ページ

2013年5月22日水曜日

『アメリカ「対日感情」紀行』横田増生(2003)より

P266以下
ダワー 私はこの本(『敗北を抱きしめて』)で「永遠に変わらない日本」という固定観念に挑戦しているんだ。「大和魂」や「和を尊ぶ日本人」、「天皇を中心とする神の国」といった、未来永劫変わることがないと思われている「日本人論」を突き崩すことにあるんだ。歴史家として見れば、日本は絶えずダイナミックに変化している国だ。私にとって、日本とは複雑で多様でさまざまな対立関係を内包した国なんだ。これは日本の一般的なイメージとは正反対だろう。
 この本では、日本の終戦直後に焦点を合わせ、できるだけ多くの市井の日本人の声に耳を傾けることで彼ら自身に当時の日本を語らせる方法をとった。因襲を打破しようという民衆の子不ルギーは、「権威に盲従する日本人」とか「自らを統治できない日本人」というこれまで信じられてきた日本人傑を否定するものだった。日本のエリート官僚や政治家の発言が、しばしばステレオタイプを強めるのに対して、民衆の声は実に多彩だった。
--日本人は、なぜ忌みきらうべきはずの“敗北を抱きしめた”のでしょうか?
ダワー 日本人にとって、太平洋戦争とは、甚大な数の死傷者と軍事政権による圧政を意味していた。負けはしたけど三〇〇万人以上が亡くなった戦争が終わったことで、人々はホッと胸をなで下ろしたんだ。この戦争では、日本の敗戦が避けられなくなったあとでも、おびただしい数の人々が死んでいった。彼らは、天皇が命令したという理由だけで死んでいったんだ。とくに、沖縄戦や特攻隊員の死は悲惨だった。特攻隊員は、お国のために喜んで死んでゆきます、と遺書に書き残したかもしれないけれど、それ以外の選択は許されていなかった。それに、当時の日本の軍事政権は、国民を厳しく抑圧し、言論の自由も認めなかった。そのころの日本はけっして住みやすい国ではなかった。だから、戦後の日本人は、抑圧からの解放や民主的で非軍事的な社会を作るチャンスを“抱きしめた”んだ。
――いわゆる「平和憲法」について、教授は、アメリカが一方的に日本に押しつけたのではなく日米合作の産物だと書いています。
ダワー アメリカが戦後の日本の進む方向性を打ちだしたけれど、そのなかから最終的に何を取り入れて何を捨て去るのかを決定したのは日本人だった。アメリカが率いるGHQは、日本人の気持ちをできるだけくみとって占領が終丁したあとも生き残るような政策を作ろうと腐心した。その意味では、戦後の日本は、日本とアメリカが一緒に作ったと言える。アメリカが日本の憲法の原文を書いたというのは事実だ。けれど、戦争という悲惨な体験をしてきたからこそ、日本人にとって平和が大きな意味を持つようになった。交戦権を否定した平和的民主主義という考えは戦後の日本固有のものであり、アメリカの持つ平和や軍備に対する考えと大きく異なるのはこのためだ。
 長らく政権党の立場にあった自民党が、この憲法を書き換えようとしてきたにもかかわらず、日本人はこれまで一行も変えていない。それは、日本人が平和的民主主義を支持してきたことの証明なんだ。『敗北~』では、憲法に民衆の意向が多く反映されていることを証明しようとした。たとえば、憲法の文章には、難解な文語体をやめ、だれでもわかる口語体を遣おうと発案したのも日本人だった。
――全一七章あるうちの三章を割いて、昭和天皇の果たした役割について言及してあります。昭和天皇がどれほど「したたかに」責任を回避したかが描かれています。ダワー教授は、昭和天皇に戦争責任があったとお考えですか?
ダワー もちろん、あったと思っている。戦時中に下された天皇の決断が、日本や隣国に悲惨な結果をもたらしたのだからね。昭和天皇は、自分の名の下に行われた戦争に深く関与していたし、戦場で何か起きているのかも充分に知っていた。国民に向かって自分のために戦って死ぬように、と命令したのも天皇だった。天皇は軍部の操り人形であり本当は平和を愛する君主だった、というのは戦後になってアメリカと日本が広めたイデオロギーにすぎない。天皇を戦争責任とは無関係であるように描くのは、歴史を真摯に見つめる姿勢とは相反する。
――『敗北~』には、対照的な二枚の天皇の写真が並んでいます。一枚は、軍服を着て白馬にまたがった大元帥としての戦前の天皇。その隣には、国民と同じ高さまで降りてきて国民に向かいあいさつをする戦後の天皇。
ダワー 昭和天皇は興味深い研究対象ではあっても、魅力的な人物とは言い難い。敗戦前の天皇は、民主主義に興味を持っていたとは思えないし、国民の幸福について関心があったようにも見えない。戦後になって、彼が人間宣言をだしたり、全国巡幸をするのは、戦争への関与を反省したからではなく、自分の天皇として地位と皇室を守るためだった。それが彼の使命であり任務だった。
 多くの日本人にとって、天皇の名の下に肉親が死んでいった戦争が終わったあとで、その天皇自身が戦争とは無関係だったというのだから、納得できない気持ちが残った。憲法第一条には、天皇は「日本国民統合の象徴」と書いてあるけど、私には無責任の象徴にしか映らない。私は、彼が自らの責任を真剣に受けとめた上で終戦直後に退位して、昭和という時代を終わらせるべきだったと思っている。そうすれば、戦後の日本はよりよい国に生まれ変わることができたはずだから。
――教授は、現在の天皇制が明治時代に入ってから作られた「伝統の創造」だ、と主張されています。
ダワー 歴史学には、一見矛盾するように見える「伝統の創造」という言葉がある。それにぴったり当てはまるのが、日本の明治以降の天皇制なんだ。幕末になって、尊王攘夷派が江戸幕府に対抗する口実として担ぎだしてきたのが京都でひっそり暮らしていた天皇宗だった。日本人はそれまで、必ずしも歴代の天皇を大切にしてきたわけじゃない。それどころか、例外をのぞいては、ほとんど天皇家に注意を払ってこなかった。そこで、天皇を君主に据えた尊王攘夷派は、家系をさかのぼって神武天皇を建国の祖に祭りあげることで、伝統を創造したんだ。戦後、これにアメリカが加わって、今度は象徴天皇制とすることで新たな伝統に衣替えした。



