかわいい双子のおんな子がいたー!って時点で床に叩きつけています。言わずもがなカートヴォネガットとかレイモンドカーヴゃーもフィッツジェラルドも読んでいないし、ちょっと周りがもてはやしているから読んでみよう。でもいまいち良さがワカランなぁぐらいのレベルなのです・・・。しかし「風の歌を聴け」をはじめて読んだときは衝撃をうけました。その主人公のあまりのオシャンティーぶりに全身から血の気が引きそうになったのを覚えております。だって・・・あれだぜ・・・。ジャズバーにいたら自然と女が寄ってきて、そんで全然そんな気ないのに、ちょっと会話してたらもう部屋に連れ込めてるんだぜ? そんでワインのコルクを果物ナイフの先っぽでこじあけようとしてんだぜ? 果物ナイフでだぜ!? 「ビーフシチューは好き?」とか女に聞きながらだぜ・・・。コルク抜きとかつかわないんだぜ・・・。なんか石田純一が女の前でりんごを果物ナイフで切ってそのままナイフにのせて食べるって言ってたのと同じレベルの、スカシっぷり・・・じゃね?ジャズのレコードがかかってるムーディな部屋でだぜ・・・。しかもそのムードのまま、しっぽり、やれちゃうんだぜ。しかもやってる最中に、「あなたのポコチンはレーゾンディートルね」とか言われちゃうんだぜ? なにそれ? レーゾンディートルってなにw? クソ意味不明なんですけどw ググる気にもなんないんだけど・・・。仮性包茎のこと? 


 ここでノックアウトされるものはハルキニストになり、ここで「ちっ」と舌打ちするものはアンチ村上に転ずる、と言われております。ボクは、舌打ちするほうだったのでアンチとは言わないまでも、そんなオシャンティーな村上作品に対し、どことなく嫌悪感を抱いておりました。齋藤孝氏が「これは僕のなめた孤独とは違う」と言っておったのが、大多数のアンチ村上の意見なのではないのでしょうか。

 さて、じゃあ本作は主人公、多崎つくるくんはどうかというと、これもまた案の定、孤独です。まず冒頭二ページでこんなんです。

 ―――用事のない限り誰とも口をきかず、一人暮らしの部屋に戻ると床に座り、壁にもたれて死について、あるいは生の欠落について思いを巡らせた。彼の前には暗い淵が大きな口を開け、地球の芯にまでまっすぐ通じていた。そこに見えるのは堅い雲となって渦巻く虚無であり、聞こえるのは鼓膜を圧迫する深い沈黙だった―――

 
 ぼっちです。これは共感がもてます。大学生なので深刻です。これは辛い自体です。しかし、いちいち言い方がおおげさなのが玉にキズです。暗い淵が地球の芯にまでって・・・いくらなんでも深すぎです・・・。しかも「渦巻く虚無」とか「深い沈黙」とか「生の欠落」とかいちいち出てくる単語が思春期こじらせた中学生が書いたブログに出てくる言いまわしみたいでイカ臭いです。「深い沈黙」が聞こえる・・・ってのも意味がわかりません。
 しかしそんな瑣末なことにいちいち目くじらを立ててもしょうがないでしょう。大事なのはなぜ彼がぼっちになったか?ということです。そこも読み始めてすぐに説明されます。高校時代に仲の良かった五人組と、突然「おまえとは縁を切る」と言われたらしいのです。 それ以来、人間不信に陥り、他人とうまく関係を築けなくなったということがわかってきます。
 と、ここまで読んでいくと、「泣けてくるほどのぼっち小説ではないか!」と思ってしまいますね。
 
 しかし、すぐにその予想は鼻先でピシャっとやられます・・・。読む進めていくうちに、「あ、これはおいらとは違う」といつもの村上カラーが炸裂してきます。20ページぐらいで主人公は恵比寿のバーで女と喋っています。もうどこかで見た光景です。しかもそのバーに入った理由が「とりあえずチーズかナッツでもつまもうと思ったから」です。こんな軽い理由で恵比寿のバーに入れる人間をボクは同じ血が通っているとは思えません。しかも、会話もこんな感じです。