P203以下

「愛国心とは、世界との共存を前提にして祖国にとってベストだと信じることを実行することだ」
★ワシントンDC 2001年5月21日
マーチンーハーウィットさん 69歳
スミソニアン傘下にある国立航空宇宙博物館の元館長、原爆展の企画を推進
「展示会が中止になったのは、退役軍人たちが自分たちが記憶した歴史を唯一の歴史観としてスミソニアンに押しつけようとしたからだ」
 ハーウィットさんは、グラスに入った水を口に含むと淡々と語りだした。
 「彼らは、日本との戦争が長引けば本土上陸が避けられなくなり、100万人のアメリカ兵が死傷したと信じてきた。原爆が戦争を早期に終わらせたことで、命拾いをしたと思いこんできた。だから、展示会では原爆投下を成功させた彼らの功績を祝賀するべきだと主張したんだ。一方われわれ博物館は、トルーマン大統領がどうやって原爆投下を決定したのか、果たしてその決断は正しかったのか、日本を降伏させる他の方法はなかったのか、などを問いかけようとしていた。最近の研究で、アメリカが終戦後のソ連との交渉で優位に立つために原爆を使ったこと、日本に天皇制の保持を約束すれば原爆を投下せずとも日本が降伏した可能性が高かったこと、などの新しい事実がわかってきた。原爆に関する賛否両論をバランスよく展示することで、見学者が判断できる材料を提供しようとしたんだ」
 しかし、退役軍人や軍関係者は、「新しい事実」にも「バランスよく展示すること」にも興味がなかった。彼らは、原爆投下に疑問を投げかけるものすべてに嫌悪感を抱いていた。彼らは原爆投下を正しいものとして、ただ誉めたたえよ、と博物館に迫った。
 まず私は、ハーウィットさんが本(『An Exhibit Denied』)を書こうと思った動機について尋ねてみた。
「反対の多くは展示会の初稿にもとづいていた。反対の理由として、前後の文脈を無視して引用されたのは『多くのアメリカ人にとって、それは報復の戦争だった。多くの日本人にとって、それは自分たちに固有の文化を欧米の帝国主義から守る戦争だった』という個所だった。その文章が原稿から削除されたあとも、圧力団体やマスコミが繰り返し引用することで、博物館が反アメリカ的で、歪んだ展示会を関こうとしていたという間違ったイメージが広がった。私は、博物館が本当は何をしようとしていたのかを伝えるために本を書いた」
 本に引用される反対陣営の内部文書には、その品位を疑いたくなるものが多々あった。彼らが展示会に好意的だった軍関係者に脅しをかけたり、表向きは展示会を支持していた軍事研究家が裏では博物館を攻撃する手紙を書いたりしていた。本のなかでハーウィットさんは、そんな陰湿な文書を引用しながらも冷静に筆を進める。
「そんな文書を読むのはおもしろくなかった。けれど、もし私が怒りを前面に押し出したら、読者は私が自分に都合のいいことだけを書いていると思うだろう。できるだけ感情を抑えて書いた方が、私の主張が伝わると思った」
――はじめから本を書くつもりだったとしか思えないほど、克明な記録が残っています。日記をつけていたのですか?
「館長に就任してからは、秘書が毎日のスケジュールを管理していた。毎朝、その日の予定が書き込まれたインデックスカードが手渡される。私はそれを引き出しにしまっておいて、一年たつと輪ゴムではさんで次の年のカードを重ねていった。だから館長だった七年間、いつ何をしたのかが正確にわかるんだ」
 ハーウィットさんは、第二次世界大戦前にユダヤ系住民としてチェコスロバキアに生まれた。戦時中、ユダヤ人を迫害するドイツ軍から逃れるため、家族で隣国に亡命。祖母や伯父が強制収容所で亡くなったハーウィットさんは、ヨーロッパをドイツから解放するために戦ったアメリカ軍には「今でも深い感謝の念を抱いている」と言う。戦後になって一家はアメリカヘ移住してきた。ハーウィットさんが15歳のときである。
(中略)