 つくる「それが存在し、存続すること自体がひとつの目的だった・・・」

    「たぶん・・・」
  女 「宇宙と同じように?」
 つくる「宇宙のことはよく知らない」
    「でもそのときの僕らには、それがすごく大事なことに思えたんだ。僕らのあいだに生じた特別なケミストリーを大事に譲っていくこと。風の中でマッチの火を消さないみたいに」
  女 「ケミストリー?」
 つくる「そこにたまたま生まれた場の力。二度と再現することのないもの」
  女 「ビッグバンみたいに?」
 つくる「ビックバンのこともよく知らない」

 

 「け、け、け、け、け、ケミストリー・・・・!」「い、いま、なんつったこいつ・・・!?」「け、け、ケミストリー!?!?」「ま、まじか・・・そんな尻こそばゆい単語・・・始めて聞いたんだけど・・・なにそれ・・・すっごいむずがゆいんだけど」「背中ぞわぁってするんだけど・・・すごい・・・変な汗出てきたよなんか・・・」「しかも、なんかケミストリーって言ったあとで、風の中でマッチの火をどうたらこうたらって、すごい恥ずかしい比喩表現上乗せしちゃってるよ・・・。恥の上塗りだろこれ・・・なんだよケミストリーってこええよ」「こんなやつバーで隣にいたらタコ殴りにしてるよ・・・」「しかもなんかあれだよ・・・女の子がせっかく『それは宇宙なのかなぁ?』とか『ビックバンみたいな感じ?』って必死で合いの手を差し伸べてくれてんのに全部『それは知らない』の一点張りだよ・・・。会話合わせる気ねぇよこいつ・・・どんだけ宇宙ネタ嫌いなんだよ・・・・。こんなやつ絶対モテねぇよ・・・。

 その後も頻繁に「ケミストリー」とつぶやくつくるくん。ケミストリー押しがすごいです。ところがモテてしまいます。なぜか、このつくるくん。二十歳で童貞だったわりには、女の子とはしっぽりしけこめてしまうのです。しかもその調子が、いつもの村上節です。心に大きな空洞をかかえたまま、他人に心を開いてないのにもかかわらず、ちゃっかり女は寄ってくる。いつものやつです。というか村上春樹の小説のキャラクターってこんなんばっかりじゃね? しかも童貞喪失のときに―――初めての体験だったが、それにしては何もかもがスムーズに運んだ。最初から最後まで戸惑うこともなく、気後れすることもなかった―――p132って、こんな都合のよろしい童貞っていらっしゃるかしら? 「村上さんの登場人物は避妊しないんですか?」というファンの質問に対して「うーん・・・いちいちゴムつけるとこ書くのめんどくさいでしょ」みたいな発言をしていたのを思い出しましたが、いくらめんどくさいからといって童貞をこんな女のあつかいに長けたサオ師みたいに描くのはやめていただきたい。あまりにもリアリティをシカトしすぎです。童貞を舐めないでいただきたい。「ヤリチンヤリチン」とずいぶん批判されてきたのに業を煮やしてか、やっとこちら側に擦り寄ってきたかと思いましたが・・・またこれです・・・やってることはやっぱりヤリチンです。


 いろんなところに目をつぶってみても開始何ページ目かでボクはあまりのオシャンティーぶりに卒倒しそうになりかけました・・・・。嫉妬とはーーー世界で最も絶望的な牢獄だったーーーとか、人の心は夜の鳥なのだーーとか、彼は荒ぶれた闇の中で消え入るように息を引き取り、森の小さく開けた場所に埋められた。人々がまだ深い眠りについている夜明け前の時刻に、こっそり密やかに。墓標もなくーーとかいちいち目を覆いたくなるような、ゴミ箱からほのかに漂ってくるようなスペルマ臭い言い回しとも必死で戦いました。


 ところが、多崎つくるくんひとりならまだしも、つくるくんの友人がこれまたひどい・・・とくにアカはひどい。女に「友達に嫌われた理由を探してみたら」と言われたので、十年ぶりにつくるくんは昔の友達のところへ尋ねるのですが、このアカってやつが、なんというか、もういろいろこじらせちゃってます。ビジネスセミナーのコミッショナーなんですけどね。もうなんかビジネスセミナーのコミッショナーだからなのかあれなのか、身のこなし、言葉の節々から、自己陶酔感がただよってるんですよ。もちろん応対するのは昔の友人(つくる)ですが、それにしても自分大好きオーラでまくってます。だってこれですぜ。


 アカ語録。


 アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シャフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」


 「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」


 アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」


 

 福山雅治なら許されます。ガリレオのときの雅治なら許されます。しかし、それ以外は、断じて許されません。無論。こういうことを言って、「おめーいてーよなんだよそれ。鋭いサーブだってなんだよw」「なにが多崎つくるくんにアドヴァンテージだよw」なんていう人間はひとりもおりません。自然なのです。「封を切ってしまった賞品の交換はできない」とか「まるで航海している船の甲板から、突然ひとりで夜の海に放り出されたみたいな気分だ」とか村上小説の登場人物は総じて、もういちいちなにかしゃべるときは、気の利いたこと、おしゃれな比喩を言わないとすまない性格だと肝に銘じたほうがよさそうです。

 しかしここまでこの書評を読んできて、話の内容がいまいち見えないという人も多いでしょう。ものすごくざっくばらんにネタバレしますと、多崎つくるくんが友達と再会を通して知った自分が絶交された理由とは「シロというおなじ五人グループの女の子をレ○プしたから」というとんでもないものでした。つまりすごく雑に流れをまとめるとこうなります。

 オス!おいら多崎つくる!なんかよくわがんねーけど、すげえいきなり友達から絶好されちまった!――――→なんかそれがきっかけで自信もなくしたし、人間不信になっちまった!――→でも職場で知り合った女(沙羅)がすごいいい女で、結婚してーって思った!――→でもなんか女から「友達に再会してみたら」って言われたんで会ってみることにした!ーー→友達に何年かぶりに会って理由聞いたら、おれが勝手に友達(シロ)をレ○プしたことになってた!――→なんかもっとよく聞いてみたら、シロ死んでて(好きだったのにショック)、しかもちょっとメンヘラだった!!!――→外国に住んでる友達に聞いたら、なんかメンヘラだったシロを救うためにやむなくついた嘘だってことがわかってきた!――→怒ろうかと思ったけど、すごい謝られたし、なんかすごい「ずっと好きだった」とか「自信を持ってー!」って言われたから「うん、おで頑張る!」ってなった!――――でも沙羅浮気してた・・・。沙羅に振られたらたぶんおいら死んじゃう・・・電話してみたけど・・・反応よわい・・・おいらを選んでくれんのかなー・・・うーん、やきもき・・・。―――→完!!!

 うーん・・・この物語になにを感じればいいのでしょうか・・・。読んでしばらく考えてみましたが、なにひとつ感想が浮かんできませんな・・・。作品にちりばめられたメッセージ「あの頃の思いがどこかに消えるわけじゃない」とか「自信を持ってー」「あなたはあなたのままでいいのよー」とかも、なんというか鼻息で一掃したくなるようなしろものだし。なにが面白いんだろうと思ってアマゾンで星5のレビューとか読んでみたら、けっこう「自信をもらいました!」っていう感想が多くありまして、意外に多崎つくるという主人公に感情移入している人が多いことに気づくのです。個性のない、なんのとりえもない、そんで自信がもてない、自己評価が異様に低い、こういう人は世のなかにたくさんいますし、この小説を読んで主人公に同化して「よっしゃ、なんか自信出てきたわ」ってなる人は、それはもちろん悪いとは言いませんが、そういう人はもともとかなり健康なお方なのではないのかと思いました。生きづらさを感じている若者へのエールって書いてる人もいたけど・・・いやーすれてないですなみなさん・・・。まさに生きづらさを感じている者の代表として言わせてもらいますとボクは読んでるあいだ、終始、「多崎つくると俺は違うからなー」と思っておりました。だってあれだぜ。ラストで恋人からの電話を待ってる時にオリーブグリーンのバスローズきてカティーサークのグラス傾けながらウィスキーの香りを味わってんだぜ? オリーブグリーンってクソ緑だぜ? 趣味悪くね? そんで「孤独だ・・・・」とかつぶやいてんだぜ? 石田純一なの? 孤独ってこんなオシャレだっけ? こんなやつに感情移入なんかできませんわな・・・。しかもこの小説の着地点も、シロというミューズを失った主人公が沙羅という新しいミューズと出会うという、「けっきょく恋愛だよねー」としか言い様がないイラッとくる結論だし。なぜイラッとくるかといえば、「それができない人はどうするの?」と読んでいて頭に疑問符が湧いたからであります。これを救済とか、救いととるなら、こんな残酷な救いはありませんな。沙羅という見ただけでズキューンとなる女に物にしないと自信を取り戻せないなんて・・・。そんな女に出会えないのが大多数の人生なのに・・・。なんでこれをよしとしているんだろうって思ってアマゾンのレビュー読んでたら、ひとりぼっちな男が救済されて元気出すにはやはり沙羅のようないたれりつくせりな女性に手伝ってもらわないと、、というかこんな女性に救済されたいなぁ、、とくたびれ果てた男どもが勝手に妄想するのが沙羅なんです。って書いてあって、あぁなるほどと納得いたしました。これはつまり、孤独なサラリーマンの妄想小説なのですな・・・。いやー・・・そんなイカ臭い妄想には付き合っていられません・・・。