 ハーウィットさんは、準備を進める段階で、日本からも展示会への理解を得ることが必要だと考えた。合わせて三〇万人近い死者をだした広島と長崎の爆心地の実状を伝えるセクションのために、両市から資料を借りる計画を立てたからだ。ちなみに、9・11以降、現場となった世界貿易センタービルの跡地を「グラウンド・ゼロ」と呼ぶようになったが、この言葉は最初、広島の原爆投下跡地に使われたものだ。
 ハーウィットさんは二度の来日で、歴史の認識について日米の間に埋めがたいギャップがあるのを実感した。
「日本での滞在中、われわれは歴史的に正確な展示会を目指しているのであって、広島や長崎の主張する“被爆者メッセージ”である核兵器全廃を代弁することが目的ではない、と粘り強く説明する必要があった。日米間の戦争は、日本がパールハーバーを攻撃したことではじまったし、また日本は戦中に捕虜や一般市民への虐待も行った。そういった歴史の流れから切り離して広島と長崎を単なる犠牲者としてとらえるのは、展示会の趣旨にそぐわなかったんだ」
 ハーウィットさんの訪日後に広島市長から送られてきた手紙に、日米の立場の違いがはっきりと表れている。市長は、資料を貸し出す条件をこう書いた。
「原子爆弾を人類史上最初に役下された広島市民は、その悲惨な体験をもとに、今日まで核兵器の廃絶と世界の恒久平和を訴え続けてきた。このことをふまえ『ヒロシマの心』が充分に反映できるような展示構成とすること」
 日本人の目から見ると、世界中が被爆者の苦しみである「ヒロシマの心」を共有しているような錯覚に陥る。しかしハーウィットさんの言うように、原爆の犠牲者である日本人は、同時にパールハーバー奇襲の加害者であり、アジア諸国にとっては侵略者なのだ。
(中略)

 ハーウィットさんは、自らの従軍体験をもとに独白の核兵器観を持つようになった。博士課程に進む前に徴兵された50年代、ビキニ島近くの水爆実験に立ち会った。
「水爆が爆発した瞬間は夜が昼に変わったようだった。大きな火柱が信じられないスピードで上っていくのを見たんだ。翌朝、放射線の測定に行くと、小さな島の半分が蒸発していた。それを見たとき、核兵器が人類に対して使われるべきではないと思った」
 この独自の核兵器観が、40年後の原爆論争でハーウィットさんを窮地に追い込んだ。展示会まで一年を切った段階で、反対運動は政治家にまで広がった。ハーウィットさんは展示会に反対する議員団と会談した席で、あるタカ派の議員から、「あなたが大統領だったら敵に核爆弾を投下するように命令することができるのか」と膝詰めで尋ねられた。
「そのとき、とっさに水爆実験のことを思いだした。そして、私にはできないと答えたよ」
 この発言によって、ハーウィットさんは国立の博物館を率いるのに充分な愛国心を持っていないと攻撃されることになる。しかし、ハーウィットさんは反論する。
「まずスミソニアンは愛国心を鼓舞するためでなく、知識を普及するために設立された。それに、私にとって愛国心とは、星条旗を振ったり、軍の勲章を胸につけてパレードに参加することではない。愛国心とは、世界と共存することを前提にして祖国アメリカにとってベストだと信じることを実行することだ」
 ハーウィットさんは事態の逆転をねらい、アメリカ最大の退役軍人団体の承認をとろうと動きだした。
 しかし、退役軍人団体がこだわったのが、原爆を落とさずに本土上陸になれば100万人のアメリカ兵の死傷者がでたという推定数字。歴史家の間では近年、この「100万人神話」は戦後になってトルーマンが原爆への批判を封じ込めるためにでっち上げた数字だ、というのが定説になっている。しかし、退役軍人たちは、自分たちの記憶にしみこんだ歴史を修正することを拒絶した。
 博物館がある歴史学者の指摘を受けて、トルーマンが原爆投下以前に報告を受けていた推定死傷者数を25万人から6万人へと訂正すると通知したとき、退役軍人団体は展示会中止へと動きだし、ホワイト・ハウスに働きかけた。ハーウィットさんの上司にあたるスミソニアン協会のトップは、反対運動がスミソニアンの予算削減につながることを恐れて展示会の中止を決めた。95年1月のことだった。
「中止の決定は、スミソニアンの精神に反するものだった。スミソニアンが外部の圧力に屈するという悪しき前例を作ってしまったんだ。そのことで、職員がどれはどやる気を失ったか計り知れない」
 言葉は激しいのだが、口調はあくまでも穏やかなままだった。