▲:オバマがノーベル平和賞を取っている。アホな経済学者が「リベラル」(国際金融資本の犬)だからという理由(恐らく、それだけ)でノーベル経済学賞を取っている、スティグリッツとかグールマンとか。
 ノーベル賞が、金融資本家のためにある「人類洗脳の道具」だと考えると理解しやすい、といっても、もちろん、科学系(物理化学医学)は異なるけれども。
 国際金融資本・アメリカ民主党・国務省の言うことに反対しては、ノーベル賞はもらえない。
 犬として懸命に醜態を晒している大江健三郎が好例。
 で、その大江の後に「乞食のようになってノーベル文学賞を追い求めている」のが村上春樹。
 村上春樹にノーベル賞を取ってもらって、メディアで利用しようとしているのが日本のすべての出版社、すべての新聞社、すべての放送局。だから、村上春樹のクズ小説をけなすような文芸評論家その他は「完全に干されてしまう」。
 でも、そんな滑稽な世界とアマゾン書評は関係ない。
 だから、村上春樹のクズ小説を星一つと評価することに1万人以上が「やっと本当の意見を見つけた」と喜ぶ。



村上春樹 バカボン作家 10・24 040408 8・2 8・3 5・6・3
村上陽子 村上春樹の妻 夫の『出世』のためには丸谷才一にすら取り入ろうとする 4・8・3


 以下は、2005年のブログから再録しておく。


2005.06.03
大江健三郎と村上春樹について 週刊朝日の2002年の書評より  [ カテゴリ未分類 ]     

●『これをもって小説は最後にすべし
 作品を発表する度に「これが最後の小説である」と公言してきた作家がいる。大江健三郎である。
 もちろん、そんなことを作家が言う必要はない。書き終えた後死ぬか、もう書けなくなれば、それが自動的に「最後の小説」になる。なぜ、わざわざ「最後の小説である」と言わねばならないのか。自分を見捨てた読者に戻って来てもらいたいからである。
 簡明に言う。大江健三郎は子供のままついに一度も成熟することのなかった作家である。彼は若くして作家となった。初期の作品はたいてい西洋の翻訳作品の口真似である。長じて、彼は自分自身を小説の主人公に据えるようになった。しかし、彼はいつまでたっても子供のままであった。
 大人とは、自らの行動と言葉に責任を取ることの出来る存在をいう。それに対して、子供は自身の行動と言葉に責任を取らない。嘘と言い訳で自らを正当化する。紙数がないので詳しくは書かない。しかし、ある時期以降の大江健三郎の小説は全てそうである。最初に気付いたのは、身銭を切って本を買う読者であった。当然だろう。子供の言い訳を金を出して読む必要などあるものか。
 果たして、大江健三郎の最新作『憂い顔の童子』は、そんな作者の言い訳の集大成となった。
 作者とおぼしき主人公「長江古義人」が、この長く退屈な小説で言っているのはたった一つのことだけである。それは自分の生涯と自分が書いてきた小説には「深い意味」があるということだ。もちろん、大江健三郎はずっとそのことばかりを書いてきた。しかし、古義人の故郷である四国の「谷間」を舞台としたこの作品では何と、それを「客観的に」証明すべく、「ローズさん」という自分の作品を「研究」するアメリカ人女性まで登場させている。
「古義人はそれをローズさんに話した。
 ――あの時、腹は立つし無力感は大きいし、まあ恐慌状態だったといってもいいけれど、この間は私が酔っぱらっているのと、土地のアクセントの五十男に付け込まれる感じとで、同じ反応をしてしまったんだね、その後でやったことも、まあ、正気じゃなかった。しかし、ドン・キホーテ的な狂気などとはいえないなあ。
 ――ナボコフが『ドン・キホーテ』と同じ年に書かれた傑作だといって、そこから引用もしている『リア王』の、あの錯乱に近かったのじゃないかしら?
 そこで古義人は、これも新しい岩波文庫を探して来て、ローズさんに確かめた四幕七場の台詞を読んだ」
 実際、この辺りを読んでいると「大江先生、いくらなんでも本気ではないでしょうね?」と言いたくなる。
 研究者や主人公(作者)の調べたところでは、この主人公(作者)のやっていることは全てセルバンテスの傑作『ドン・キホーテ』の主人公と同じ(で深い意味を持っているの)である。「ドン・キホーテ」は「ハムレット」と並んで、近代文学が産んだ最大のキャラクターである。一人悩む「ハムレット」があまり流行らなくなってからは、「ドン・キホーテ」こそ近代文学の魂を代表する存在と言っても構わないだろう。ならば、「ドン・キホーテ」に擬されることは、作家にとって無上の光栄に他ならない。
 しかし、これは明らかに「お手盛り」の光栄である。作者が「ドン・キホーテ」的と考えて書いた主人公を巡る行動はどれも――主人公の障害を持つ息子とローズさんに向けた水泳教師の差別的言辞、地元の中学生達の悪戯、料理屋での主人公の県会議員に対する「キレ」具合、ホテルオーナーのセクハラ発言、六〇年代風デモの再現――笑いもユーモアも感じられない、目を覆いたくなるような馬鹿馬鹿しいものばかりだ。もし作者が、本気でそれを「ドン・キホーテ」的と考えているなら、ローズさんはこう言ったのではないか。
「これ以上書くのは恥の上塗りになるから、本当に最後の小説にして!」(虫)』


●『カフカが泣いている『海辺のカフカ』
 村上春樹という人の『海辺のカフカ』という評判の新作を読んだ。一言でいうと、分からない。読んで分かった人がいたら教えてほしい。
 私はテーマが分からないとか、メタファーが分からないというような高級な問題について書いているのではない。登場人物の行動やセリフが全く理解できないのである。
 この小説の主人公の十五歳の少年は、「父を殺し、母と姉と交わる」という、オイディプス王のそれに似た予言を父からされる。この十五歳の少年が、いつもの村上春樹の登場人物と趣味や発言が一緒で全く十五歳らしくない、などというようなことに文句は付けない。そんなことを言っていたら、この小説は一頁も読めないからである。
 小説が進行するにつれ、予言された母らしく人物と姉らしき人物が出てきて、予言と同じように少年と「交わる」らしい行動をする。「らしい」というのは、いくら読んでも、そこに現実感が伴わないからである。「らしい」行動は、少年と母や姉の間に起こるだけではない。どの人物の行動も、唐突でかつ説得力は皆無である。
 それは、この小説の登場人物たちが夢と現実、あるいは、生と死の間を往来するからだろうか。
 そうではない。例えばこの小説の中で称揚されているカフカの作品は、もっと現実離れした世界を描いているが、無慈悲なほどに明快である。なぜなら、現実とは別の論理を持った世界が存在していることを読者に伝える術をカフカは知っていたからである。
 だから、カフカはこの小説のような曖昧模糊とした作品を、一度として書かなかったのである。
『海辺のカフカ』が分からないという私に、友人は「あの人の小説はゲームのようなものだから」と教えてくれた。その一言で、私の目から鱗が落ちたのである。
 この小説は、例えばカフカの小説ではなく、テレビゲームによく似ている。というよりそっくりだ。
 ロールプレイングゲームの主人公たちは、その道中で、敵と戦い、謎を解き、秘密の宝を発見して最後の城に到達する。しかし、そこには本当の謎も発見も存在はしていない。
 なぜ、ゲームには「経験値」という概念が存在しているのか。それは、ゲームの中では、誰も、本当には何も経験などしないからである。
 実のところ、ゲーマーがどんな道を歩もうと、敵は勝手に倒れ、謎は自動的に解かれる。目を瞑っていても、よそ見をしていても、最後には必ずゲームは終わるのである。
『海辺のカフカ』は、読者が参加するロールプレイングゲームだ。
 解かれる秘密は「文学」とか「小説」とか「魂」とか「死」である。いや重々しく、謎めいていれば何でも構わない。もし、これが小説であるなら、読者は頭と想像力を働かせなければ一歩も進めない。しかし、このゲームのキャラクターたちは、レベルが上がるごとに何でも詳しくその秘密を教えてくれる。いや、都合よく秘密を教えなければ、この小説は一歩も前へ進めない。だから、彼らは焦ってしゃべり、無闇矢鱈と行動に走るのである。
 イェーツ、カフカ、ギリシャ悲劇、ベルグソンからヘーゲルまで、あるいは戦争からカーネル・サンダーズまで、文学くさい、あるいは深刻そうなアイテムを満載したゲームをやりながら、読者は自分を主人公の少年に擬し、いつしか自分が一歩進んだ人間になった気分になる。
 しかし、言うまでもないことだが、それは錯覚に過ぎない。
 これは小説ではなくゲームである。しかも、ゲームとしてもお粗末だと言わねばならない。最初の数頁を読めば、主人公の少年が「経験」を経て、元の世界に戻って来ることがすぐに分かるのである。一体、誰が結末の分かったゲームをやりたがるのか。
 いや、どうせゲームなんだからそれで十分と作者は思っているのだろうか。(虫)
(引用終わり)

 この(虫)という匿名の書評子は、別のところではトンデモナク愚劣な意見を述べているが(北朝鮮拉致被害者について)、上に全文を引用した大江健三郎・村上春樹への言葉は的を得ている。初めてこの文章を読んだとき、「マスコミの中にも、ちゃんと事実を理解している人がいて(つまり、大江・村上が救いがたいバカであることを知っている人がいて)、ただ『生活のために』バカをバカと言えないだけなんだな……」と知った。
 それなら私にも解る。いや、日本の中の「組織」に属している人間なら、誰だって理解できる。組織の中の上司・権力者に刃向かえば、いかに陰湿なイジメが待っているか、日本人なら誰でも知っている。(子供たちのあいだのイジメは、大人のイジメの「練習」に過ぎない。肉食動物の仔が親の捕食行動を「真似て」覚えてゆくように、日本人の子供は罰せられないことをいいことに、イジメを小さいうちから練習しているのである。)
 さて、大江や村上が、岩波・講談社・新潮社・文藝春秋といった「寡占状態」にある出版社に「睨みをきかしている」以上、出版界・マスコミで生きてゆくためには、このバカの双璧に逆らうことはできない――女房子供を養うためである。
 そんな中で、『週刊朝日』が、大江と村上がアホであることを誌上に掲載したのは、匿名の書評であれ、大いに評価できることである。もっとも、大江を罵倒してしばらくしてからこの書評はストップとなり、その後しばらくしてからこの週刊誌に、大江健三郎の愚にもつかない文章が連載されるようになったのは、笑い話である。
 大江健三郎がノーベル賞を取ったとき、私は「ノーベル賞って読む価値のある作家を表彰するものではなく、愚劣な作品を吐き出していても政治力で勝ち取れる賞だったんだな」と認識することができた。
 村上春樹の『海辺のカフカ』がドイツで大いに売れていると新聞記事で読んだときには、「ドイツ人の中にも愚かな読者はたくさんいるんだな……」と、当たり前のことだが、初めて認識できた。

▲:2013年の追記
 で、結局、大江についても村上についても、実に正鵠を射た評価をしていたこの書評子は、干されて、消えてしまったようである。
 朝日新聞(を代表とする日本のリベラル・そのトップは三井)にとって、大江や村上は「使い勝手のいい操り人形」なのであり、この人形を使って国民を簡単に騙せると思っている。だから、その人形が「阿呆のクズ」であると本当のことを言うような反逆者は、表舞台から追放されるのが日本である。

 尖閣諸島は中国のものだ、みたいなことを大江健三郎は述べている。
 ノーベル乞食の村上春樹も、似たようなことを応えるだろう。試しに、竹島や、コリアンがやっている慰安婦捏造問題についてしつこく訊いてみるといい。大江と同じような返答を村上もすることだろう。そうしなければ、アジア人枠のノーベル文学賞を「白人リベラル組織」から与えて貰えないのだから。

 「御主人様」から、骨おやつ(ノーベル賞)を投げ与えられて、ワンワン吠えて喜ぶであろう村上春樹の姿がそのうち見られるだろう、アジア人枠があるから、あの中国人の次には投げ与えて貰えるだろう。アジア人懐柔のためのものであり、優れた文学とは何の関係もない。
 それにしても、イカ臭いクズ小説を褒め上げているのが内田樹(朝鮮学校無償実現運動家)とか、鴻巣友季子(ダメ翻訳家)とか、リベラルのいつもの飼い犬ばかりなのにはウンザリする。